貞山堀の「貞山」は政宗様の戒名から来てるの? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

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みなさんは「貞山運河」もしくは「貞山堀」をご存知でしょうか?

 

説明しよう!「貞山堀」とは、塩釜湾から阿武隈川河口までの仙台湾の海岸線に沿って人工で造られた運河であり、大きく3時期に分けて工事が行われている。

 

最も古い時期の区間は,仙台藩祖伊達政宗様の晩年から2代忠宗公の時代につくられたと推定され,阿武隈川河口から名取川河口にいたる16kmの区間で,この運河によって阿武隈,名取両河川を連絡し,伊具,亘理両郡から仙台への水運を開いた「木曳(こびき)堀」が仙台城下へ物資を運ぶ重要な役割を果たしました。

 

次の時期の区間は,塩釜湾と七北田川河口付近までの8kmの区間で,寛文13年(1673)に完成した「御舟入新堀」です。あわせて,蒲生に船溜りを設け,河岸に米蔵を建て,ここを「御蔵場」と称しました。この御舟入新堀の開通に伴い,仙台北方の穀倉地帯からの年貢米の運送が,七北田川河口まで舟で運送することができるようになった分けです。さらに,高瀬堀・御舟曳堀を経由して苦竹御蔵と称する米蔵までも船で運送することが可能となり、塩釜の港から仙台城下への物資の輸送が円滑に行われるようになりました。

 

そして、最後の時期の区間は,木曳堀と御舟入新堀の間の区間で,天保年間につくる計画があったのですが実行されず,実際に開削工事が実施されたのは明治時代に入ってからの明治20年(1886)に完成しました。最後の区間が開通した際に政宗様の戒名である法号瑞巌寺殿貞山禅利大居士から貞山の法名をとって「貞山堀」と命名したのですが、政宗様の時代に完成したものとする誤解を生じることもあったりします。

 

のちに野蒜築港に連動した形で北上運河と東名運河が作られまして、総延長49kmにも及ぶ運河全体を総称して「貞山運河」と呼ぶようになりました。
(厳密にいうと、東名運河と北上運河は貞山堀には含まれないのだそうです)

 今では、仙台港が出来たために、「御舟入堀」は途中で途切れてしまっているんですが、塩釜の牛生町~多賀城の大代辺りに名残を確認することが出来ます。

 

もしも今の世の中が江戸時代からの延長線で継続していて、汽車も電車も自動車も無かったとすると、ひょっとしてこの貞山堀がバリバリ物資輸送路のエースとして活躍していたのかもしれません。逆にこの運河がなかったら、当時の陸運の主な手段は、馬や牛などの家畜に荷物を積んで運ぶ馬引車や牛車や人力で運ぶ荷車や背負いだったり、人や荷物を運ぶために使われていた人足や駄賃馬などでしたから、それはそれは大変だったことでしょう。

 

伊達家が切り開いた「水の道」が領内の人々の暮らしを支える基盤となった。四ツ谷用水といい

民の暮らしをいの一番に考えた政宗様イズムが受け継がれていったということなのですかね。