仙台が「軍都」と呼ばれ始めたきっかけとなった逸話がある意味、悲話 | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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ちょんまげを結っていた江戸時代から時代は明治に変わり、それまでの「藩」が治めていた領地は「県」という行政区として生まれ変わりました。

 

仙台藩は雄藩でもあり、東北地方の交通の要所、中心都市でもあったので、なにかと頼りにされ(担ぎ上げられ?)仙台という街は中央政府の大事なお役目を担うことが多かった。

 

1887(明治20)年に第二高等中学校が設立され、1907(明治40)年に東北帝国大学が設立されたりして、高等教育の先進地とみなされていたので「学都仙台」と呼ばれておりました。

 

一方で「軍都仙台」とも呼ばれていました。

 

今ではいかめしい呼び名のような感じがしますが、当時は「軍」=「勇ましさの象徴」というプレミア感が高まるネーミングだったようです。

 

確かに仙台には1888年(明治21年)に仙台鎮台を改編して設立された第二師団が置かれていたので、「軍都」という言葉に説得力はありますが、実はこの「軍都」と呼ばれるきっかけとなった出来事があったことをご存知でしょうか?

 

日本史史上、軍がやらかしちゃった事件として有名な「満州事変」が1931(昭和6)年9月18日に勃発します。当時は満州鉄道を中国軍が爆破したので、それを口実として関東軍の軍事行動に発展し、やがて日中戦争になだれ込んでいくわけなのですが、のちにこれが日本側の自作自演だったことが判明します。(なにやってんだか(-_-;))

 

この満州事変での最初の戦死者の内訳は、第二師団歩兵第四連隊(仙台)29名、独立守備隊歩兵第一大隊38名で、満州事変の最初の戦死者は第二師団や東北出身の兵士が多数を占めていたいのです。

 

さらに、満州事変勃発以降から12月2日までの日本軍の戦死者は、関東軍・第二師団・混成第三九旅団・憲兵隊を合わせて戦死者209名、戦傷者473名のうち、第二師団の戦死者133名(64%)、戦傷者297名(63%)であり、満州事変開始後2か月半の時期には、第二師団の戦死傷者は日本軍戦死傷者のおよそ三分の二を占めていたんだそうです。

 

うがった見方をすると、東北の命が「当て馬」にされたのか?

 

当時の日本国民の誰もが望まなかったはずの戦争という修羅の道に突き進むきっかけとなった

自作自演のテロ事件とその後の小競り合いの戦闘。

 

そこには東北の民のかけがえのない命が露と消えたという衝撃の事実があったのです。

 

当時のイケイケどんどんのご時世においては、「第二師団よくやった!」、「東北魂、日本の誇り!」みたいに称賛されて、バズっていたんでしょうけど、兵士の遺族の心境としてはどんな思いだったんでしょうかね。名誉の戦士だけで割り切れる問題だったのか、、、。(-_-;)

 

今回は「軍都」と呼ばれた裏には悲話があったというお話でした。