政宗絶体絶命のピンチはいつ? | 仙台城 謎の覆面ガイド「すこっち」のブログ

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平日はフツーの会社員、しかし週末は伊達政宗の居城「仙台城」にてボランティアガイドを務める謎の男、「すこっち」。
ウィスキー好きで名付けたハンドルネームで、ジャンルを問わず、縦横無尽にブログで語り尽くします。

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どうも、すこっちです。!(^^)!

 

昨日までは、「伊達家は存在しなかったかも?」とか「政宗は生まれてなかったかも?」、「政宗って名前じゃなかったかも?」という仮定の話を書いてきましたが、今日は政宗の絶体絶命のピンチについて見ていくことにしましょうか。

 

では、政宗の命がマジで脅かされた時っていつなんでしょう?

 

そうねー、5歳で疱瘡に罹った時も命の危険があったと言えば、あったよね。当時はこれといった治療法も無く、罹った人の半分は命を落としていたらしいから。でも、そこはね、政宗持ってますから右目と引き換えに命は取り留めますんで却下。

 

次は政宗毒殺疑惑!義姫が小次郎可愛さに政宗を毒殺するっていう大河ドラマでは有名なシーンなのですが、最近の時代考証ではこの義姫毒殺説はきれいに否定されてますんで、こちらも却下。

 

そーなると一番の絶体絶命のピンチと言えばこちらでしょうね。

 

1585年10月の「人取り橋の戦い」

 

これって、政宗が畠山義継の自爆テロにプッツンしちゃって「クリリンのことかー!」みたいになって、怒りにまかせて二本松城に攻め寄せてるうちに、反伊達連合軍(佐竹・蘆名・相馬他)が押し寄せて来たっていう戦だね。この時、伊達軍7,000人に対して反伊達連合軍30,000人。実に4倍以上の圧倒的な兵力差。この戦では、政宗自身も鎧に矢1筋・銃弾5発を受けたんだから、当たり所が悪かったら間違いなくあの世行きだった。敗色濃厚となった伊達軍は鬼庭佐月斎が捨て身の突撃を仕掛けて討死したり、伊達成実の軍勢が挟み撃ちを受けたんだけど、踏み止まって時間を稼いだりして政宗を本宮城まで逃がした。必死の抵抗を試みた伊達軍だったが、多勢に不勢。この日の戦闘は日没コールドとなったが、もはや、政宗も翌日の決戦で死を覚悟したんだと思われる。

 

しかし、ここで奇跡が起こるんだねー。

 

翌朝、反伊達連合軍が忽然と姿を消していたのである。一説には佐竹家の部将・小野崎義昌(佐竹義篤の子で義重の叔父にあたる)が陣中で家臣に刺殺されるという事件が発生したり、、さらには本国に北条方の馬場城主江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報が入ったため、佐竹軍は撤退したと言われているが、政宗の裏工作があったという説もあったりする。

 

急死に一生を得た政宗。ということは、こういう仮説が成り立つ。

 

「もし、人取り橋の戦いで政宗が絶命していたら、、、、。」

当然、その後の政宗ヒストリーは無かったということになる。(>_<)

 

もちろん、この人やんちゃ者だからさ、命のピンチやお家断絶になりそうなピンチは訪れるんだけど、

たぶん、この時ほど命が脅かされた場面って無いんじゃあないかとアタシは思う。

 

みなさんはご存知ですか?

 

今の宮城県や仙台市が、どんだけ伊達政宗人気に依存しているか?

 

もし、彼が歴史の表舞台に登場してなかったらですよ、仙台城も大崎八幡宮も瑞巌寺も薬師堂も五大堂も瑞鳳殿も貞山掘もてれまさむねも伊達正夢も伊達武将隊も大河ドラマの独眼竜政宗も青葉城恋歌もなんだったら今の渡辺謙さんの立ち位置もみーんな、存在しなかったってことになるんですよ。

 

ゾッとするわ。(-_-;)

 

伊達政宗への感謝の意味も込めて、いつかは「人取り橋古戦場」を訪れたいと思う、すこっちでありました。!(^^)!