どうも、すこっちです。!(^^)!
始まりがあれば、必ず終わりがある。10連休も今日が最終日。みなさんはエンジョイ出来ましたか?
GW特別企画と題した政宗の「もし、たら・れば」企画も昨日でアタシがみなさんに伝えたいなあと思っていたことは大方伝えられたかなって感じがしています。今日はその番外編としまして、普段はじぇんじぇん気にしてないんだけど、実は凄いものだったあるものについて紹介したいと思います。
仙台城跡にある、皆さんよくご存知の伊達政宗の騎馬像。↓
この騎馬像の台座部分をよーく見ると中央に「伊達政宗卿」って書かれていますよね。
じゃあ、問題です! この「伊達政宗卿」って字、誰が書いたんでしょうか? 制限時間1分。チッ、チッ、チッ、チッ、チッ。ブッブー時間切れ。
って言うか、まず分かんないと思います。(実を言うとアタシも今日、知りました)
この「伊達政宗卿」という文字を揮毫(きごう)(毛筆で文字や絵を書くこと)した人は斎藤實(さいとうまこと)さんと言います。そう言われても、10人中10人が「はあっ どこの誰?」となるでしょうな。この斎藤さん、実はすごい経歴の持ち主なのである。安政5年(1858)水沢伊達(留守氏)の藩士の子として生まれたんだけど、大変優秀で13歳で当時の胆沢県の給仕として働き始める。東京の出張所に異動した斎藤青年は働きながら勉学に努め、15歳で学費の掛からない海軍兵学寮に入学。英語が得意でアメリカ留学や通訳としてヨーロッパを歴訪するなどして49歳の時、海軍大臣に就任。以後、原敬内閣のときに朝鮮総督を務め、な、なあんと昭和7年にはあの五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてしまった後を継いで内閣総理大臣に就任する。このとき、何歳だと思います?聞いて驚いてね、75歳だよ。恐れ入りました。m(__)m
その後、総理大臣は辞めちゃうんだけど昭和11年の二・二六事件で、将校から47発の銃弾を受けて79歳の生涯を閉じてしまうのです。(このとき、高橋是清も銃弾に倒れている)なんだかなあ~超残念。(-_-;)
こんな波乱万丈な人生を送ったビッグネームが、実はあの台座の「伊達政宗卿」の文字の主だったのです。なんでも、斎藤さんは揮毫が趣味だったそうで、私邸には揮毫専用の机があって、多忙でも頼まれれば断らなかったそうです。そして、この騎馬像は政宗公藩祖三百年記念として建立されたもの。この当時、斎藤さんはちょうど大臣なんかの役職に就いてない時期だったので、仙台藩士つながりってこともあって三百年祭協賛会の総裁に就任し、揮毫もお引き受をしたということのようです。(当時の河北新報にも記事が)
仙台城を訪れたみなさんが、必ずと言っていいほど記念撮影をするあの騎馬像。みんな、騎馬像と自分だけ写しちゃってますけど、あの「伊達政宗卿」って文字には、実はそんな斎藤實さんの人生の1ページがぎゅぎゅっと詰まっているんです。今度、騎馬像の前に行ったら、そんなことを思い出して、天国の斎藤さんとお話をしてみるのも悪くないかもしれないですね。
ちなみに、再建された仙台城大手門脇櫓の脇にある「仙臺城址」の石碑も斎藤さんが揮毫したもので、元は仙台空襲で燃えた大手門の近くにあったものを移設したものらしいですよ。!(^^)!