最近、カズ・カタヤマさんと話していて。

Q.「マニビュレーションの演技の最後を、フラリッシュ的な締めくくりにして拍手を得るのは、マジックショーの中でゲストのジャグラーがいつも大受けするようなものではないのですか?」

A.「考え過ぎ」

 カタヤマさんは、質問に対しては最初にひとつ全体像をぽんと出す、みたいな返答の仕方をします。演技についても同様で、完成形のイメージが浮かぶかどうかを重視します。
 枝葉から始めないと演技が作れない私とは、正反対かもしれません。

 器用さを強調する事の是非は、マニピュレーションという分野を行うマジシャンの議論の対象ではあると思います。
 ただ、目的がエンターティメントなら、どういう構成でも観客が楽しめばいい訳で、たとえばフラリッシュ色が強い演技がいいのかどうかは、極端に言えば「趣味」なんでしょう。
 趣味はまあ、「あれがやりたい」でも、「あれがイヤだからなんとかしよう」でも、演技を作る原動力ではあるのですが、否定するならするでそれに替わるものを見せよ、という事でもあります。


 マイケル・ジャクソンの人間を越えているようなダンスを「器用」という人はいないでしょう。
 同じように、フラリッシュが一線を越えると「器用」ではなくなる、というのはわかるのです。なんと言うか、メカニカルな印象に変わっていきます。

 まあ、マイケル・ジャクソンくらいスゴかったらどっちでもいいや、という気はします。ジャンル分けは、それに収まらない人には無意味なのでしょう。
 それでも、「それはスゴいのだけど、やっぱりマジックがいい」と言うのが私的には大事で・・・・

 いや、やっぱり「考え過ぎ」なのでしょうか。
 分野にこだわるくらいなら、「分野を越える」つもりで行く方が、目標として大きくていい、というのはある気がします。
 スライト・オブ・ハンドによる消失と出現。これは存在感を操る技術とも言えます。
 特殊な演技力を必要とする、ある意味マジシャンのみが使える「技」なのですが、相当な訓練が必要です。細かい注意点がいろいろとありますが、存在感を移動させる場合は、強調と消失をそれぞれ別々に、なおかつ同時に行う、という点で難度が高くなります。
 特に、存在感を消したい場合はどうするのか、がかなり問題です。

 マジックの本でさえ、存在感の強調は時々書いてありますが、存在感を消す具体的な方法を見ることはほとんどありません。
 現代的な教科書では「ないよ!」と強調してしまうと逆効果になる事は書かれています。(それでも、この逆効果になる強調は近代の演技の中でもよく見られます)
 ではどうするのかという事になるのですが、たいていは「さりげなくあらためる」程度の、なかなかイメージが掴み辛い記述になっています。

 小説やマンガでは、時々この手の「存在感を消す」技を使う人が現れます。ドラえもんでは「道具」として出てきました。
 ただ、具体的にそれがどういうもので、どういう原理にもとづくのか、は説明される事がありません。
(唯一私が読んだ事がある具体的な方法は、浅田次郎著「天切り松 闇語り」の「盗みに侵入した家で家人が目を覚ました時に呼吸を合わせてやりすごす方法」です。実用になるのかどうかは試した事がないのですが)


 ここでは、存在感を消すための方法を分類してみます。

 演技者の視線、体勢によって強調された場所とそれ以外の場所。
 演技者の感情による強調とそれ以外。
 物の価値や重要度の高低を設定する事による誘導。
 物を動きの中心となる点に置く事での強調とそれ以外。
 動と静。
 上方への動きと下方への動き。
 唐突な動きと、同じ動きの繰り返し。
 緊張と弛緩。
 力を込める事と脱力。

 ここまでは、存在感を強くする事で結果的に「そうでない」所を作る方法です。
 言ってみれば「派手と地味」ですね。一般的イメージでは急に「あれは何だ!」と空を指差した隙に逃げる、というコメディ的ミスディレクションがそれに当たるでしょうか。
 存在感はゼロになるのではなく「比較的少ない」という状態になります。
 もちろん、基本の一つであり、実用性は高いのですが、強調の必然性を作る策略が必要となります。

 他の物の陰に隠す。
 背景に溶け込ませる。
 色や明るさを暗くする。
 重力に沿って動かす。

 これは積極的に存在感を消す方法です。あまり種類がありませんし、スライト・オブ・ハンドで使えるものは特に限定されます。
 重力に沿って動かすのは、私が「SFコレクションIII」(片山工房)の記事に具体的な方法を書いたのですが、他にこれに触れた記述を見た事がありません。特にシルクのロールバニッシュなど、指先の技巧が使いづらい場合に必須になりますが、一般的にもいろいろな技法の中で組み合わせて使われています。
 上手な人は自然に実行しているのですが、意識して語られる事があまりないのです。


 この中では「脱力」だけが突出して取り上げられますが、正確に言うと「脱力の形のシミュレーション」だ、という所に注意が必要です。
 あまり言われない事ですが、本当に力をぬくと「だらしない」恰好になります。エンターティメントなので、見た目が恰好悪いのもダメなのです。
「きちんとした形で脱力して見える」というのは、本当に力を抜く事とはかなり違います。


 これらの要素は「消失の技術が高くなるとはどういう事なのか」を指しています。
 左右の手だけでこれを行おうとする場合、相当限定された条件ですが、その条件の中で達成された具体的な「型」を、それぞれのマジシャンは持っています。
 マジックは実演してこそ意味のあるものなので、まるで複雑な「振り付け」のような、身体訓練で獲得するものとして伝えられ、表現されます。
 その身体的なスキルは、言葉で伝えたりサジェストしたりできない所が多いため、言葉や文章にした例が少ないのでしょう。体得を目指す人は、練習しているうちに「ああそうか」と言葉以外で理解する瞬間がおとずれます。
 新型ロールダウンは、9/9に基本アイデア、10/7にそこに至る動きのアイデア、11/9に動きの合理化と、なぜか月イチでアイデアが出ています。要するにこの2ヶ月くらいの話なんですね。

 本来なら、全部できあがってから話を書くのがいいのかもしれませんが、日々発展していく様をブログに書くのもまあ楽しいんじゃないのか、という事で試みています。
 いざ出来るようになった後からだと、途中の「難しい所」を忘れてしまうので、自分がつっかえた所を忘れないようにするメモの意味もあります。

 ただまあ、編集されていない生々しい現実は、ドラマのようには進まないので(苦笑)、一般的な話題をはさみながら進行しています。ブログによくわからない話が書かれてたら「ああ、つっかえてるんだな」と思って下さい。
 
 新テクニックの開発は、なんというか、ちょっと進む→進める原動力が生まれる、というループみたいな所があります。
 こいつぁ世界初だ!とかまるでソニーかホンダの技術者みたいな(なったことないですけど)盛り上がりがあるので、練習が進みます。
 そして全体像が見えてくると、その使いどころがだいたい決まって、それなりのレパートリーになる訳です。

 今回の新テクニックはおそらく、150-200人くらいに見せるのに好適な感じに収まりそうです。まあ、コインは見せるのが半分、音を聞かせるのが半分なのですが、音に頼らない分、視覚的な限界でだいたい決まりそうです。
 ヴォードヴィルならちょうどいいんでしょうけどねぇ。現在のマジシャンは、このくらいの会場でやる機会があまりない気がします。50人か、でなければ400人か、みたいな感じで。
(そう言えば、クロースアップのコンテストがよく150-200人くらいの観客になりますか。なんというか奇妙な事ですけど)

「ちいさい物」を大きく見せるのは、ステージングの技量です。
 このテクニックを使う演目を、400人の前で見せられるようになったら完成、という課題を自分に課したいと思います。
 コインの話は一通り書いたので、お休みです。ネタ切れとも言いますね。
 今日のはマジックではなく、神秘体験の話です。

 かつて、呼吸法や瞑想に興味を持ち、いろいろと試してみていた頃がありました。
 小周天の法。一分吸って、一分吐く特殊な呼吸。
 瞑想をつづけるうち、ある時、天から光が差し込み、周囲が開け、意識が覚醒する感覚が……

 おお!
 なんという素晴らしき奇跡が我が身に!
 悟り、それともチャクラが開いたのかッ!

 ……
 ………

 いや。

 違う、どう見てもこれ、ただの脳貧血でしょう。
 だいたい、そんなに細く長い呼吸なんて事をしてて、酸素が足りてるワケがないし。
 
 もともと血圧が低いので、この手の貧血は毎日のように体験してたのですが、時間をかけて起こす脳貧血は、ブラックアウトではなくホワイトインとでも言うような、独特な感じがあります。
 仏教(というかブッダも修行中はバラモン教でしょうけど)の座禅を続けると、途中で悟りと似て異なる「魔境」というのがやってくるそうなんですけど、まあ、たぶん間違いなく、コレでしょう。一種の危機的状況なので、脳内物質も出まくりです。
 やたら気持ちいいんですけど、だから何ってのはありません。クセになって行えば行うほど、脳細胞が死ぬでしょうねぇ。

 かつて、小山ゆうのマンガ「スプリンター」で、100m走のゴール付近では酸欠で「神」を見る、という描写が話題になり、そこだけ他作品にもよく引用されてました。ランナーズ・ハイですね。これと同じ類いのものでしょう。

 でもって、この「覚醒感」「天から光が差し込む感じ」を、修行の成果とか言う話は、神秘体験の例としてやたら目にするワケなんですが。


 体験したので自信を持って断言します。そんなの、無意味。


 ちなみに、ウチの家系は被暗示性が高い割に性格がシニカルで、霊的なものが好きなくせに全然信じてません。ひいおばあちゃんは神道系の霊能者だったりしたのですが、子孫は誰も教祖になろうとせず空席になってます。
 この話を家族にした時も、うっかり神秘体験すると教祖にさせられてお母さん面倒だからあんたちょっとそういうのやめてくれる、みたいな冷たい反応でした。そもそも、神秘体験なんてのはそれ自体は別に有益な事は何も起こさない、というのを見て育ってる訳です。

 マジシャンになったのも、そのあたりの「不思議は大好きだけど神秘は別にどうでもいい」という、ヒネた血筋のせいな気がします。
 1ドル硬貨というと、最近のアメリカでは、2007年から発行・流通している「大統領1ドル硬貨」を指すらしいのですが、ここでは古くからあった「銀貨」の話です。


 銀1オンスのコインとして作られたのが、ワンダラー。
「ダラー」というアメリカの通貨の呼び方は、ボヘミアの1オンス銀貨「ターラー」を真似て作った事から来ています。コインが「ドル」の名前の元だったんですね。
 1794年から鋳造され、江戸時代末期の日本では一分銀3枚と交換された、という、銀ならではの異国の流通が可能な貨幣でもありました。

 何度かデザインが変更され、サイズも時代によって微妙な違いがあるそうなのですが、代表的なものは直径37mmです。通貨としてはかなり大きいコインです。
 後に銀ではなくニッケルで作られた時も、このサイズは継承されました。
 これがマジシャンにとってもなかなか絶妙で、五指に挟んで見せるのにぴったりです。

 コインは、ボールより指に挟み辛いので、挟める限界のサイズもボールより小さいものになります。
 たとえば直径40mmのコインは、45mmのボールと同じくらいの指の広がりが必要です。
 また、ボールは指の広がりが少しくらい不足していても、なんとか持てるのですが、コインは「指先側から見て一直線にする」というディスプレイの必要性から、指をさらに広く開く必要があります。

 37mmは、日本人の手でもそれほど無理がありません。程度問題ですが、女性でも訓練すれば持てるサイズでしょう。4枚持つと累積して幅が増えるので、たった3mmでもかなり違いがあります。

 ただし(四つ玉をおやりになった方はお分かりかと思いますが)、直径4cmでも舞台では決して大きくありません。
 言葉を使わないアクトの場合は特に、照明、音、動作やタイミングをフルに使って、存在感を上げていく必要があります。

「通貨である」という事は、素材の持つ利点です。お金はベタな演目とも言えますが、それだけ注目度も話題性も高いのです。
 ワンダラーは現在では通貨ではありませんが、特有の「雰囲気」があります。
 基本的な形状ですが、個性的な性格を持つアイテムです。

 もしも、意味合いを増す演出があるとすれば、かつて「1オンスの銀」が流通していた、古き良き時代をイメージとして使うのがいい気がします。