空気を読まずに生きる -11ページ目

空気を読まずに生きる

弁護士 趙 誠峰(第二東京弁護士会・Kollectアーツ法律事務所)の情報発信。

裁判員、刑事司法、ロースクールなどを事務所の意向に関係なく語る。https://kollect-arts.jp/

裁判員裁判ではこれまで以上に裁判員にわかりやすく意見を伝える必要があるとのことで、さまざまな研修が行われている。
しかし、ちょっと研修をやっただけで、本番でうまいこといくはずがない。

ということで、常日頃から自分の意見をわかりやすく、共感してもらえるように話すという訓練を積み続けることが必要である。
裁判員裁判に限らず、裁判官裁判においても様々なことを意識して弁論することは最良のトレーニングになることは間違いない。

しかし、裁判のときだけ意識していただけでは、うまいこといくはずがない。
裁判以外の場面においても普段から意識する必要がある。

弁護士に限ったことではないが、ちょっとした挨拶、スピーチをする機会は多々ある。
そして、他人のスピーチをじっくり聞いていると、ほとんどの人が「えーっと、、、」「あー」「うー」など、聞く側にとって邪魔になる音を発していることにすぐに気づく。
自分がちょっとしたスピーチをする際に、余計な発声をしないということだけ気をつけるのでも、これを繰り返していればかなり変わると思う。

「スピーチであっても、余計な音は出すな」

さらに、法廷での弁論に限らずスピーチだって何だって人に聞かせなければならない。
話をする際に、必ずどこかに話のオチを作り、そこに向けて話を盛り上げるということを意識することもとても重要だと思う。
「初頭効果」「新近効果」などと言われるけれども、それは言い換えればどれだけ印象に残るような話をするかということだと思う。

「スピーチであっても、話にオチを作れ」
「オチに向かって盛り上げろ」

また、スピーチの際にありがちなのが、内輪ネタに走ること、さらに悪いのが、内輪ネタに対して話し手が笑って盛り上がってしまって話すこと。こうなると聞く側は引いてしまう。常に聞き手にどのように聞こえるかを意識して話すことが重要だということだと思う。

「スピーチであっても、聞き手を意識せよ」
「内輪ネタは禁止、話し手が笑うのは最低」

ちょっとしたスピーチの場面で常にこんなことを意識できれば、弁論能力はすごくあがるような気がする。

そして、その究極は、日常会話もスピーチも法廷の弁論も同じように話すようになるということ。
日常会話から常に「余計な音は出さず」「オチを作り」「聞き手を意識する」
ここまでいくと究極。


この話は、先日とあるパーティで延々と繰り広げられる様々な人たちのスピーチを聞きながら、大御所弁護士から教えてもらった内容でした。
大御所曰く、酒なんか飲んでる暇はない!日々鍛錬!だそうです。。
大震災を機に、今こそ「日本を一つに」という風潮が世の中を席巻している。

今回の震災は、1万人以上もの人の命が失われ、多くの街が壊滅的な被害を受け、復興するのにとてつもない時間と労力が必要で、日本中の人たちの力を合わせる必要があるのはそのとおりだろう。
さらに、今回の震災は原発が大きく絡んでいて、今後この原発をどうするかということは、被災地の問題だけではなく、この国の在り方の問題となる。その意味でも、日本で生きていく以上、自分たちの問題として降りかかってくる。

こういったところには何ら異論はない。
少しでも力になれればと思い、微々たる額ではあるけれど募金もした。
今後機会があれば法律相談にも行こうと思う。

ただ、このこととは別に、世の中を席巻している「日本を一つに」という風に違和感を感じずにはいられない。

この違和感がなんなのかを少し考えてみた。

戦後65年の中で、今日本が一番大変な時期かもしれない。
この時に、この国のリーダーである菅首相が「日本を一つに」と言うのであれば違和感を感じない。
しかし、今、吹き荒れている「日本を一つに」という声はそうではない。
菅首相の声は特に最近聞こえてこない。
今吹き荒れている声はマスコミなどのメディアが扇動しているものだと思う。

「日本を一つに」という言葉にはとても大きな危険が孕んでいる。
私はもちろん戦争を経験していないから、イメージでしか語ることはできないが、なんとなく戦時中のイメージが漂う。
そして、「日本を一つに」というのは、個を捨てるということである。戦時中がそうであったように。
私は、どんな場合であっても、国民は国家から自由であるべきだと思うし、そうありたい。
人は「他の人とは違うことをしたい」、「バラバラでいたい」、「縛られたくない」願望を本質的に持っていると思う。そういう前提で、統治者が国をある方向に導くために個を制限させる、そして被統治者である国民は常にそれに反発しながらも導かれていくというのが健全な姿ではないかと思う。
少なくとも私は他の人と違うことをしたいし、バラバラでいたいし、縛られたくない。
ところが、今の日本は違う。国民自らが縛られようとしていて、それに違和感を感じずにみなが同調しているように思う。

このように考えると、私の違和感の源は、統治者ではなく、被統治者である国民の側から「日本を一つに」という言葉が出てくることの気持ち悪さなのではないかと思えてきた。

言いかえれば、統治者と被統治者の混同ということか。
私は今の日本では、この統治者と被統治者の混同ということが至る所で生じているように思う。
その一つの例が刑事裁判にもある。
何かの事件が起き、刑事裁判になった際、メディアをはじめ多くの国民の声は、
「犯人は死刑にすべき!」「犯罪者の味方をする弁護士もけしからん」
といったものであることが多い。
しかし、刑事裁判は、国家が国民の生命、自由を奪う手続であって、これほど恐ろしい場面はない。
国民は、国家が不当に国民の生命、自由を奪うことのないように監視する役割を担っている。
不当な刑事裁判が行われるということは、いつ自分も同じように生命や自由を奪われるかわからないということである。
そういう意味で、国民は、被告人の側にたって刑事裁判を見ることが求められているはずである。
ところが今の日本では、多くの国民、メディアは、権力の側に立って、国家と一緒になって被告人に罪を与えようとしている。

まさしく統治者と被統治者の混同だと思う。

そういうわけで、今日もまた小難しい話をしてしまったけれども、私は「日本を一つに」と言われたら反発したくなる。マスコミが煽りたてる今の風潮に異論を唱えたい。
そんなことを煽りたてなくても、みんな自分なりに被災した人たちのこと、この国の将来のことを考えているわけで、みんなが思うようにやればいいじゃない。放っておいてくれ。
無事です。ただまだ立川から東京に戻っている途中です。
今日は帰れないかもしれません。
携帯の電池切れそうです。
前原外相が外国人から政治献金をもらっていたという報道。
夕刊紙の見出しは「前原辞任不可避」など。
昨晩のニュースのコメンテーターも、外務大臣という立場から外国人からの政治献金はまずい、辞任だろうなどと平然と述べていた。

ちょっと待てよと言いたい。
今回前原大臣に献金をした相手というのは、報道によれば18年間前原さんのことを応援していたという、いわゆる在日コリアンのおばあちゃんだという。

なぜ外国人からの政治献金が禁止されるのかを考えれば、国民主権のもと、外国からの献金を受けるということは、その政治活動が外国の利益のためになることを避けるためだと思われる(これは私の単なる推論なので間違っていたらご指摘いただきたい)。
そうだとすれば、なぜに在日コリアンからの政治献金が禁止されなければならないのか。
在日コリアンは日本に根を下ろし、日本社会に貢献して生きている人達である。
日本でしか生きていくことができない人達である。在日コリアンの利益は日本社会の利益だとも言える。
在日コリアンについては、少なくとも地方選挙については投票権を認めることも憲法には反しないという最高裁判断も出ている中で、在日コリアンが自分たちの日本での生活をよくしてもらおうと、特定の政治家に対して政治献金をすることがなぜに禁止されなければならないのか。

そのようなことを考えれば、今回の在日コリアンによる政治献金というのは、非常に難しい問題であって、これを一刀両断的にけしからんと言い切ることは難しいとしか言いようがない。
この問題は、決して「政治とカネ」の問題ではない。「日本の政治に誰が参加するか」という憲法的な議論だと思う。

日本の政治にどのような者が当事者として関わるのかという資格を考えた際、「日本人」か「外国人」かなどという区別はもはや時代遅れだと思う。
日本社会に根をおろしている生活している「外国人」は多数いて、その人たちが自分たちの生活を守るために献金という形で政治参加する権利は認められるべきだと思う。

前原さんにはぜひ、簡単に辞任だなどと言わずに、この問題の本質を問題提起してもらいたい。
(ちなみ、私は前原さんを特別に支持しているわけではないが・・・)

こういったことを何も考えずに、外務大臣⇒外国人からの献金はまずい⇒辞任
などと思考停止しているとしか言えないマスコミはいい加減にするべきだ。
今日、無罪を確信していて、確信できるだけの証拠がそろっている痴漢事件の判決があり、有罪判決だった。

裁判官は、裁判官として最もやってはいけないことをした。

無辜を罰した。

裁判官に対して思うところは山ほどあるし、全てを裁判官のせいにしたい気分ではある。
しかし、弁護活動で足りないところがなかったかと問われれば、まだまだできたことはあったと思う。
全てを裁判官のせいにするのは簡単。けどそれを言っては自分の進歩がない。
自分への糧にするしかない。

また、こういう「ありえない」判決を積み重ねることが、刑事弁護士としての説得力を得るために必要なことだと思うことにする。

ところで、裁判官は無辜の人に向かって、有罪と判断した理由をとうとうと述べ、最後にこう言った。

「あなたが、事件直後から一貫して事件を否認していることは、裁判所も重々承知しています。あなたには控訴をする権利があります。控訴をするには・・・」

健全な社会常識にてらして、合理的な疑いを差し挟まない程度に、この人は痴漢をしたんだと判断したにも関わらずである。
私はこの一言に裁判官の迷いを感じた。
そして、その迷いは、まさしく「健全な社会常識に照らした合理的な疑い」なのではないかと思った。