伊達政宗と梅と言えば、このエピソードですね | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

 

仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂きまして、ありがとうございます。m(_ _)m

 

2月も10日を過ぎましたが、今年は連日のように凍えるような日々が続いております。

 

ここ仙台も最低気温が氷点下を記録する毎日、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

 

コロナ禍ではありますが、春の到来が待ち遠しい今日この頃です。

 

さて、春と言えば日本人の定番メニューとなっているのが、豊臣秀吉の「醍醐の花見」に代表される「桜」だと一般的には認識されておりますが、実はそれ以前は花を愛でるといえば、もっぱら「梅」が庶民にも親しまれた主役でした。

 

「梅」と言って、真っ先に思い出されるの歴史上の人物と言えば、「菅原道真」でしょう。

 

彼が5歳の時、初めて詠んだと言われるのが、梅の和歌なのです。

 

「梅の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある」
(梅の花の色は、紅の色に似ている。阿呼(道真のこと)の頬につけてみたいなあ)

 

栴檀は双葉より芳し、出来る子は一味違うねぇ~。(^_^)

 

そして、彼の代名詞とも言える和歌はこちらでしょう。

 

「東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな」
(東風が吹く春になったらかぐわしい花を咲かせておくれ、梅の木よ。
太宰府に行ってしまう主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ)

 

太宰府に左遷されることとなった道真が、大好きな梅の木との別れを惜しんで詠んだ、渾身の一作。

太宰府天満宮に行かれた方はご存じでしょうが、「梅ヶ枝餅(うめがえもち)」は美味しいですものね。

 

さて、「梅」と言ったら、我らが伊達政宗様も天神さま(菅原道真のことね)に負けないぐらいのエピソード&和歌をお持ちなのです、今回はそれを紹介しましょう。

 

まずは、1593年(文禄2年)に伊達政宗が朝鮮から持ち帰ったとされる有名な「臥龍梅(がりょうばい)」をご覧頂いて、心の疲れを癒やしてくださいませ。

 

 

 

 

実はこの臥龍梅。持ち帰ったとされる木は現在の宮城刑務所にあるのですが、移植や根分けをしたものが宮城県の各所にあるのです。http://tatujin.webcrow.jp/doutiyo103.html

 

この見事な臥龍梅を朝鮮から持ち帰ったというだけでも、さすがは天下の伊達男なのですが、政宗様と梅と言えば、こんなエピソードがありました。

 

平安時代に起きた「前九年の役」。陸奥国の奥六郡を治めていたい安部一族の安倍宗任(あべのむねとう)が捕縛され京の都に連行されたときのこと。

 

奥州の蛮人は花の名など知らぬだろうと、ある貴族が宗任に梅の花を見せて何という花かと問うたところ、

「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」

と歌を返した。

 

実は宗任にはちゃんとした和歌の嗜みがあり、立派な文化人でもあった。教養を侮ったその貴族は逆に恥をかくことになった。

 

時は流れて世は豊臣政権の時代、上洛した我らが伊達政宗に公家が桜の枝を手で折って、「一詠を」と言ったところ、

 

「大宮人 梅にも懲りず 桜かな」と狂歌で返した。

 

この見事な切り返しの意味が、みなさんにはお分かりですか?

 

宗任は馬鹿にした貴族に対して、「お前、なめんなよ」って見事に切り返したのね。

 

宗任と貴族とのエピソードを踏まえて、奥州から来た政宗様を田舎者だと決めつけて、同じようなフリでからかってやろうと思った貴族も凄いんですが(500年以上も前の話を持ち出すんですから)

 

そんな高等な貴族の意地悪なフリをK点越えの大ジャンプでお返しした政宗様!

 

まさに見事な4回転半アクセル」でしたね。

 

オリンピックの大舞台で、ユズ様がチャレンジした記念すべき日にこのお話を紹介出来て、感無量です。この思い、羽生君にも届けぇ~。

 

伊達政宗フリークとしては、春の花咲く頃の持ちネタとしてストックしておきましょうね。(^^ゞ

 

※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。