弁護士大増員時代の中で生き抜いていくためには、何かしらのウリが必要であることは間違いない。
弁護士を名乗る以上、どんな人でもできなければならない類の仕事はあって、今はその修行をしている段階でもあるが、自分のウリが何かを考えながら日々過ごしていかないと、何の特徴もない弁護士になってしまう。
弁護士業ももうすぐ1年になるが、どんな弁護士でも日々忙しく、意識しなければ過ぎ去っていくことがとても多いと思う。
自分の場合、刑事弁護を1つの柱にしようと思い、事務所柄、現状は明らかに刑事弁護中心になっている。これはこれでこのまま経験を積んでいければどんどん成長できると思う。
あと、医療事件にも興味があり、これは自分で積極的に取り組もうとしている。まだまだ全然わからないことだらけだが、このまま続けていきたい。
特に最近感じるのは、刑事弁護と医療の関わりという点。自分が受けている事件が偶然そうなのかもしれないが、刑事弁護をやっていく上で医療にぶつかることが非常に多い。大げさに言えば、ほとんどの事件で何かしらの医学的知見が要求される場面にぶつかっているような気がするくらい。
そういう意味で、刑事弁護と医療過誤はどこかで連動しているように思う。
そして、自分が弁護士生活を送っていく上でもう1本の柱にしようと思っていたのが、コリアン関連。
先日書いたように、日本に帰化もしたし、韓国語も話せないけれど、永遠に自分のルーツである。こだわりは大いにある。
ただ、この分野にどう近づいていいのかよくわからないまま1年弱が過ぎようとしたが、ここに来て急速にこの分野に近づく機会に恵まれた。
全ては人のつながりで、身近なところから辿り着きたいと思っていたところにつながるところにまさに人脈の大切さを感じた。人脈がすべてではないかと思うくらい。
こうやって書き連ねてみると、自分の柱は儲からなさそうなことばかりだということにすぐ気づく。
けれど、このようなことを地道にやっていけば、実はしっかり稼ぐ術が身につくのではないかという淡い期待を持ちつつ、柱を太くしていきたいと思う。まだ夢を見ても許されるだろう。
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前回の更新からかなり時間が経ってしまった。
ブログ歴は長いけれど、いったん筆を止めてしまうとなかなか進まない。
溜めれば溜める程、自分でハードルを上げてしまう。
刑事事件とかまじめな話ばかりではなく、身の上話なども繰り広げていきますか。
毎日新聞より
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<裁判員制度>「違憲」、被告弁護人が裁判官審理申し立て
強盗致傷罪で8月5日に東京地裁に起訴された被告の弁護人を務める川村理弁護士は1日、裁判員制度は憲法違反として、裁判員裁判で審理しないよう地裁に申し立てたことを明らかにした。申し立ては8月18日付。5月に始まった裁判員制度を巡り、違憲を主張する裁判手続きが明らかになったのは初めて。
起訴されたのは無職、林登志雄被告(43)。起訴状によると、5月15日、東京都港区で乗車していたタクシーの運転手の顔をナイフで刺すなどして重傷を負わせ、タクシーを奪い料金5万円余の支払いを免れたとされる。
申立書によると、制度が予定する連日開廷は被告・弁護側に十分な公判準備をさせず、適正手続きを保障した憲法31条に違反すると指摘。被告の責任能力が争点になるとして、「国民には容易に判断しがたい分野」と主張し、裁判官3人だけによる審理を求めた。
裁判員法には、裁判員の生命、身体や財産に危害が及ぶ恐れがある場合以外、裁判員裁判から除外する規定はない。
9月1日13時4分配信 毎日新聞
---
裁判員制度は賛否両論渦巻く中でスタートした。
そしていずれ出てくるであろう大きな事件として2点あると思っていた。
1つは、被告人が裁判員裁判は違憲だと主張する事件。
もう1つは、裁判員になった人がその評議の内容等を詳細に公開して、守秘義務違反で刑事事件として立件される事件。
思いの外早く1つめの事件が出てきそうだということである。
私は裁判員裁判が憲法に反するなんて全く思わないし、この弁護人が言っていることは全く違うと思う。
連日開廷が被告、弁護側に十分な公判準備をさせないということは的外れであることは、これまで連日開廷でやってきた弁護人が身をもって証明しているし、責任能力について「国民には容易に判断しがたい分野」だということで裁判官のみによる審理を求めることも的外れである。国民に容易に判断しがたく、裁判官には容易に判断できる分野なんてありえない。また、本来的な専門家である精神科医等の意見を聞き入れずに独断で判断をし続けてきた裁判官の判断が適性妥当だとは思えない。
今後の流れとしては、とりあえずは裁判官による審理を求め、裁判員事件として扱う決定に対して最高裁に特別抗告するということか。そしていずれは裁判員事件として審理され、その判決について控訴、上告がなされ、裁判員裁判の合憲性が最高裁によって判断されるということか。
個人的には上で書いた2つめの事件に非常に興味がある。
裁判員裁判は憲法に反するとは思わないが、裁判員の守秘義務は憲法に反すると思っている。
そして、このことは制度が始まる前にもいろいろ議論がなされたが、これが本当の意味で問題となるのは、裁判員になった人が全てを公開したときである。そして、検察庁も黙認することができなくなったときである。
この時に、守秘義務を科すことが憲法に反するかどうかが真っ正面から問われる。
このような事件を経て、制度が定着していけばいいのではないかと思う。
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<裁判員制度>「違憲」、被告弁護人が裁判官審理申し立て
強盗致傷罪で8月5日に東京地裁に起訴された被告の弁護人を務める川村理弁護士は1日、裁判員制度は憲法違反として、裁判員裁判で審理しないよう地裁に申し立てたことを明らかにした。申し立ては8月18日付。5月に始まった裁判員制度を巡り、違憲を主張する裁判手続きが明らかになったのは初めて。
起訴されたのは無職、林登志雄被告(43)。起訴状によると、5月15日、東京都港区で乗車していたタクシーの運転手の顔をナイフで刺すなどして重傷を負わせ、タクシーを奪い料金5万円余の支払いを免れたとされる。
申立書によると、制度が予定する連日開廷は被告・弁護側に十分な公判準備をさせず、適正手続きを保障した憲法31条に違反すると指摘。被告の責任能力が争点になるとして、「国民には容易に判断しがたい分野」と主張し、裁判官3人だけによる審理を求めた。
裁判員法には、裁判員の生命、身体や財産に危害が及ぶ恐れがある場合以外、裁判員裁判から除外する規定はない。
9月1日13時4分配信 毎日新聞
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裁判員制度は賛否両論渦巻く中でスタートした。
そしていずれ出てくるであろう大きな事件として2点あると思っていた。
1つは、被告人が裁判員裁判は違憲だと主張する事件。
もう1つは、裁判員になった人がその評議の内容等を詳細に公開して、守秘義務違反で刑事事件として立件される事件。
思いの外早く1つめの事件が出てきそうだということである。
私は裁判員裁判が憲法に反するなんて全く思わないし、この弁護人が言っていることは全く違うと思う。
連日開廷が被告、弁護側に十分な公判準備をさせないということは的外れであることは、これまで連日開廷でやってきた弁護人が身をもって証明しているし、責任能力について「国民には容易に判断しがたい分野」だということで裁判官のみによる審理を求めることも的外れである。国民に容易に判断しがたく、裁判官には容易に判断できる分野なんてありえない。また、本来的な専門家である精神科医等の意見を聞き入れずに独断で判断をし続けてきた裁判官の判断が適性妥当だとは思えない。
今後の流れとしては、とりあえずは裁判官による審理を求め、裁判員事件として扱う決定に対して最高裁に特別抗告するということか。そしていずれは裁判員事件として審理され、その判決について控訴、上告がなされ、裁判員裁判の合憲性が最高裁によって判断されるということか。
個人的には上で書いた2つめの事件に非常に興味がある。
裁判員裁判は憲法に反するとは思わないが、裁判員の守秘義務は憲法に反すると思っている。
そして、このことは制度が始まる前にもいろいろ議論がなされたが、これが本当の意味で問題となるのは、裁判員になった人が全てを公開したときである。そして、検察庁も黙認することができなくなったときである。
この時に、守秘義務を科すことが憲法に反するかどうかが真っ正面から問われる。
このような事件を経て、制度が定着していけばいいのではないかと思う。
もうみんなが飽きる程に情報を浴びせ続けられたのりぴー事件。
のりぴーという清楚なキャラクターの有名人の事件だけに騒がれているが、事件としてはどこにでもあるような事件。
一連の報道等を見ていて感じる疑問、思うことを、空気を全く読まずに考えてみる。
①そこまで人を刑務所にぶち込みたいか
のりぴーけしからん、起訴すべき、実刑にすべき・・・こういう方向以外の声はほとんど聞こえてこないが、私は素直に、そこまでして人に刑罰を与えたいものかと思う。
のりぴーは確かに世間的にはけしからん。それはその通り。そして、そのことによって社会的名声を失ったり、金銭的な賠償義務を負ったりすることは当然のことで、それは自分でやったことだからしょうがない。これについて、金を払わすべきではない、名声も失われるべきではないなんてことは全く思わない。
だが、これらのことと、国家が刑罰を加えることは全く異質なことである。
刑罰とは、国家が一私人の生命、自由を強制的に奪うことであり、ある意味においては最も強大な権力行使の場面である。
そのような刑罰について、国民みんなが国家の側に立って、刑罰を科すべきだ!とキャンペーンをはることは極めて危険ではないか。国家への信頼が過度ではないか。そもそも刑罰の意味が理解されなさすぎではないか、というようなことを思う。
被害者のある犯罪で、例えば家族を殺されてしまった遺族が、犯人を刑務所にぶち込みたい、犯人を殺したいと思う気持ちはよく理解できる。
けれど、今回は誰も被害者はいない。
のりぴーはもう十分すぎる程の社会的制裁を浴び、名声を失い、おそらく巨額の金銭賠償義務を負い、これで十分ではないか。
②証拠隠滅行為はそこまで非難されるべきなのか
最近の話題は、逃亡中の行動、髪の毛を切ったこと、携帯を破壊したこと等々、のりぴーの証拠隠滅行為に移っている。そして、当然のことながら報道は「証拠隠滅するなんて悪質だ!けしからん!」一色。
果たしてそうか。
人は、国家権力に捕まりそうになったときにはあらゆる手段を使ってそこから逃れようとする、これは極めて当然の行動ではないか。少なくとも私はそう思う。非難されるべき行動ではないのではないか。
それを、「潔く出てこい」だとか「やったことは自ら認めるべきだ」というような論調に支配されることは刑事処分の本質、すなわち国家権力が私人の生命、自由を強制的に奪うことだということが理解されていない証拠なのではないかと思う。
もちろん、道徳的、道義的には「潔く出てくるべき」だし、「やったことは自ら認めるべき」である。そんなことは当たり前である。
だが、場面は国家対私人という極めて強大な壁を目の前にしている場面である。
その場面において、強大な壁に屈するべきだという議論が支配される世の中は危険ではないか。
そして、この感覚は、自白強要、否認するなら保釈しない等々の現在の捜査実務、刑事裁判実務が支配されている風潮につながるのではないかとも思う。
国家に捕まえられそうになったら、そこから逃れようともがくことは極めて自然な感情ではないか。
この感情を抑えつけることの危険性をもっと感じるべきではないかと思う。
のりぴーという清楚なキャラクターの有名人の事件だけに騒がれているが、事件としてはどこにでもあるような事件。
一連の報道等を見ていて感じる疑問、思うことを、空気を全く読まずに考えてみる。
①そこまで人を刑務所にぶち込みたいか
のりぴーけしからん、起訴すべき、実刑にすべき・・・こういう方向以外の声はほとんど聞こえてこないが、私は素直に、そこまでして人に刑罰を与えたいものかと思う。
のりぴーは確かに世間的にはけしからん。それはその通り。そして、そのことによって社会的名声を失ったり、金銭的な賠償義務を負ったりすることは当然のことで、それは自分でやったことだからしょうがない。これについて、金を払わすべきではない、名声も失われるべきではないなんてことは全く思わない。
だが、これらのことと、国家が刑罰を加えることは全く異質なことである。
刑罰とは、国家が一私人の生命、自由を強制的に奪うことであり、ある意味においては最も強大な権力行使の場面である。
そのような刑罰について、国民みんなが国家の側に立って、刑罰を科すべきだ!とキャンペーンをはることは極めて危険ではないか。国家への信頼が過度ではないか。そもそも刑罰の意味が理解されなさすぎではないか、というようなことを思う。
被害者のある犯罪で、例えば家族を殺されてしまった遺族が、犯人を刑務所にぶち込みたい、犯人を殺したいと思う気持ちはよく理解できる。
けれど、今回は誰も被害者はいない。
のりぴーはもう十分すぎる程の社会的制裁を浴び、名声を失い、おそらく巨額の金銭賠償義務を負い、これで十分ではないか。
②証拠隠滅行為はそこまで非難されるべきなのか
最近の話題は、逃亡中の行動、髪の毛を切ったこと、携帯を破壊したこと等々、のりぴーの証拠隠滅行為に移っている。そして、当然のことながら報道は「証拠隠滅するなんて悪質だ!けしからん!」一色。
果たしてそうか。
人は、国家権力に捕まりそうになったときにはあらゆる手段を使ってそこから逃れようとする、これは極めて当然の行動ではないか。少なくとも私はそう思う。非難されるべき行動ではないのではないか。
それを、「潔く出てこい」だとか「やったことは自ら認めるべきだ」というような論調に支配されることは刑事処分の本質、すなわち国家権力が私人の生命、自由を強制的に奪うことだということが理解されていない証拠なのではないかと思う。
もちろん、道徳的、道義的には「潔く出てくるべき」だし、「やったことは自ら認めるべき」である。そんなことは当たり前である。
だが、場面は国家対私人という極めて強大な壁を目の前にしている場面である。
その場面において、強大な壁に屈するべきだという議論が支配される世の中は危険ではないか。
そして、この感覚は、自白強要、否認するなら保釈しない等々の現在の捜査実務、刑事裁判実務が支配されている風潮につながるのではないかとも思う。
国家に捕まえられそうになったら、そこから逃れようともがくことは極めて自然な感情ではないか。
この感情を抑えつけることの危険性をもっと感じるべきではないかと思う。
今日、帰化認証式なるものに参加してきた。
そう、私、このたび日本国籍を取得しました。
帰化の手続は誰でもが体験できるものではないので、ご要望に応えて帰化認証式の様子を報告します。
まず東京法務局の8階に上がると、「帰化認証式会場こちら」という掲示板がある。
決して紅白リボンで飾られているわけではなかった。
会場に入るとまず受付があり、書類を渡される。そして恒例の「おめでとうございます。」の一言。
帰化することがおめでたいことなのかどうなのかはよくわからない。永遠の疑問だと思う。
帰化しようとする動機はさまざまで、日本人と同化したいという気持ちの人もいれば、日本で生活していく上での便宜のためという人もいる。おめでたいことなのかどうなのかは人によるということか。
会場にはデカデカと日の丸があり、紅白幕で覆われているのかと想像したが、何もなかった。ごく普通の部屋。
その中には40人くらいいて、想像ではアジア系の方々が多いのかと思っていたが、確かにアジア系の人は多かった。けれど中にはアフリカ系の人もいて、日本はもはや単一民族国家などと言えないだろうということを肌で感じた。
認証式は、一人一人前に呼ばれ、帰化したことを証明する身分証明書類を渡された。
もちろん手交されるときには「おめでとうございます」。
一人一人の受け取り方もさまざまで、最敬礼している人もいれば、そっけない人もいる。
自分はどうか、それはご想像通りで。
その後、今後の戸籍編纂等の手続について説明を受けたが、その中で係の人から気になる一言が。
「これからも日本国憲法などの法律を守りながら充実した生活を送って下さい」と。
日本国憲法は誰が守るの?国民が守るものなの?
憲法は国民に対して国家が守るべきものじゃないの?(確かに一部国民の義務もあるけれど)
守るべきはあなたたちじゃないの?
こんなところに、法教育の欠如を感じたりした。
そう、私、このたび日本国籍を取得しました。
帰化の手続は誰でもが体験できるものではないので、ご要望に応えて帰化認証式の様子を報告します。
まず東京法務局の8階に上がると、「帰化認証式会場こちら」という掲示板がある。
決して紅白リボンで飾られているわけではなかった。
会場に入るとまず受付があり、書類を渡される。そして恒例の「おめでとうございます。」の一言。
帰化することがおめでたいことなのかどうなのかはよくわからない。永遠の疑問だと思う。
帰化しようとする動機はさまざまで、日本人と同化したいという気持ちの人もいれば、日本で生活していく上での便宜のためという人もいる。おめでたいことなのかどうなのかは人によるということか。
会場にはデカデカと日の丸があり、紅白幕で覆われているのかと想像したが、何もなかった。ごく普通の部屋。
その中には40人くらいいて、想像ではアジア系の方々が多いのかと思っていたが、確かにアジア系の人は多かった。けれど中にはアフリカ系の人もいて、日本はもはや単一民族国家などと言えないだろうということを肌で感じた。
認証式は、一人一人前に呼ばれ、帰化したことを証明する身分証明書類を渡された。
もちろん手交されるときには「おめでとうございます」。
一人一人の受け取り方もさまざまで、最敬礼している人もいれば、そっけない人もいる。
自分はどうか、それはご想像通りで。
その後、今後の戸籍編纂等の手続について説明を受けたが、その中で係の人から気になる一言が。
「これからも日本国憲法などの法律を守りながら充実した生活を送って下さい」と。
日本国憲法は誰が守るの?国民が守るものなの?
憲法は国民に対して国家が守るべきものじゃないの?(確かに一部国民の義務もあるけれど)
守るべきはあなたたちじゃないの?
こんなところに、法教育の欠如を感じたりした。
日本以外の国で育った人たちと法律関係の話をする中でたまに思うことがある。
それは、日本以外の人たちは、裁判のことだったり、法律の基本的なしくみのことであったり、それこそ刑事弁護人の役割であったり、そういったことへの理解が深いような気がする。
自分は日本で生まれ日本で育ち、他の国々でどのような法教育がなされているかは知らないが、日本の法教育はひどいものだということは、自分が育った環境を思い起こせば容易にわかる。
大学で専門的に法律を学ぶ前に学んだ法律と言えば、中学校の時の社会科くらいなものである。
その中身は、日本国憲法の三大原則、相続法についての法定相続分しか思い出せない。
これは法教育とは言えない。
高校時の公民の科目は、政治経済、現代社会、倫理の3科目であり、法律は(おそらく)現代社会の中で少し扱うだけである。その中身は中学校の社会科に毛の生えた程度である。
このような教育環境を考えれば、日本で育った人たちの間で、法的素養が育たないことをある意味で当然の結末である。
しかし、特に現代社会においては法律の素養を備えることは非常に重要なのではないかと思う。
憲法改正とかが議論されていても、そもそも憲法って法体系の中でどういう位置づけのものかということは誰もが知っているべき事だし、刑事司法の仕組み、弁護人の役割、捜査機関の非正義性についても誰もが自然と意識すべき事だと思う。
それが個人の利益を追求するために必要なことだからだ。
ところで、昨日より裁判員裁判が始まったが、報道される内容を見聞していてとびっくりする内容のものがある。
例えば、
裁判員裁判では、被告人が弁護人席の隣に着席しているが、このことについて、
「裁判員席から見れば、被告人が弁護人の陰に隠れていて心理的プレッシャーが減らされて望ましい」
などというコメントが真剣な顔で語られている。
刑事裁判ってのは、被告人および弁護人と検察官が当事者となって争うものだ
ということが理解されていないから、被告人が弁護人の隣に座る意味が理解できずに、
だからこそ出てくるコメントなのだと思うが、こういうコメントを聞くたびに根は深いのかなと思う。
被告人の保釈についての裁判官面接での保釈裁判官の態度を見ていても、その根本に、被告人=犯罪者、裁判を受ける者には無罪推定などなく、身柄拘束されたまま裁判を受けるのが当たり前だという意識が透けて見える。
こういう問題は、個々のコメンテーター、裁判官の問題ではなく、社会としての問題なのではないかと思うようになってきた。
そして、それは中学校や高校からの法教育によって少しずつ根付かせなければならない問題なのではないかと感じる。
裁判員裁判がスタートしたことによって、一時的などうかは別にして、刑事司法への興味は高まっている。これを活かさない手はなく、少しでも法的素養が浸透する契機になればいいと思う。
それは、日本以外の人たちは、裁判のことだったり、法律の基本的なしくみのことであったり、それこそ刑事弁護人の役割であったり、そういったことへの理解が深いような気がする。
自分は日本で生まれ日本で育ち、他の国々でどのような法教育がなされているかは知らないが、日本の法教育はひどいものだということは、自分が育った環境を思い起こせば容易にわかる。
大学で専門的に法律を学ぶ前に学んだ法律と言えば、中学校の時の社会科くらいなものである。
その中身は、日本国憲法の三大原則、相続法についての法定相続分しか思い出せない。
これは法教育とは言えない。
高校時の公民の科目は、政治経済、現代社会、倫理の3科目であり、法律は(おそらく)現代社会の中で少し扱うだけである。その中身は中学校の社会科に毛の生えた程度である。
このような教育環境を考えれば、日本で育った人たちの間で、法的素養が育たないことをある意味で当然の結末である。
しかし、特に現代社会においては法律の素養を備えることは非常に重要なのではないかと思う。
憲法改正とかが議論されていても、そもそも憲法って法体系の中でどういう位置づけのものかということは誰もが知っているべき事だし、刑事司法の仕組み、弁護人の役割、捜査機関の非正義性についても誰もが自然と意識すべき事だと思う。
それが個人の利益を追求するために必要なことだからだ。
ところで、昨日より裁判員裁判が始まったが、報道される内容を見聞していてとびっくりする内容のものがある。
例えば、
裁判員裁判では、被告人が弁護人席の隣に着席しているが、このことについて、
「裁判員席から見れば、被告人が弁護人の陰に隠れていて心理的プレッシャーが減らされて望ましい」
などというコメントが真剣な顔で語られている。
刑事裁判ってのは、被告人および弁護人と検察官が当事者となって争うものだ
ということが理解されていないから、被告人が弁護人の隣に座る意味が理解できずに、
だからこそ出てくるコメントなのだと思うが、こういうコメントを聞くたびに根は深いのかなと思う。
被告人の保釈についての裁判官面接での保釈裁判官の態度を見ていても、その根本に、被告人=犯罪者、裁判を受ける者には無罪推定などなく、身柄拘束されたまま裁判を受けるのが当たり前だという意識が透けて見える。
こういう問題は、個々のコメンテーター、裁判官の問題ではなく、社会としての問題なのではないかと思うようになってきた。
そして、それは中学校や高校からの法教育によって少しずつ根付かせなければならない問題なのではないかと感じる。
裁判員裁判がスタートしたことによって、一時的などうかは別にして、刑事司法への興味は高まっている。これを活かさない手はなく、少しでも法的素養が浸透する契機になればいいと思う。