どうも、すこっちです。(^o^)
以前このブログの「すこっち探検隊が行く」で立石寺(山寺)について書いたことがありました。
あの時は、11月の香川旅行の金比羅山のオープン戦(!?)的な意味合いが強かったので、あんまし立石寺の歴史秘話ヒストリアについては、学びが浅かった。
実は今日と明日、アタシは放送大学の面接授業の受講日なのです。放送大学というだけあって、大学の講義はすべてインターネット配信で受講が出来るのですが、卒業するためには、実際にナマの講義を受ける「面接授業」というものを受講し、単位を一定数取得しないと、認定されないという条件があるのです。(上手く出来てるよねぇ~)
というわけでね、朝の10時から夕方5時まで2日間、缶詰になってまいります。
いやんなっちゃうんですが、自分で決めた「修羅の道」だから”是非に及ばず”なんですわな。
今回選択した面接授業のテーマが「生と死の境界を歩く」。
おぉーなんとも重たそうなテーマですこと。すこっちもとうとう死生観と向き合う年令になったのか?いやいや、あくまで複数の選択肢の中から無理っぽくないテーマをチョイスしたというだけのことなので、念のため。
でまあ、スクリーンに資料や写真を投影しながら、先生が講義をするというパターンの授業だったわけですが、その中で1つ知り得た「すこっちの知らない世界」な話があったので、みなさんにもおすそ分けタイムとして、紹介します。
みなさんは慈覚大師円仁って知っていますか?
平安時代天台宗の開祖であり、伝教大師として広く知られる最澄(比叡山延暦寺を開山した人)。慈覚大師円仁はこの最澄の弟子で、山形県の山寺こと立石寺を開山した偉いお坊さんなのです。でね、この円仁さんは立石寺以外にも全国にたくさんのお寺を建てているそうで、調べたところ慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ平泉の中尊寺や松島の瑞巌寺、青森の恐山などはこの慈覚大師円仁さんが作ったんだそうです。
寺作りに熱心だった「寺づくりマスター」こと円仁さんが、ウォルト・ディズニーで言うところの「ディズニーランド」みたいな究極の霊場を作るという構想が芽生えてきた時に、その候補地として最初に狙いを定めたのが、宮城県の秋保温泉で有名な秋保地方だった。
そうして、秋保に「塩滝不動尊」というものを作って、「いざ!秋保版山寺」作りに取り掛かろうとしたのですが、地元の人たちが「仏」を好まず、反対運動が起きて邪魔をされてしまった。仕方なく円仁さんは、この地を諦めて、現在の山形県の山寺こと立石寺を開山するに至ったという先生のお話でした。
おい、おい、おい!!何してくれてんですか!平安時代の秋保のみなさんよー!
あなたたちにもう少し、先見の明があったなら、今頃秋保が山寺みたいな霊場になっていて、全国から「秋保版山寺」に多くの参拝客が訪れて、いい感じの観光スポットになっていたかもしれないし、松尾芭蕉が立ち寄って一句詠んでいたかもしれないのに、、、。(-_-;)
そういえば、似たような話をどっかで聞いたことがあるよ。確か木工芸だったかなんかを
最初は仙台で始めようとした人がいたんだけど、仙台の財界人には理解と援助が得られなくて、山形に行ったら全面的にバックアップをしてくれて、山形を代表する産業の一つに育ったとか。
たぶんこんなのって氷山の一角でしょ。
宮城県や仙台市は所詮は目先の利益、損得勘定に走って、文化や産業をバックアップして時間を掛けて育てていこうという「辛抱」が効かない。山形県は中小企業や個人事業主が多いので、社長さんが多い。ということは、チャレンジ精神旺盛な経営者の鶴の一声で、貪欲に挑戦をしていける風土がある。「損して得取れ」という言葉を実現してるんだね。
一方宮城県や仙台市は東京の「支店経済圏」である。東京と2時間足らずで行き来できるから、トップは支店長止まりで社長が少ない。波風を立てないように自分の立身出世を考えれば、リスクの高い危ない橋は叩いても渡らないのが寛容といったところでしょうか。(パイは大きいから、それなりの数字は確保出来るでしょうしからね)
財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とする BY 野村克也
さて、我が県は何を残そうとしているのかなぁ。