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2024年(令和6年)1月1日16時10分に発生した能登半島地震は、最大震度7、地震の規模を示すマグニチュード7.6を記録し、20日時点で震災関連死を含め232人の方が亡くなられました。
心より亡くなられた方のご冥福と、被災された方へのお見舞いを申し上げます。
私たちの住む宮城県も、2011年3月11日に東日本大震災という地震と津波の未曾有の大災害に襲われました。
あれから今年で13年。忘れてはいけないはずの防災意識が、どこか薄れかけていたようなところがありましたが、能登半島地震によって緩んだ手綱を引き締め直さなければと思う今日このごろです。
さて、意外と知られていないのですが伊達政宗様が「木曳堀」から礎を築いた「貞山運河)貞山堀)」が実は東日本大震災の津波の減災に一役買っていたという検証が進められています。
貞山運河は仙台湾の海岸線に並行するように下から木曳堀、新堀、御舟入堀から構成されていますが、政宗様が命じて最初に作らせたのが、木曳掘。ついで2代藩主忠宗公の時代に御舟入堀の一部である塩釜湾~多賀城の大代堀が開削され、その後4代藩主綱村公のときに大代から七北田川の蒲生まで延長され、御舟入堀が完成しました。ちなみに新堀は作られたのは明治時代になってからです。
運河群は、大津波の遡上を遅延させ、戻り流れを集約したことによって、減災に対して一定の効果があったと考えられています。貞山運河では、運河の海側の津波遡上速度に比べて、運河から陸側の遡上速度は半分以下に低下していました。また、運河に流入した津波が運河の縦断方向に広がることで、一時的に進行が留まることが確認されています。運河があることで、一定の津波到達の遅延効果があったと考えられるそうです。
また、運河がある阿武隈川以北と運河のない阿武隈川以南を比較すると、運河のある阿武隈川以北の被害が少ないことが確認されました。運河によって、津波の戻り流れが運河や河川跡に集約されて海へ流出したことが、海岸線の被害が軽減した一因と考えられています。
自然に形成された多くの島々や複雑な形状に守られた、松島湾の津波の被害が少なく抑えられ、逆に人工的に作られた仙台湾は大きな津波が押し寄せたというのも、皮肉なものです。
もし、この貞山運河がなかったら?津波はもっと内陸まで押し寄せていたのかもしれない。
政宗様からスタートし、代々伊達家に受け継がれ、明治で完結した運河プロジェクトが実は後の世の津波被害の抑止力として効果を発揮していたんだとしたら、これはもう驚愕の偉大な功績と
言わざるを得ない。やっぱり、天下一の伊達男の英雄度はハンパない。
以前書いた貞山堀の記事↓
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。