弁護士増員時代であるが、弁護士含めて反対論は根強い。
その理由としてよくあげられるのが、「質の低下」である。
こんな記事があった。
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札幌高裁民事第2部の末永進総括判事が母校の函館ラ・サール高校(北海道函館市)の同窓会ホームページに「弁護士の質の低下の傾向がはっきり窺われる。法廷がロースクール化している」と指摘し、司法制度改革による弁護士の増員を批判する投稿をしていたことがわかった。
現職判事が司法制度改革を批判するのは異例だ。
投稿は5月25日付で、「民事裁判はなぜ時間がかかるのか」という題名。金銭の貸し借りを巡る訴訟を例に出し、弁護士の中には「(審理の対象となる権利や法律関係を意味する)訴訟物という法律用語を知らない人もいる」と弁護士側の調査の不十分さや認識不足を指摘し、裁判の遅延の理由に挙げている。
末永判事は「我が国の裁判制度は、ある意味で退化している」として、弁護士の増加が質の低下につながる懸念を表明。弁護士の力量不足を裁判官が補うために「法廷がロースクールと化する」と指摘した。
法科大学院で多額の授業料を払う必要があることなどについても「裕福な家庭の子女でなければ法曹となれない」と法曹の門戸を狭くしていると言及した。
(2009年7月11日10時53分 読売新聞)
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この記事に対して、いろいろなことが言える。
・弁護士の力量不足を裁判官が補うという発想を裁判官が持っていることへの疑問
・本当に弁護士の質が低下しているのか
・弁護士の質の低下とは何か
・質が低下しているとされている弁護士は本当にロースクール出身弁護士であることを確認しているのか
・ロースクールには裕福な家庭の子女でなければ行けないのか
・質の低下とロースクールには裕福な家庭の子女しかいけないことと論理的関連性はあるのか
等々。つっこみどころ満載である。
数ある疑問点の中で、とりあえず今日は、ロースクールと弁護士の質の低下との関連性ということについて考えてみたい。
(実は、一番興味があるのは、最初に書いた「弁護士の力量不足を裁判官が補うという発想を裁判官が持っていることへの疑問」である。このことは、いまの司法を考える上で極めて重要な視点である。けれど、それは後日考えることにする。)
まず、ロースクール出身弁護士は、ぼくたち昨年の12月から弁護士になった「61期」と、その1年前に弁護士になった「60期」しかまだいない。
人数にして、2500人から3000人の間というところだろうか。
そして、そのうち札幌高裁管内で弁護士をやっている人が何人いるのかは調べていないが、おそらく100人程度であろう。
この札幌高裁判事がいう、「訴訟物という用語を知らない弁護士」は果たしてロースクール出身者か。
弁護士1年生の感覚からすれば、それはありえない。若手であればあるほど、「訴訟物」は知っている。
そのような基礎概念を知らない、というより、忘れてしまっている弁護士はもっとベテランの弁護士だろう。
そもそも、そのような訴訟物などという(あえて誤解を恐れずに言うならば)「どうでもいい」概念を知っているか知っていないかによって、弁護士の優劣を論じること自体が問題があるし、弁護士の優劣は、全く違うところで判断されるべきである。
仮に、「訴訟物」を理解していない弁護士がいることを質の低下だということを是としても、それとロースクール制度とを絡めることは議論のすり替えである。
ロースクール出身弁護士は、まだ2期しか存在しておらず、弁護士としての質を語れる段階にないことは明らかである。
弁護士1年目、2年目なんて、誰もが右も左もわからないに決まっている。今の長老弁護士だって、1年目、2年目はひよこだったに違いない。
それを、拙速に判断すること自体が間違っているし、5年、10年経ってからロースクール弁護士の検証はなされるべきである。
弁護士の「質」とは何か。
それは裁判官が語るべきものなのか。
裁判官が語る弁護士の「質」とはなんなのか。
裁判官にとって都合のいい弁護士が質のいい弁護士なのか。
確かに、弁護士の就職状況は厳しくなりつつあるし、弁護士業も楽ではない。
けれど、そのことと、ロースクール制度の是非、弁護士の質という議論を安易に結びつけてはならない。
早いもので弁護士1年目の上半期が終わった。
時間的な感覚としてはあっという間だった。
その中でも当然いろいろ感じるところはあって、
なんとなく感じたことで今すぐ思い出せることを書き出しておくことにする。
「弁護士1年目でも意外とできるものはできる」
「(交渉の場において)、同じことを言うのにも、白髪、ひげ、しわという三種の神器を持っている人が言うのと、そうではない若者が言うのでは説得力が違う」
「法廷の空間は物理的には狭いけれど、端から端まで歩くには意外と距離があり、歩きまわるのには非常に楽しい空間だということ」
「もちろん結果も求められるけれど、依頼者の"納得感"というものが実はかなり重要なのではないか」
「同期の弁護士がたくさんいるが、それぞれ四方八方放射線状にそれぞれの弁護士業を歩み始めていて、もう同じ地点に戻ることはできないだろう」
「弁護士事務所をやっていくことはなかなか大変だ」
などなど。
日々感じたこと、思ったことや、気に入った言葉など、常日頃から書き留めておきたい。
で、最初に書いた「弁護士1年目でも意外とできるものはできる」という点について、同期の弁護士の多くが多かれ少なかれ感じていることなのではないか。
おそらく、これは事実で、1年目だろうが意外とやれるものはやれる。勉強したての人ほどわかっていることもあるだろうし、若手だからこそできることもあるだろう。
それに刑事弁護という分野では、ロースクール時代から最先端の指導を受けてきて、自分たちのスタンダードは世の弁護士のスタンダードよりもかなり上を見ていると言えそうな気がする。
だが、"意外とやれる"感は心の隅にしまっておくことにしている。
弁護士業、始まったばかりである。意外とやれようが、所詮1年生だ。
今までの学生生活だと、1つのカテゴリーについて最大4,5年程度しかなかった。
4,5年程度しかないのなら、1年目からガンガン行っても良さそうな気はする。けれど、弁護士業は果てしなく続く(人によっては5年とか10年くらいしか考えていない人もいるかもしれないが、少なくとも自分は永遠にやってやろうと今のところは思っている)。
少なくとも最初の3年くらいは、ひっそりとコツコツ力を蓄えるべきだと思っている。
ただ、そうは言っても、1年目だろうが言うべきことは言うべきで、依頼人のためなら、裁判官だろうが誰であろうが遠慮している場合ではない。依頼人の人生が自分の肩に乗っかっている。
とある事件で、法廷でぼくが裁判官に対して、
「裁判官は○○○と判断しましたが、それは誤りです。○○○なんてことはありえません。」
と言った。ぼくは無意識だったが、同期弁護士から
「裁判官に向かって、「ありえない」とかよく言ったな。」
と言われた。
自分が麻痺していることを感じさせられた。
振り返りはこんなところで、下半期もコツコツ力を蓄えようと思う。
時間的な感覚としてはあっという間だった。
その中でも当然いろいろ感じるところはあって、
なんとなく感じたことで今すぐ思い出せることを書き出しておくことにする。
「弁護士1年目でも意外とできるものはできる」
「(交渉の場において)、同じことを言うのにも、白髪、ひげ、しわという三種の神器を持っている人が言うのと、そうではない若者が言うのでは説得力が違う」
「法廷の空間は物理的には狭いけれど、端から端まで歩くには意外と距離があり、歩きまわるのには非常に楽しい空間だということ」
「もちろん結果も求められるけれど、依頼者の"納得感"というものが実はかなり重要なのではないか」
「同期の弁護士がたくさんいるが、それぞれ四方八方放射線状にそれぞれの弁護士業を歩み始めていて、もう同じ地点に戻ることはできないだろう」
「弁護士事務所をやっていくことはなかなか大変だ」
などなど。
日々感じたこと、思ったことや、気に入った言葉など、常日頃から書き留めておきたい。
で、最初に書いた「弁護士1年目でも意外とできるものはできる」という点について、同期の弁護士の多くが多かれ少なかれ感じていることなのではないか。
おそらく、これは事実で、1年目だろうが意外とやれるものはやれる。勉強したての人ほどわかっていることもあるだろうし、若手だからこそできることもあるだろう。
それに刑事弁護という分野では、ロースクール時代から最先端の指導を受けてきて、自分たちのスタンダードは世の弁護士のスタンダードよりもかなり上を見ていると言えそうな気がする。
だが、"意外とやれる"感は心の隅にしまっておくことにしている。
弁護士業、始まったばかりである。意外とやれようが、所詮1年生だ。
今までの学生生活だと、1つのカテゴリーについて最大4,5年程度しかなかった。
4,5年程度しかないのなら、1年目からガンガン行っても良さそうな気はする。けれど、弁護士業は果てしなく続く(人によっては5年とか10年くらいしか考えていない人もいるかもしれないが、少なくとも自分は永遠にやってやろうと今のところは思っている)。
少なくとも最初の3年くらいは、ひっそりとコツコツ力を蓄えるべきだと思っている。
ただ、そうは言っても、1年目だろうが言うべきことは言うべきで、依頼人のためなら、裁判官だろうが誰であろうが遠慮している場合ではない。依頼人の人生が自分の肩に乗っかっている。
とある事件で、法廷でぼくが裁判官に対して、
「裁判官は○○○と判断しましたが、それは誤りです。○○○なんてことはありえません。」
と言った。ぼくは無意識だったが、同期弁護士から
「裁判官に向かって、「ありえない」とかよく言ったな。」
と言われた。
自分が麻痺していることを感じさせられた。
振り返りはこんなところで、下半期もコツコツ力を蓄えようと思う。
こんな記事があった。
(以下、引用)
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万引の容疑で垂水署に逮捕された男には、住民票も戸籍もなかった。捜査員が調べても、身分を確認できる公的なものは一切見当たらず、男は「小学生のころに家を出てからずっと一人で暮らしてきた。不自由を感じたことはない」と供述。結局、申告した名前も、58歳という年齢も、国籍も判然としないまま25日に釈放された。「こんな容疑者は初めて」と驚く捜査員。男の語った半生とは…(小川 晶)
男は神戸市垂水区のホームセンターで、登山用具4点を盗んだとして、今月14日、垂水署に逮捕された。初犯だった。
男は「金がもったいなかったから」と容疑を認めたが、名乗った日本名が戸籍などに見当たらない。親が出生届を出していなかったためとみられるが、捜査員はスパイの疑いもあるとみて事情を聴取した。
「物心ついたときは、京都のおばに育てられていた」。男が、これまでの半生を話し始めた。
両親は、第2次世界大戦中、朝鮮半島から日本に連行され、亡くなった。自分の名前はおばから教えられたものという。
京都市内の小学校に入学したが、3年生のときに家出。学校にも行かず、山での自給自足の生活をへて、25歳から全国を放浪し始めたという。日雇い労働をしながら、北は秋田まで全国をわたり歩いた。20年ほど前、神戸市垂水区のアパートに落ち着いた。体も強く、病院に行ったのはけがをした際の1度だけ。保険証がないため、全額負担して支払ったという。
身分を確かめるために、捜査員は生まれ育ったとされる京都市内を訪ね歩いた。学校には記録が残っておらず、家があったという場所にはビルが建っていた。
おばから教わったという韓国・朝鮮語を話せるなど、供述を裏付ける点も。「うそをついているようでもないが、正しいかどうか、全く分からない」と捜査員。それ以上確認するすべがなく、拘置期限の25日、神戸地検が「拘置の必要なし」として男は釈放された。
神戸市区政振興課によると、出生届を提出すれば、男の戸籍登録は可能という。だが、日本国籍であることが前提で、出生証明なども必要。そもそも国籍も不明で出生証明もなく、男が戸籍を取得できるかどうかは不透明という。
神戸新聞(6/26 10:33)
http://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/0002060835.shtml
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この記事を読んで、いろんなことがつまっている事件だと思った。
①彼はなぜ逮捕・勾留され、なぜ釈放されたのか
②彼はこの後どこに行くのか
③なぜこのような記事が出ているのか
④自由とはなにか
①:
こういう万引き事件について、ごく一般的になされている処理からすると、初犯で軽微であれば逮捕されることなく、警察段階で微罪処分となりそうな感じがする。いきなり逮捕、勾留されることは少ないのではないか。
彼は、名前も何もかも公的に認識されていないと言うことだから、前科があるかどうかも把握できていないのだろう。
だとすると、なぜ、逮捕・勾留されたのか。
勾留の要件には
「住居不定」というものと「逃亡すると疑われる相当の恐れ」というものがある。
彼は20年間も神戸のアパートに住んでいるのだから、住居はちゃんとある。
逃亡すると疑われれる相当の恐れはあるのか。名前や身元が公的に認識されていないというだけで、逃亡すると疑われる相当なおそれがあるとは到底言えない。
なんとなく、公的に認識されていない存在=逃げるというイメージで、逮捕・勾留されてしまったのではないか。
かといって、名前も国籍も本籍も何もかもわからない人について裁判をすることは公的機関として煩わしい。だから裁判にかけずに釈放されたのではないだろうか。
(もちろん軽微だから起訴猶予という表向きの理由はあるのだろうが)
②:
これは単なる予測だけれども、彼はお金に困っているのではないか。
最近生活保護申請の数が急増しているけれど、彼は生活保護等の公的な保護を受けられるのだろうか。
国籍もわからず、名前もわからず、何もかもわからない。
生活保護等の社会権は本来的にはその国の国民が享受するものだという有名な判例があるが、彼は公的に保護されるのだろうか。
③:
この記事は誰がどう見ても警察官が捜査事項をマスコミにしゃべったことをもとにしている。
確かに、興味深い事件であるし、自分もこうやってとりあげてコメントしているけれども、相変わらず警察からマスコミへの"裏情報公開"は留まるところを知らない。
④:
この現代の世の中では、人は国や地域に根ざして、所属して生活しているわけで、公的に認識されているかは重要ではある。けれど、公的に認識されているかどうかなんてことは、国や地域のコミュニティを前提とした話であって、勝手に国や地域が個人を把握し、コントロールしたいがために行っていることであって、本来その人が自由に生きることにとっては何ら関係ないことである。
けれど、彼は公的に認識されていないがために自由を拘束され、さらに最低限の自由を手に入れることも制限されてしまうのではないかという気がする。
とも思ったが、じつは、全く認識されていないということほど自由なことはないのではないかとも思う。
(以下、引用)
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万引の容疑で垂水署に逮捕された男には、住民票も戸籍もなかった。捜査員が調べても、身分を確認できる公的なものは一切見当たらず、男は「小学生のころに家を出てからずっと一人で暮らしてきた。不自由を感じたことはない」と供述。結局、申告した名前も、58歳という年齢も、国籍も判然としないまま25日に釈放された。「こんな容疑者は初めて」と驚く捜査員。男の語った半生とは…(小川 晶)
男は神戸市垂水区のホームセンターで、登山用具4点を盗んだとして、今月14日、垂水署に逮捕された。初犯だった。
男は「金がもったいなかったから」と容疑を認めたが、名乗った日本名が戸籍などに見当たらない。親が出生届を出していなかったためとみられるが、捜査員はスパイの疑いもあるとみて事情を聴取した。
「物心ついたときは、京都のおばに育てられていた」。男が、これまでの半生を話し始めた。
両親は、第2次世界大戦中、朝鮮半島から日本に連行され、亡くなった。自分の名前はおばから教えられたものという。
京都市内の小学校に入学したが、3年生のときに家出。学校にも行かず、山での自給自足の生活をへて、25歳から全国を放浪し始めたという。日雇い労働をしながら、北は秋田まで全国をわたり歩いた。20年ほど前、神戸市垂水区のアパートに落ち着いた。体も強く、病院に行ったのはけがをした際の1度だけ。保険証がないため、全額負担して支払ったという。
身分を確かめるために、捜査員は生まれ育ったとされる京都市内を訪ね歩いた。学校には記録が残っておらず、家があったという場所にはビルが建っていた。
おばから教わったという韓国・朝鮮語を話せるなど、供述を裏付ける点も。「うそをついているようでもないが、正しいかどうか、全く分からない」と捜査員。それ以上確認するすべがなく、拘置期限の25日、神戸地検が「拘置の必要なし」として男は釈放された。
神戸市区政振興課によると、出生届を提出すれば、男の戸籍登録は可能という。だが、日本国籍であることが前提で、出生証明なども必要。そもそも国籍も不明で出生証明もなく、男が戸籍を取得できるかどうかは不透明という。
神戸新聞(6/26 10:33)
http://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/0002060835.shtml
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この記事を読んで、いろんなことがつまっている事件だと思った。
①彼はなぜ逮捕・勾留され、なぜ釈放されたのか
②彼はこの後どこに行くのか
③なぜこのような記事が出ているのか
④自由とはなにか
①:
こういう万引き事件について、ごく一般的になされている処理からすると、初犯で軽微であれば逮捕されることなく、警察段階で微罪処分となりそうな感じがする。いきなり逮捕、勾留されることは少ないのではないか。
彼は、名前も何もかも公的に認識されていないと言うことだから、前科があるかどうかも把握できていないのだろう。
だとすると、なぜ、逮捕・勾留されたのか。
勾留の要件には
「住居不定」というものと「逃亡すると疑われる相当の恐れ」というものがある。
彼は20年間も神戸のアパートに住んでいるのだから、住居はちゃんとある。
逃亡すると疑われれる相当の恐れはあるのか。名前や身元が公的に認識されていないというだけで、逃亡すると疑われる相当なおそれがあるとは到底言えない。
なんとなく、公的に認識されていない存在=逃げるというイメージで、逮捕・勾留されてしまったのではないか。
かといって、名前も国籍も本籍も何もかもわからない人について裁判をすることは公的機関として煩わしい。だから裁判にかけずに釈放されたのではないだろうか。
(もちろん軽微だから起訴猶予という表向きの理由はあるのだろうが)
②:
これは単なる予測だけれども、彼はお金に困っているのではないか。
最近生活保護申請の数が急増しているけれど、彼は生活保護等の公的な保護を受けられるのだろうか。
国籍もわからず、名前もわからず、何もかもわからない。
生活保護等の社会権は本来的にはその国の国民が享受するものだという有名な判例があるが、彼は公的に保護されるのだろうか。
③:
この記事は誰がどう見ても警察官が捜査事項をマスコミにしゃべったことをもとにしている。
確かに、興味深い事件であるし、自分もこうやってとりあげてコメントしているけれども、相変わらず警察からマスコミへの"裏情報公開"は留まるところを知らない。
④:
この現代の世の中では、人は国や地域に根ざして、所属して生活しているわけで、公的に認識されているかは重要ではある。けれど、公的に認識されているかどうかなんてことは、国や地域のコミュニティを前提とした話であって、勝手に国や地域が個人を把握し、コントロールしたいがために行っていることであって、本来その人が自由に生きることにとっては何ら関係ないことである。
けれど、彼は公的に認識されていないがために自由を拘束され、さらに最低限の自由を手に入れることも制限されてしまうのではないかという気がする。
とも思ったが、じつは、全く認識されていないということほど自由なことはないのではないかとも思う。
asahi.com(2009年6月19日20時59分)より引用
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東京地検は19日、東京都杉並区の京王井の頭線永福町駅のホームで女性の腕をつかみ、線路に飛び降りたとして、警視庁に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された男子大学生(20)を処分保留で釈放した。地検は「故意に殺害や傷害を行おうとした、とは認定できなかった」と説明している。
男子大学生は5月31日午前9時25分ごろ、永福町駅のホームで、区内の無職の女性(59)の腕をつかみ、普通電車の先頭から数メートル先の線路上に一緒に飛び降りたとして逮捕された。女性は、腰の骨を折る重傷を負った。
事件当時、男子大学生は飲酒しており、逮捕容疑について「女性にぶつかったことと線路に落ちたことは覚えているが、(腕をつかんで)引きずりおろした記憶はない」と話していた。
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この事件、殺人未遂で起訴されれば裁判員裁判対象事件となっていた。
最近にわかに囁かれはじめている噂がある。それは、検察庁は裁判員対象事件について、確実に有罪にできるもののみ選り好みして起訴しているらしい。従来の裁判官裁判では起訴されていた事件が、不起訴になったり、裁判員対象事件にはならない罪名で起訴される例が相次いでいるという。
これは起訴便宜主義を便宜的に悪用しているということだ。
よっぽど無罪判決が出るのを恐れているのか。
無罪判決、出てもいいじゃないか。
ところで、この事件、逮捕当時はこの大学生の実名入り、学校名入りで大々的に報道された。
ワイドショーもこぞって報道した。今もグーグルなどで検索をしたらわんさか出てくる。
大学生の名誉は逮捕による報道によって落ちてしまった。少なくともいまの日本の世の中では、逮捕されることが有罪の宣告に等しくなってしまっている。
ところが、彼は処分保留で釈放された。釈放報道は実名無しで、さらっと流される。
決して彼の名誉は回復されることはない。
この現実をどう受け止めればいいか。
スケールは違うけれど、私自身昨年同じような体験をした。
犯罪者のような報道をされ、散々騒いだ挙げ句、その結末については誰も報道しない。
これは非常につらいことだ。
結末について報道することによって名誉が完全に回復されることはないけれど、報道する側はそれすらほとんど行わない。
検察がヘタレになることは、よりカタい事件ばかりを法廷に出すことになり、それは「裁判になる事件は有罪だ」という有罪推定の原則を生む。
一方で、逮捕=犯罪者のレッテルが誤りであることを世間やマスコミに感じさせる契機になるのかもしれない。
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東京地検は19日、東京都杉並区の京王井の頭線永福町駅のホームで女性の腕をつかみ、線路に飛び降りたとして、警視庁に殺人未遂容疑で現行犯逮捕された男子大学生(20)を処分保留で釈放した。地検は「故意に殺害や傷害を行おうとした、とは認定できなかった」と説明している。
男子大学生は5月31日午前9時25分ごろ、永福町駅のホームで、区内の無職の女性(59)の腕をつかみ、普通電車の先頭から数メートル先の線路上に一緒に飛び降りたとして逮捕された。女性は、腰の骨を折る重傷を負った。
事件当時、男子大学生は飲酒しており、逮捕容疑について「女性にぶつかったことと線路に落ちたことは覚えているが、(腕をつかんで)引きずりおろした記憶はない」と話していた。
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この事件、殺人未遂で起訴されれば裁判員裁判対象事件となっていた。
最近にわかに囁かれはじめている噂がある。それは、検察庁は裁判員対象事件について、確実に有罪にできるもののみ選り好みして起訴しているらしい。従来の裁判官裁判では起訴されていた事件が、不起訴になったり、裁判員対象事件にはならない罪名で起訴される例が相次いでいるという。
これは起訴便宜主義を便宜的に悪用しているということだ。
よっぽど無罪判決が出るのを恐れているのか。
無罪判決、出てもいいじゃないか。
ところで、この事件、逮捕当時はこの大学生の実名入り、学校名入りで大々的に報道された。
ワイドショーもこぞって報道した。今もグーグルなどで検索をしたらわんさか出てくる。
大学生の名誉は逮捕による報道によって落ちてしまった。少なくともいまの日本の世の中では、逮捕されることが有罪の宣告に等しくなってしまっている。
ところが、彼は処分保留で釈放された。釈放報道は実名無しで、さらっと流される。
決して彼の名誉は回復されることはない。
この現実をどう受け止めればいいか。
スケールは違うけれど、私自身昨年同じような体験をした。
犯罪者のような報道をされ、散々騒いだ挙げ句、その結末については誰も報道しない。
これは非常につらいことだ。
結末について報道することによって名誉が完全に回復されることはないけれど、報道する側はそれすらほとんど行わない。
検察がヘタレになることは、よりカタい事件ばかりを法廷に出すことになり、それは「裁判になる事件は有罪だ」という有罪推定の原則を生む。
一方で、逮捕=犯罪者のレッテルが誤りであることを世間やマスコミに感じさせる契機になるのかもしれない。
足利事件の菅谷さんに対して、誰が謝る、誰を許す、といった報道が続いている。
そういう問題か?という感想を持つ人も多いと思う。
法律菌に汚染されている私たちは特に、謝る、許す、といった問題じゃないだろうという感覚に陥る。
この事件からいまの刑事司法の問題を読み解く必要があるのだと思うが、ちょっと自分なりに考えてみたい。
果たして、警察は悪かったのか?警察は菅谷さんに謝るべきなのか?警察だけが悪いのか?
報道されていることでしか情報を得ることが出来ないので、必ずしも正確な情報ではないのかもしれないが、警察はDNA鑑定を盾に自白を迫ったとされている。そして、そのDNA鑑定が結果としては不正確だった。
警察たる国家機関が誤った鑑定を行った、自白を強要した、これらの行為はたしかに問題がある。
しかし、私は、こういった警察のミスを世間がこぞって非難することへの危険性を感じる。
それはどういうことか。
警察のミスを世間が過剰に非難すると、警察はミスを恐れる
→固い事件だけ事件化される
→刑事裁判のテーブルには固い事件のみ上がってくる
→固い事件ばっかりの中で警察等の国家権力のミスを裁判官が指摘しづらい空気に法廷が支配される
→裁判官によって再びミスが見逃される
このような負のスパイラルに陥るのではないかと思う。
あえて言えば、警察はミスをしても仕方ない。
リスクを背負って捜査をすればミスは当然に出てくる。
こういうミスは法廷で明らかにされる。
これが本来の健全な刑事司法の機能であり、本来のあるべき姿である。
ところが、現在の刑事司法は健全に動いていない。
このようなことを言うと、刑事裁判でミスが明らかになるのでは遅い、それまでの間に身柄が拘束され、家族が崩壊し、そのような負担を課すこと自体が問題だと言われるかもしれない。
これに対しては、刑事裁判を受けることの負担を減らせばいいと思う。
というより、本来はそんなに負担が課されていないはずだ。
法律が予定している刑事事件の当事者(被告人)は身柄拘束されず、従来の生活のまま手続が進むというものである。
足利事件から学ぶべきは、刑事司法が停滞しているという現実ではないか。この事件のDNA鑑定は1審の段階から弁護人から疑問が呈されていたと聞いている。
それに対して、「警察、検察のすることは信用できる」と盲信した裁判にやはり問題があるのであって、
もっと刑事裁判が活性化するようにこの事件を活かすべきなのではないか。
いま、世間が行っている、警察捜査批判が、実は将来的に第2の足利事件のような冤罪事件を生む温床になりやしないか。そう考えると非常に恐ろしい。
そういう問題か?という感想を持つ人も多いと思う。
法律菌に汚染されている私たちは特に、謝る、許す、といった問題じゃないだろうという感覚に陥る。
この事件からいまの刑事司法の問題を読み解く必要があるのだと思うが、ちょっと自分なりに考えてみたい。
果たして、警察は悪かったのか?警察は菅谷さんに謝るべきなのか?警察だけが悪いのか?
報道されていることでしか情報を得ることが出来ないので、必ずしも正確な情報ではないのかもしれないが、警察はDNA鑑定を盾に自白を迫ったとされている。そして、そのDNA鑑定が結果としては不正確だった。
警察たる国家機関が誤った鑑定を行った、自白を強要した、これらの行為はたしかに問題がある。
しかし、私は、こういった警察のミスを世間がこぞって非難することへの危険性を感じる。
それはどういうことか。
警察のミスを世間が過剰に非難すると、警察はミスを恐れる
→固い事件だけ事件化される
→刑事裁判のテーブルには固い事件のみ上がってくる
→固い事件ばっかりの中で警察等の国家権力のミスを裁判官が指摘しづらい空気に法廷が支配される
→裁判官によって再びミスが見逃される
このような負のスパイラルに陥るのではないかと思う。
あえて言えば、警察はミスをしても仕方ない。
リスクを背負って捜査をすればミスは当然に出てくる。
こういうミスは法廷で明らかにされる。
これが本来の健全な刑事司法の機能であり、本来のあるべき姿である。
ところが、現在の刑事司法は健全に動いていない。
このようなことを言うと、刑事裁判でミスが明らかになるのでは遅い、それまでの間に身柄が拘束され、家族が崩壊し、そのような負担を課すこと自体が問題だと言われるかもしれない。
これに対しては、刑事裁判を受けることの負担を減らせばいいと思う。
というより、本来はそんなに負担が課されていないはずだ。
法律が予定している刑事事件の当事者(被告人)は身柄拘束されず、従来の生活のまま手続が進むというものである。
足利事件から学ぶべきは、刑事司法が停滞しているという現実ではないか。この事件のDNA鑑定は1審の段階から弁護人から疑問が呈されていたと聞いている。
それに対して、「警察、検察のすることは信用できる」と盲信した裁判にやはり問題があるのであって、
もっと刑事裁判が活性化するようにこの事件を活かすべきなのではないか。
いま、世間が行っている、警察捜査批判が、実は将来的に第2の足利事件のような冤罪事件を生む温床になりやしないか。そう考えると非常に恐ろしい。