マッカーサーが日本を去るときの光景を知っていましたか? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

あなたも「すこっち」に酔いしれてみませんか?

どうも、すこっちです。(^^)

 

実は今、かなり分厚い本を読んでいる。

 

みなさんはこの本の表紙の人をご存知だろうか?

 

下の方に本の題名が書いてありますが、「白洲次郎 占領を背負った男」という本になります。

ページ数にして実に392ページ。現在334ページまで来たから、あともう少しで完読ですかね。

じゃあ、なんですこっちがこの本を読もうと思ったのかといいますと、セブンイレブンにこの白洲次郎さんのまとめ本みたいな本があって、さらっと立ち読みしたら面白そうだったんだけど、さすがにお小遣い制の身では、そんなに本の衝動買いばっかり出来ない。

 

 そうだ!アタシは放送大学生だった。放送大学には東京に蔵書がたっぷりある図書館がありまして、好きな本をネット検索出来る。そして、読みたい本を自分の住んでいる県の学習センターまで配達してくれるという画期的なシステムがあるんです。それで調べたら、この本に行き当たったという分けなのです。

 

最初は本の厚さに読むのに二の足を踏んでいたんですけど、これがですね読み始めたら面白いのなんのって。何が面白いのかって、そりゃあこの白洲次郎さんの破天荒な生き様がなんです。

彼は国会議員でも大臣でも官僚でもない。なのに、吉田茂首相の懐刀として占領下にあった日本の代表として、GHQとの交渉をゴリゴリ進める。なんだったら、アメリカ相手に食って掛かるし、文句も言う。なぜかというと、彼はイギリス留学が長かったんで英語がペラペラだったのね。海外の人脈も豊富で、交渉術にも長けていた。当時としては西洋人とがっぷり四つで渡り合える貴重な存在だったのです。

 

でね、アタシらアラフィフ世代もその後の世代もそうだと思うんだけど、歴史の授業って昭和以降の部分ってほぼほぼ読み飛ばしに近くって深掘りしないから、細かいことはなーんも頭に入って来ていないという方がほとんどではないでしょうか?そもそも、白洲次郎さんのことなんて、名前を聞いたことがあるって人は10人中1人いるかどうかじゃないのかな?

 

だからこうして、何かのきっかけで本でも読まないと知識は永久にインプットされない。

 

今日はこの本からのお裾分けタイムとしまして、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが日本を去るときのお話を紹介しましょう。

 

連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー。彼は 敗戦後の日本に置かれた総司令部(GHQのトップとして絶大な権力を誇示し、日本の民主化を進め、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に大きな影響を与えた人なのである。

1950年に勃発した朝鮮戦争では国際連合軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させたのですが、中華人民共和国の人民解放軍との戦いに劣勢がみられ、北部のピョンヤン制圧から38度線まで撤退。その後核を使うなどと全面戦争発言をしたことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年にとうとう解任されてしまうのです。

 

別に天狗になっていた分けでも、「驕る平家」だった分けでもないんでしょうが、戦争を預かるトップとしては時には過激な発言もしてしまうものなのだとは思いますが、政治の世界の忖度までは配慮が足りなかったのかな。トルーマン大統領からしたら、「あいつ何様のつもりなんだよ!勘違いしてないか?」と受け取られてしまったのかもしれませんね。

 

そして、いよいよダグラス・マッカーサーが日本を去るときが訪れた分けなのですが、もし、みなさんが当時の日本国民だったとして、日本を敗戦に追い込んだ国の占領政策のトップが解任されていなくなるとなったら、どういう感情を抱きますか?

 

「やーい、失言で首かよ ざまあみろ!」

 

「占領下で好き勝手やってくれたなぁ、いなくなって清々するわ」

 

と、当時の日本人でも内心は思っていたんだろうと思うでしょ。

 

違うんです。

 

昭和26年(1951)4月16日、羽田空港からマッカーサーの飛行機が飛び立つことになったのですが、帰国を前にして何十万通というファンレターが日本中から寄せられたのです。前日の15日にはすでに昭和天皇が私人となっていたマッカーサーにお別れの挨拶をするためにアメリカ大使館を訪問している。天皇が公職を持たない私人を訪問したのは、これが最初なのだそうです。

 

16日の午前6時半マッカーサーを乗せた車は一路羽田へと向かったのですが、なんと沿道で見送る国民の数は20数万人だったのだという。信じられますか?朝の6時半ですよ!

占領されてきた国の国民が占領してきた国の軍のトップに対して、これほどまでに感謝の意を表した例は、過去の歴史上皆無なのではあるまいか?と本には書かれている。

 

もちろん空港には吉田首相以下閣僚全員が見送りに来ていて、マッカーサーは吉田茂の方に手を掛け、握手した手を長い間話さなかったそうです。きっと、お二人にしか分からない積もり積もったものがあったんでしょうね。ちなみに、当の白洲次郎さんは飛行場には行かなかったんだそうです。そういう場に姿を見せるのがあまり好きではなかったのと、マッカーサーのことを許せなかった気持ちがあったみたいです。(さすがは白洲次郎さん!意地を張り通してるねえ)

 

そして、アメリカの地に降り立ったマッカーサーを出迎えたアメリカのフィーバーぶりがハンパない。飛行機は真夜中に到着したというのに、ワシントンの飛行場では1万人を超える群衆が彼を出迎えた。その後ニューヨークに向かったが、ここでの歓迎パレードの人手は実に500万人に達し、その数は大西洋無着陸横断飛行のリンドバーグが出迎えられときより100万人も多かったんだそうです。(500万人が自分の意志で集まるって、ちょっと想像できない)

 

かくしてこの年の4月19日の米議会演説を最後にマッカーサーは52年間の軍人生活と別れを告げたのですが、その時に残した有名な言葉があります。それが、こちら。

 

「Old sodiers never die,they just fade away.」(老兵は死なず、ただ消え去るのみ)

 

この本を読み進めていくとですね、いかに敗戦後の日本がGHQから突きつけられた無茶振りなハードルを乗り越えるために、寝る間も惜しんで、ただただ国民を守るために粉骨砕身、身を粉にして頑張ってきたんだなぁということがよーく分かります。

 

本当なら、「いい国作ろう」とか「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」とかよりも、こういう戦後の歴史をこれからの日本を背負って立つ人たちに語りつないでいかなければいけないんじゃないのかなぁと、アタシは思いますけどね。

 

最後に、マッカーサーのいいところを一つ紹介しますね。

 

実は彼の存在はソ連に対する「盾」でもあったのです。極東軍事裁判においてソ連は昭和天皇の証人喚問を求めてきたのですが、彼はこれを一蹴している。また、マッカーサーの指揮下に置かれない独自の占領軍を北海道に派遣したいとソ連が実力行使に出ようとしたときには、「一兵たりとも進駐させたら、ソ連代表部全員を即刻逮捕し、投獄する」と言い放ったそうです。(もし、駐留していたら北海道だけソ連だったかも、、、。)

 

吉田茂はマッカーサーのことを”日本の恩人”と呼んでいる。これはおそらく本心だったのでしょう。なにしろマッカーサーが昭和39年(1964)4月5日に他界(享年84)したとき、当時85歳と高齢にも関わらず、葬儀に参列するため渡米したんだそうですから。

 

興味を持たれた方は、ぜひともこの本は入手困難かもしれませんけど、白洲次郎さんに関する本を読んで、敗戦後の日本の占領下時代のトリビアに触れてみるのもいいブラッシュアップになりますよ。(^o^)