『日本占領と「敗戦革命」の危機』書評:了 国民と苦楽を共に~敗戦革命を阻止した命がけの全国御巡幸 | ScorpionsUFOMSGのブログ

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■全体主義化を防ぐ中間団体

『熱狂と動員』は、今まで述べてきたような大衆心理、大衆運動のメカニズムを総括し、次のような仮説を結論として提示します。

本書ではつぎのような仮説を立てる。

人口の流動性が高く、それを秩序づける制度化のレベルも低く、社会的不確実性が高いとき、相手が信頼できる(=裏切らない)人間であることを保証する制度としての人間関係、すなわち「親分ー子分関係」が必要となる。しかしこのような人間関係が発達していけば、成員たちの思考様式は、仲間の評判と親分の意向にのみ関心を向けた、きわめて内向きの心理状態によって特徴づけられることになる。

 

そして内向きの「親分―子分関係」に基礎づけられた小集団が、経済資源の不足している領域に置かれれば、彼らは相互に資源を奪い合うだけのゼロサムゲームの関係に陥るだろう。

 

通常、民主制においては、中間団体の利益表出が一種の対話となることがイメージされる。この対話を通じて、より公正な富の再配分に向けて政治が動かされていくことが期待されるのである。しかし、「親分―子分関係」によって基礎づけられた小集団が利益を表出するとき、団体間に対話を成り立たせるのは至難の業である。そのような社会に公共圏の生まれる余地は少なく、そこには基本的に私的利益しか存在できない。

 

そうである以上、「孤立した集団」の利益表出は、権力と富の完全なる私有化を目指す剥き出しの権力闘争に陥る傾向を示すことになるだろう。市民社会論における公共圏の議論と関連付けるならば、外部に開かれた交渉可能な公的なるものの概念をもつことが、「孤立した集団」の成員にとっては困難なのである。

 

しかし経済的資源が決定的に不足しているという条件を真剣に考えるならば、「孤立した集団」の成員にとって、集団の「外部」とは資源がまったく存在しない世界を指し、それは最悪の場合には死を意味する。それゆえに、彼らにとっての「外部」とは、公共圏をめぐる一般的な議論が想定するよりもはるかに過酷で恐ろしい領域なのだと考えられる。

 

このような人々に、「敵ー味方」思考に基づく「正義」の言説を与えれば、交渉や対話を一切拒絶する態度が強化されると考えられる。そして、もしこの新しい「正義」が、みずからの生存を確保するという動機を壮大に正当化するものであれば、大きな熱狂をともなうであろう。ヒトラーがドイツの人々を煽動するとき、ドイツ民族の生き残りという大義名分を掲げていた点を思い出しておきたい。この熱狂は、長期的にみて、社会が民主主義に向かう可能性を破壊していくだろう。

 

では、これら孤立化した家族集団がもたらす大衆運動の先鋭化、拡大を防ぐにはどうすべきか。

先でも述べたように必ずしも武力行使が効果的とは言えないでしょう。

流血は混乱をもたらし、むしろ逆効果となることがあり得ると言えます。

 

そんな中、『熱狂と動員』では「家族集団の孤立化を防ぐ要素として中間団体の存在が必要である」と、再びコーンハウザーの主張を引用しつつ、述べます。

社会的孤立はここで用いられている意味では、より大きな社会への社会的関係の欠如を指すものであるから、個人はたとえ家族の絆をもっていても、その家族集団がより大きな社会にしっかり結びついていない以上、孤立化したものとされる。

 

したがって、ある小さな集団の孤立化がその成員相互の孤立化をもたらしはしなくとも、このような集団の成員は「大社会」の共同生活からは孤立することになる。(コーンハウザー『大衆社会の政治』)

 

より大きな社会のなかに意味のある効果的な参加をなすためには、家族と国家とを媒介する中間集団の機構が必要でありそのような機構が弱いと大衆運動に乗ぜられる隙を与える。というのが本書の中心的命題のひとつである。

家族のように小さな孤立した集団に参加しても、中間集団に参加することの代用にはならない。否むしろ大衆運動への参加に好都合となるだけの場合もあろう。

なぜならば、個人は身近な仲間の支持がえられるとき、なおさら新しい冒険に飛び込みやすいものであるし、たとえ小集団ではあっても、その成員は完全に孤立した人間よりも、大衆煽動の好個の標的となるからである。

 

広くいろいろの分子が入り混じった連帯性は、高度の自由と合意とを確保するのに適している。つまりこのような連帯性は、社会の一系列が支配的になることを妨げる役をし、組織をしてその会員のもっている他のいろいろな集団への加入を尊重させ、会員がそうしたほかの集団との関係から疎外されないように仕向ける

 

我々の使う多元主義の概念には、多様な集団加入ということが含まれている。・・・・・これは大変貴重な事柄である。なぜならば、私的な集団の権威も国家と同様に、抑圧的になりうるからである。

以上の記述から、「中間団体」の要件を二点に要約すると、

  1. 他の集団やより上位の社会から孤立していないこと、集団内部に多様性(現在で言うダイバーシティ)が存在すること
  2. 成員の精神が集団の圧力に歪められることのない団体、成員が精神的閉鎖性に陥らない団体

ということになります。

とはいえ、文字に書けば、なるほどとも思えますが、どうすればこのような中間団体の要件を満たすことができるのか。

実現するにも、どうやって実現すればいいのか、途方に暮れてしまうのではないでしょうか。

 

ですが、そのおよそ実現不可能ともいえる連帯性を実現し、集団の孤立化を防いだのが、他ならぬ昭和天皇と、戦後直後に行われた全国御巡幸だったです。

 

■全国御巡幸の真実 

昭和21年2月から始められた全国御巡幸は、途中、GHQの介入による中断などがありながらも、昭和29年まで8年がかりで行われ、その行程は3万3千キロ、総日数165日にも及びました。

 

鈴木正男著『昭和天皇の御巡幸』(平成4年、展転社)には、昭和21年~昭和29年までの全国御巡幸の御様子、各地でのエピソードが数多く収録されています。本書『日本占領と「敗戦革命」の危機』に登場する福岡県への御巡幸のエピソードもほぼ同じ内容で登場しますが、それ以外のエピソードの一部を紹介すると、

  

千葉県への御巡幸の際は、戦災により宿泊する場所がなく、列車の中で一晩過ごすことになったのだそうです。当然、社内には休むための寝台もなければ、入浴の施設もありません。

それでも陛下は「戦災の国民のことを考えればなんでもない。十日間くらい風呂に入らなくてもかまわぬ」と仰られていたのだそうです。

 

また、福島県では常磐炭坑の坑内も視察されます。

第六坑口で坑内に入る人車に乗って地下450メートルの地底へ降りられ、さらに、そこから坑内を150メートル歩き、居並ぶ坑夫達を激励されます。この時、坑内の温度は40度で、坑夫たちは上半身裸体で働いている状況です。そこを陛下は背広、ネクタイのお姿で半裸体の坑夫たちを激励、誰もが涙にむせぶという様子だったそうです。

 

11月の島根県御巡幸の折は、冷雨が降りしきり、止みようにない日でした。

6カ所の病院、学校、工場などを巡られ、陛下は奉迎場に入られます。この時の奉迎の様子を地元新聞は

「二万人の大観衆は降りしぶく雨の中ずぶ濡れであったが、誰一人傘をさそうとする者はなかった。陛下は市民の熱狂に応えて御帽子を何度も振られるが、その袖口から容赦なく雨が降りかかり、ズボンも靴も泥濘にまみれていた」

と伝えたのだそうです。

 

■酷暑炎熱の東北御巡幸

また東北地方への御巡幸は酷暑炎熱の頃に実施されました。側近ですら7、8月は陛下はご静養され、9月の涼しくなってから再開するものと思っていたそうです。ですが陛下は「この夏は東北を廻らねばならぬ」とお許しになりません。実は、この年は東北六県に大水害が発生し、秋田県などは特に被害が甚大だったのだそうです。

 

『昭和天皇の御巡幸』の中で紹介されている、秋田魁新聞の当時の記事によると

「民情御視察の旅を続けさせられている陛下のこの度の行幸はかつてない耐熱行幸であるが、わざわざこの旅を決定されたのは「東北の運命(食料の増産)は真夏にかかっている。東北人の働くありのままの姿をぜひこの目に見て激励してやりたい」とのお気持ちからの由である。

 

側近たちはおからだにさわりでもあってはと心配していたが、陛下は「国民はみな汗を流して働いている。自分のからだは心配に及ばない」と言われたのだそうである。

その後の、水害に遇って御延期も止むを得ないだろうと心配していると、陛下は「特にひどかった秋田県にはぜひ行って状況を視察激励してやりたい」と、以前ならば侍従にさせられた所をご自身で行かれたい気持ちをもらされていてお出掛けになるとのことである。

 

お迎えする地方では盛沢山の計画でお迎えするが、検分の結果何カ所か取り止めになった。それでも毎朝7時、8時のお出掛けで帰りは午後五時過ぎ、遅いときは9時過ぎのこともある多忙な御日程で、車中でもお応えになるので、御身体の休まる暇はほとんどない。

 

関西の時は時期遅れの6月であったが、自動車の車内空気は外気より5、6度高く30度から35度に上っていた。今度車中の水銀柱はどこまで上るだろう。おそらく真昼の直射の中でお迎えする民衆より耐え難い経験をされるだろうと心配している。側近はお取換のハンカチと途中の御着換を用意して御伴する様子である。

 

御自身の苦痛をこうして覚悟される陛下は、その暑さにお迎えする民衆がさぞ難儀するだろうと心配されて「地方の人達にはなるべく自由に迎えるように、学童たちをどうしても並ばせるときは日陰を選ぶように」と行幸主務官を通じて地方庁に伝えられた。」

のだそうです。

 

■わらじばきの巡礼

長崎では各地を巡られたのち、長崎医大に向かわれます。

長崎医大では、原爆で妻を失い、自身も被爆者治療中に原爆症にとなり、死の病床にある永井隆博士をお見舞いになられます。

博士には闘病中に書いた『長崎の金』『ロザリオの鎖』『この子を残して』等の著作がありました。 

 

陛下は寝台に寝たままの博士の病床へつかつかと寄られ、「どうです、ご病気は」とやさしく問いかけられ、「あなたの書物は読みました」と仰せられ、枕辺の長男誠一君(当時14歳)と長女芽野さん(同9歳)にもいたわりの御言葉をかけられたのだそうです。

博士はこの日のことを、

天皇は神にまさねばわたくしに病いやせとぢかにのたまふ

と歌に詠み、

 

「天皇陛下は巡礼ですね。形は洋服をお召しになっていましても、大勢のおともがいても、陛下の御心は、わらじばきの巡拝、一人寂しいお姿の巡拝だと思いました。」

と述懐し、2年後の昭和26年5月、博士はカトリック信者として一生を終えられたのだそうです。

 

■過密スケジュールの四国御巡幸

QHQによる介入によって中断していた御巡幸が再開されてからの四国御巡幸も各地で熱烈な歓迎を受けますが、過密スケジュールがたたり陛下は体調を崩し発熱されてしまいます。

四国新聞は社説で

「四国御巡幸をつづけられてすでに半ヶ月、陛下におつつがなかれとのみ念じていたが、まことに恐れ多いことである。」

と述べ、次に陛下の御仁徳を心から称えて、

「それだけに御旅路の平安をお祈りすることもまた切々たるものがあったのである。然るにわれわれの胸にひめた憂慮が事実となって現れたことはかえすがえすも遺憾である。それというのも、まるで機械かなんかのように無理な御日程を組み、わずかな御休養もできないための御疲労の上に、春とはいえ風の寒い鳴門の海上にお迎えしたということはあまりにも心なきわざであり、それがお風邪を召される原因となったと考えると、全くおわびの申し上げようもない」

との記事を掲載します。 

御巡幸に同行していたアメリカ人記者も「この四国旅行のような、ただただ身体を酷使する旅行によく耐え得る政治家を日本でもアメリカでも知らない」と語ったほどの過密日程だったそうです。

 

■沖縄で親を失った子ども

滋賀県を訪れたときは、近江学園をご訪問されます。

この近江学園は、戦争孤児、浮浪児、生活困窮児と精神薄弱児が共同生活をする全国でも初めての試みの統合学園で、この日が園創立5周年の記念日に当たっていました。この時の様子を滋賀新聞は次のように伝えます。

不幸な戦争によって両親を失った同園小学部六年の佐々木春雄君(12)は戦争をのろい、天皇をうらんだ子供であったが、天皇が来られるときいた日から彼の子供心に微妙なうごめきがあり、それからは自分から進んで毎日、先生から天皇の話を聞き、新聞をつとめて読み始めた。

それから半月。

天皇がこられる前の日には完全に天皇が好きになって、当日は心から天皇をお迎えしたが、彼の部屋からひろい読みした日記には次のようなことが書かれてあった。

 

「僕は沖縄でタッタ一人になったのだ。僕達の友達もみんなソウダ。みんな戦争のギセイ者だ。天皇は僕たちをみてなんと思われるだろう。不幸な子だと?元気な子だと?僕らは喜んでいるのだ。天皇に会えたんだもの―。お声をきけたんだも―。僕等は不幸からトックにでているのだ。元気で一生けんめい生きているんだ―生きぬくんだ」

 

陛下は御帰りになる際、糸賀園長に「よくやってますけど、引き続きしっかりやってください」との御言葉があった。園長の「身命をなげうってお預かりします」とのお答えに、陛下はニッコリ大きくうなづかれて御乗車になられた。

 

■国民とともに

全国御巡幸における昭和天皇のお姿をみると、『日本人として知っておきたい皇室のこと』で紹介されている昭和61年の読売新聞に掲載された、当時皇太子であった今上陛下の御言葉を思い出さずにはいられません。 

天皇が国民の象徴であるというあり方が、理想的だと思います。天皇は政治を動かす立場にはなく、伝統的に国民と苦楽をともにするという精神的立場に立っています。このことは、疫病の流行や飢饉に当たって、民生の安定を祈念する嵯峨天皇以来の天皇の写経の精神や、また、「朕、民の父母と為りて徳覆うこと能わず。甚だ自ら痛む」という後奈良天皇の写経の奥書によっても表されていると思います。

国民と苦楽をともにする-。

昭和天皇もこの精神的立場に立って全国御巡幸を為されたということは、誰の目にも明らかなのではないでしょうか。

でなければ、猛暑酷暑、寒気凜烈の最中、全国御巡幸をやり抜くことなど到底叶うはずもありません。

 

昭和天皇の信頼が篤かった大金侍従長の言葉に、すべてが集約されている思いです。

陛下の虚心な行動の先きざきでは、我々の複雑な先入観は、常に事実として、払拭される。

そこで、我々はただ日本国民を見る。

党派も階級も貧富も見えない。

我々はただ日本人の血の叫び、魂の交流だけを感ずる。

党派も貧富も階級もその障壁をなさない

陛下の御巡幸が負の感情で塗り固められた人々の心を溶かし、正の感情を呼び起こし、魂を揺さぶったからこそ日本は敗戦革命の危機を回避することが出来たのです。

 

現代においても「皇室は万世一系であり、存在するだけで尊いのだ」と主張する人がいます。必ずしもそれが間違いだとは思いませんが、それだけでは皇室の尊さを説明するには不十分なのではないでしょうか。

 

皇室の何が尊いのか。比肩する者なき最高の権威でありながら、貧しい者や苦しむ者に寄り添い手を差し伸べる、国民のためになることであれば、その身を顧みることも厭わない存在であることが、皇室を皇室たらしめているのではないでしょうか。

 

共産主義者による敗戦革命の恐ろしさ、それに決死の覚悟で立ち向かった日米の保守自由主義者たちの姿、そして何よりも御聖断のみならず、命がけで日本国民を鼓舞し、慰撫された昭和天皇のお姿を御巡幸を通じて知ることの契機をつくってくれた一冊としてぜひご一読して頂きたいです。

 

『日本占領と「敗戦革命」の危機』、おススメです!!

  

日本占領と「敗戦革命」の危機 (PHP新書)