私はこれまで6件の裁判員裁判の公判弁護をしてきた。その中には有罪か無罪かを争う事件もあれば、事実関係に争いがないような事件もある。また、正当防衛を主張した事件もあれば、心神喪失による無罪を主張した事件もある。また性犯罪もあればヤクザの事件もある。そこでこれまでの経験から自分なりに裁判員裁判を考えてみようと思う。
とりあえずいろんなポイントごとに何回かの連載にするつもりだが、全く計画はないのでどうなるかわからない。
連載にするという意気込みの証としてタイトルに(1)とつけてみた。
まずどのような事件の弁護をしてきたか。
① 殺人事件 東京地裁 統合失調症による影響で心神喪失による無罪を主張
結果:心神耗弱が認められ懲役7年(求刑は懲役12年) 控訴の後、確定
② 強盗強姦未遂事件 東京地裁 事実関係にほとんど争いなし
結果:懲役7年(求刑は懲役10年)確定
③ 強盗致傷事件 東京地裁 有罪であることに争いはないが、事実関係に争いあり
結果:懲役4年6月(求刑は懲役7年)確定
④ 傷害致死事件 東京地裁 正当防衛による無罪を主張
結果:無罪(求刑は懲役5年)確定
⑤ 覚せい剤密輸事件 東京地裁 ブラインド・ミュール(盲目の運び屋)による無罪を主張
結果:無罪(求刑は懲役14年、罰金800万円)控訴審係属中
⑥ 組織的殺人幇助事件 さいたま地裁 ヤクザの抗争事件、無罪を主張
結果:懲役6年6月(求刑は懲役10年)控訴審係属中
連載第1回目ということで、まず最初に私の裁判員裁判へのスタンスをはっきりしておこう。
私は裁判員裁判はすばらしいと思っている。
改善点はたくさんあるけれども、基本的なスタンスとして裁判員裁判肯定派である。
まず、弁護人として裁判員裁判の何が魅力的かと言うと、法壇の上に、裁判官ではない、私服を来た市民がいるということだ。
私はまだ弁護士4年目で大した経験もなく、裁判員裁判世代の弁護士だと思う。
そういう意味では、法壇の上に私服を来た市民がいることについて、私なんかが感じるよりもうん十倍もの感慨をベテラン弁護士たちは感じているのだろう。私ですらこれだけ感じたのだから、ベテラン弁護士たちの感慨深さは想像に余りある。
ではなぜ、法壇の上に裁判官ではない市民がいることが魅力的なのか。
それは刑事事件の弁護活動をしていると、どう考えても"常識"からかけ離れた判断が日々職業裁判官によって下され、そのことに疲弊し、辟易し、憤ることが常だからだ。
法壇の上に私服の市民がいれば、市民が常識に従った判断をしてくれるのではないか、そういった期待を抱かずにはいられないからだ。
そして、現に裁判員裁判では、これまでの職業裁判官のみの裁判官では出なかったような"常識"に適った判決が出ているように思う。
(逆に、裁判員裁判によって、「健全な社会常識」という名の下に誤った判断がされているとの批判をする人もいるだろうが、そのことについてはまたいつか考えることにしよう)。
現に、私が経験した裁判員裁判において、まさに市民の常識が導いた判決だと感じられるものはいくつもある。
と、いろいろ書き始めたらキリがないので、連載第1回目はここまでにしておこう。
帰化から3カ月投票不可「放置なら違憲も」 東京地裁判決
2012/1/20 21:52(日本経済新聞)
公職選挙法の規定で帰化から3カ月以内の選挙で投票できないのは不当だとして、元韓国籍の弁護士の男性(31)が国に賠償を求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であり、三角比呂裁判長は「現状が放置されれば違憲となる場合もある」と指摘した。規定は合憲として請求は棄却した。
原告は2009年7月に帰化したが、住民基本台帳に3カ月以上登録されていないと投票できないとする公選法の規定で同年8月の衆院選で投票できなかった。三角裁判長は「不正を防ぐため居住実態の調査に一定期間が必要」として、公選法の規定自体は合憲と結論付けた。
一方で「今回の選挙で投票できなかった帰化者は3449人と決して看過してよい数ではなく、制限は軽くない。実現可能な他の措置を不断に検討する必要があり、現状を放置すれば違憲と判断される場合もある」と指摘した。
-----
記者会見で私が話した内容の要旨。(だいたいこんな感じ)
まず、なぜ私がこの訴訟を提起しようと思ったかについてですが、私たち在日コリアンにとってこの国の選挙に参加することは積年の願いでした。地方参政権については、最高裁判所は永住外国人に選挙権を認めることは憲法に反しないと述べました。しかし国政選挙についてはここまでの言及はなされていません。この国の政府は「選挙に参加したいなら帰化をしろ」と、帰化を盾に選挙権を認めることをしませんでした。
このたび私は、別に選挙に行くために帰化をしたわけではありませんが、帰化をして、ちょうどそのタイミングで大きな選挙があり、ようやくこの国の選挙に行くことができるのかと思いました。しかし、投票することができませんでした。
これまで散々「選挙に行きたいなら帰化をしろ」と言ってきたのに、帰化をしても投票させないのかという純粋な怒りのような感情があり、この訴訟を提起することにしました。3ヶ月という期間が長すぎるとかそういうことよりも、なぜ選挙権があるのに投票できないのかという感情的なところが大きかったです。
この判決に対する感想ですが、憲法でも法律でも、国政選挙の選挙権の要件はただ2つです。「20歳以上」であること、「日本国民」であることだけです。3ヶ月以上継続して住むことは、選挙権の要件ではありません。つまり、新しく選挙権を取得する人は細かな例外を除けば2種類しかなく、それは新しく20歳以上になる人=新成人と、新しく日本国民になる人=帰化した人だけです。そして、新成人については、投票日に20歳になる人については、投票が制限されないように、19歳の時点から手当てがなされています。しかし、もう一方の「帰化した人」については何らの手当てがなされずに、選挙権を取得してから3ヶ月間その行使が制限される、これはおかしいだろうと思っています。
いま、選挙権の裁判と言えば、「一票の格差」訴訟が全国的に提起され、非常に盛り上がっているところです。一票の格差訴訟では、1票vs0.2票ということが問題にされています。しかし、今回の裁判の問題は1:0.2どころではありません。投票する機会が与えられなかったのですから、0票の価値しかなかったのです。一票の格差よりもより深刻な問題がここにはあります。
しかし、今回の判決文はこのような問題に対する配慮がなかったのではないかと思います。
とはいえ、「放置なら違憲も」という判断がでたわけですが、このような判断を引き出した要因としては、今回の選挙だけでも3449人もの人の選挙権が制限されているということで、この3449という数字のインパクトが大きかったのだろうと思います。選挙のたびに3000人、4000人もの選挙権が制限されるということはさすがに見て見ぬふりはできないということだと思います。
2012/1/20 21:52(日本経済新聞)
公職選挙法の規定で帰化から3カ月以内の選挙で投票できないのは不当だとして、元韓国籍の弁護士の男性(31)が国に賠償を求めた訴訟の判決が20日、東京地裁であり、三角比呂裁判長は「現状が放置されれば違憲となる場合もある」と指摘した。規定は合憲として請求は棄却した。
原告は2009年7月に帰化したが、住民基本台帳に3カ月以上登録されていないと投票できないとする公選法の規定で同年8月の衆院選で投票できなかった。三角裁判長は「不正を防ぐため居住実態の調査に一定期間が必要」として、公選法の規定自体は合憲と結論付けた。
一方で「今回の選挙で投票できなかった帰化者は3449人と決して看過してよい数ではなく、制限は軽くない。実現可能な他の措置を不断に検討する必要があり、現状を放置すれば違憲と判断される場合もある」と指摘した。
-----
記者会見で私が話した内容の要旨。(だいたいこんな感じ)
まず、なぜ私がこの訴訟を提起しようと思ったかについてですが、私たち在日コリアンにとってこの国の選挙に参加することは積年の願いでした。地方参政権については、最高裁判所は永住外国人に選挙権を認めることは憲法に反しないと述べました。しかし国政選挙についてはここまでの言及はなされていません。この国の政府は「選挙に参加したいなら帰化をしろ」と、帰化を盾に選挙権を認めることをしませんでした。
このたび私は、別に選挙に行くために帰化をしたわけではありませんが、帰化をして、ちょうどそのタイミングで大きな選挙があり、ようやくこの国の選挙に行くことができるのかと思いました。しかし、投票することができませんでした。
これまで散々「選挙に行きたいなら帰化をしろ」と言ってきたのに、帰化をしても投票させないのかという純粋な怒りのような感情があり、この訴訟を提起することにしました。3ヶ月という期間が長すぎるとかそういうことよりも、なぜ選挙権があるのに投票できないのかという感情的なところが大きかったです。
この判決に対する感想ですが、憲法でも法律でも、国政選挙の選挙権の要件はただ2つです。「20歳以上」であること、「日本国民」であることだけです。3ヶ月以上継続して住むことは、選挙権の要件ではありません。つまり、新しく選挙権を取得する人は細かな例外を除けば2種類しかなく、それは新しく20歳以上になる人=新成人と、新しく日本国民になる人=帰化した人だけです。そして、新成人については、投票日に20歳になる人については、投票が制限されないように、19歳の時点から手当てがなされています。しかし、もう一方の「帰化した人」については何らの手当てがなされずに、選挙権を取得してから3ヶ月間その行使が制限される、これはおかしいだろうと思っています。
いま、選挙権の裁判と言えば、「一票の格差」訴訟が全国的に提起され、非常に盛り上がっているところです。一票の格差訴訟では、1票vs0.2票ということが問題にされています。しかし、今回の裁判の問題は1:0.2どころではありません。投票する機会が与えられなかったのですから、0票の価値しかなかったのです。一票の格差よりもより深刻な問題がここにはあります。
しかし、今回の判決文はこのような問題に対する配慮がなかったのではないかと思います。
とはいえ、「放置なら違憲も」という判断がでたわけですが、このような判断を引き出した要因としては、今回の選挙だけでも3449人もの人の選挙権が制限されているということで、この3449という数字のインパクトが大きかったのだろうと思います。選挙のたびに3000人、4000人もの選挙権が制限されるということはさすがに見て見ぬふりはできないということだと思います。
裁判員裁判が始まって2年以上経過し、裁判員裁判と控訴審との関係も注目されてきた。
東京高裁等では裁判員裁判で無罪とされたものが、控訴審で逆転で有罪とされた事件があった。
一方、この数週間で、福岡高裁で立て続けに2件、裁判員裁判で有罪とされたものが控訴審で逆転無罪となった。
ニュースなどを見ていると、裁判員裁判で下した結論を、裁判官のみの裁判である控訴審で覆すのは、裁判員制度を崩壊させるなどという論調が散見される。
しかし、「裁判員裁判で無罪→控訴審で有罪」の事件と、「裁判員裁判で有罪→控訴審で無罪」を同列に論じるのは間違っていると私は思う。
裁判員裁判で有罪判決が下ったということは、1審において裁判員と裁判官の評議の中で、被告人が犯罪を犯したことについて、常識に従って間違いないと判断されたということである。
確かにこの市民の常識を反映した判断は尊重されるべきではあるが、控訴審の裁判官が、「常識したがって間違いないと言うには疑問が残る」と判断したのであれば、当然無罪判決が下されるべきである。
裁判員だろうが裁判官だろうが、犯罪の成立について合理的な疑問が残れば無罪にするのはルールだからである。
ところが、その逆は問題が全く異なる。
裁判員裁判で無罪判決が下ったということは、第1審の裁判官と裁判員の評議の中で、犯罪の成立について「常識に従って判断して間違いないとは言えない」との結論に至ったということである。
3人と裁判官と6人の裁判員のうち、少なくとも5名は疑問を感じたということである。
にも関わらず、控訴審で逆転有罪判決を下すということは、この少なくとも5名の市民の常識も交えた合理的な疑問を裁判官だけの裁判によって無視するということである。
このようなことが安易にまかり通れば、まさに裁判員裁判を崩壊させる。
刑事裁判は、検察官の主張について、「合理的な疑問があるかないか」が判断される。
したがって、その合理的な疑問は第1審の裁判体の中で生じようが、控訴審の裁判体の中で生じようが関係ない。そのような疑問があれば無罪とする。それが刑事裁判である。
この話をつきつめると、第1審で無罪とされた人について、検察官が控訴できること自体が憲法違反ではないかという議論にいきつくが、それはまた別の機会に考えようと思う。
いずれにせよ、刑事裁判のルールを考えれば、「裁判員裁判で有罪→控訴審で無罪」と「裁判員裁判で無罪→控訴審で有罪」を同列に論じることは絶対に間違っている。
市民を交えた裁判員裁判の判断を尊重すべきだということに異論は無いが、そのことが、控訴審の裁判官が合理的な疑問があると判断すれば、被告人は無罪とされるという刑事裁判の最も基本的なルールを凌駕することはありえない。
東京高裁等では裁判員裁判で無罪とされたものが、控訴審で逆転で有罪とされた事件があった。
一方、この数週間で、福岡高裁で立て続けに2件、裁判員裁判で有罪とされたものが控訴審で逆転無罪となった。
ニュースなどを見ていると、裁判員裁判で下した結論を、裁判官のみの裁判である控訴審で覆すのは、裁判員制度を崩壊させるなどという論調が散見される。
しかし、「裁判員裁判で無罪→控訴審で有罪」の事件と、「裁判員裁判で有罪→控訴審で無罪」を同列に論じるのは間違っていると私は思う。
裁判員裁判で有罪判決が下ったということは、1審において裁判員と裁判官の評議の中で、被告人が犯罪を犯したことについて、常識に従って間違いないと判断されたということである。
確かにこの市民の常識を反映した判断は尊重されるべきではあるが、控訴審の裁判官が、「常識したがって間違いないと言うには疑問が残る」と判断したのであれば、当然無罪判決が下されるべきである。
裁判員だろうが裁判官だろうが、犯罪の成立について合理的な疑問が残れば無罪にするのはルールだからである。
ところが、その逆は問題が全く異なる。
裁判員裁判で無罪判決が下ったということは、第1審の裁判官と裁判員の評議の中で、犯罪の成立について「常識に従って判断して間違いないとは言えない」との結論に至ったということである。
3人と裁判官と6人の裁判員のうち、少なくとも5名は疑問を感じたということである。
にも関わらず、控訴審で逆転有罪判決を下すということは、この少なくとも5名の市民の常識も交えた合理的な疑問を裁判官だけの裁判によって無視するということである。
このようなことが安易にまかり通れば、まさに裁判員裁判を崩壊させる。
刑事裁判は、検察官の主張について、「合理的な疑問があるかないか」が判断される。
したがって、その合理的な疑問は第1審の裁判体の中で生じようが、控訴審の裁判体の中で生じようが関係ない。そのような疑問があれば無罪とする。それが刑事裁判である。
この話をつきつめると、第1審で無罪とされた人について、検察官が控訴できること自体が憲法違反ではないかという議論にいきつくが、それはまた別の機会に考えようと思う。
いずれにせよ、刑事裁判のルールを考えれば、「裁判員裁判で有罪→控訴審で無罪」と「裁判員裁判で無罪→控訴審で有罪」を同列に論じることは絶対に間違っている。
市民を交えた裁判員裁判の判断を尊重すべきだということに異論は無いが、そのことが、控訴審の裁判官が合理的な疑問があると判断すれば、被告人は無罪とされるという刑事裁判の最も基本的なルールを凌駕することはありえない。
幸か不幸か、何かの因果かどうかはわからないが、この3年間、自白事件よりも多くの否認事件の弁護活動をしてきた。
これらの否認事件(その多くは無罪を主張する事件)、弁護人である私はどの事件も無罪であると確信して弁護活動をしてきた。
よく、弁護士は有罪の人を無罪にする人だからけしからんなどという人もいるが、それは間違っている。弁護士は事実を曲げることなんてできない。あることをないとは言えないし、ないことをあるとも言えない。これまでの否認事件のいずれの事件も、私は依頼者と話す中で、さまざまな疑問を依頼者にぶつけ、その対話の中から、この人は無罪であると確信してきた。確信できるまで議論をしてきた。
しかし、裁判は証拠によって判断されるものなので、裁判の中に出てくる証拠を考えると、無罪判決は厳しいと思える事件はもちろんある。むしろ多くの事件はそうかもしれない。
逆に、裁判の中で出てきた証拠を見ても、絶対に無罪判決が出ると思える事件もあった。
今回の傷害致死事件、判決宣告を迎えるにあたって、私の内心は、「絶対に無罪判決が出る」と思っていた。
裁判に出てきた証拠を見て、絶対に無罪だと確信していた。私の乏しい経験の中では、このような事件は2件目だった。
ところが、1件目の事件は、判決は有罪判決だった。
私も刑事弁護人の端くれなのか、はたまた生まれ持った性格なのか、物事を懐疑的に見てしまうところがある。
1件目の無罪確信事件のとき、私は判決宣告を聞く時、頭の中で、
「絶対無罪だと思うけど、裁判官は有罪判決を下すんだろうなぁ」
と想像していた。
刑事裁判の判決の場合、最初の6文字で有罪判決か無罪判決かがわかる。
有罪判決の場合、「ヒコクニン『を』懲役●●年に処する」となり
無罪判決の場合、「ヒコクニン『は』無罪」となる。
1件目の無罪確信事件で判決を聞く時、私の頭の中は
「裁判官は、「ヒコクニン『を』」って言うんだろうなぁ」と想像しながら聞いた。
そして、予想通り、裁判官は「ヒコクニン『を』」と言った。
なので、無罪判決を確信した事件であったが、有罪判決をのべる裁判官の声を聞きながら「やっぱり」という気持ちになった。
さて、今回の傷害致死事件。
今回も私の頭の中は、1件目の事件と同じだった。
絶対無罪だと思っていたが、裁判官は「ヒコクニン『を』」と言うんだろうなぁと思っていた。
ところが、芦澤裁判長は、とてもあっさり、あまりにあっけなく「ヒコクニン『は』無罪」と言った。
無罪判決を確信していたにもかかわらず、私は無罪判決を聞きながら「やっぱり」とは思えなかった。
何とも言えないあっけにとられた気持ちになった。
そして、何よりも、依頼者の自由を守ることができたことに安堵の気持ちになった。
彼は絶対に無罪だった。
彼は絶対に国家に自由を奪われてはならなかった。
そして、彼は無罪になった。
彼は自由を奪われなかった。
-----
先日亡くなられた高野嘉雄弁護士は、「無実の人を無罪にするのは当たり前、真に犯罪を犯した人をどう弁護するかこそが、弁護人の腕の見せ所」とおっしゃられていた。(季刊刑事弁護68号73ページ)
私は高野嘉雄弁護士の言葉に何か言える立場では全くないが、それでも今回私は思った。
「無罪の人を無罪にする」弁護は絶対に重要であると。
私はもうすでにこの数年間で、何人もの無罪判決が下されるべき依頼者に、無罪判決を下させる弁護ができなかった。
今回は、もちろん高野隆弁護士の圧倒的な力もあり、無罪判決が下されるべき依頼者に無罪判決を下させる弁護ができた。
今後も「無罪判決が下されるべき人に無罪判決を」を目標にがんばろうと思った。
そして、それが実現できたとき、高野嘉雄弁護士の言葉にあるように「無実の人を無罪にするのは当たり前」という心境になるのかもしれない。
昨今のさまざまな検察不祥事の影響なのか、取調べの全面録画が裁判員裁判対象事件を中心に始まっているようだ。
さて、この取調べの全面録画について、弁護人としてどのようなスタンスで望むべきか。
そして、取調べ全面録画の行く末はどうなるのか。
これまでは取調べの録画といっても、検察官が調書という名の作文を作り終えた後、被疑者に署名をさせるシーンのみが撮影されていた。これは一言で言えば、検察官の都合のいい場面のみの録画であって、署名シーンを録画されることによる被疑者のメリットは何一つなかった。
弁護人としては、署名をしないようにアドバイスをすればよかったし、録画については拒否すればよかった。
一方、最近始まったのは、取調べの最初から最後までの録画である。
この全部録画に対して、どのようなスタンスで望むべきか。
捜査段階で検察官に証拠を与えないようにするという観点を重視すれば、全部録画についても拒否するというスタンスになるだろう。
しかし、私は刑事弁護の行く末まで考えると、取調べ全部録画は応じるべきだと思う。
取調べを全部録画されるということは、被疑者がいろいろ話す様子が逐一記録されるわけで、その中で被疑者が供述すれば、仮に調書の署名を拒否したとしても、記録が残ってしまう。
つまり、調書さえ作らさなければ証拠にならないというこれまでの常識は通用しなくなる。
いわば、"自白動画"がこれまでの自白調書に取って代わることになる。
このような状況を考えると、被疑者を守る弁護人のアドバイスとしては、「黙秘」が第一選択になる。
何も話さなければ何も証拠が残らないのだから。
しかし、検事は被疑者が「黙秘します」と言って、「わかりました」と素直に引き下がるような人種ではない。検事はあの手この手で自白を迫るだろう。
例えば、「黙秘をします」という被疑者に対して、延々と質問をし続けて、その挙げ句、自白をしてしまう人も当然出てくるだろう。
その人が仮に調書の署名は拒否したとしても、検事は"自白動画"を証拠請求するだろう。
それでも、私は取調べの全部録画には応じるべきだと思う。
重要なのは、従来の調書では、いくら自白が任意のものではないと争ったとしても、その成果物である調書は、任意性があるかのような外観を整えていたことである。
調書からは任意性があるとしか思えない体裁になっていたことである。
裁判官は、「被疑者はいろいろ自白させられた理由とは言っているけど、最後は納得してサインしたんでしょ」と思うようになっている。
しかし、それが全面録画によって、自白に至る過程がリアルに明らかになって、これまでよりも遥かに自白の任意性を争いやすくなるだろう。
被疑者が黙秘する意思を明確に示しているのに、検事の質問攻めに遭って泣きながら自白をすれば、黙秘権侵害だと言いやすくなるだろう。
そして、このような事例を積み重ねれば、当然に巻き起こる議論は、黙秘権と取調受任義務の衝突という話だと思う。
取調べを受けることを強制されてしまっては、被疑者は黙秘権など行使できないのではないか。
黙秘権を保障するのであれば、被疑者はいつでも取調べを中断することができるようにしなければならないのではないか。
しかし、現実は、身体拘束されている被疑者が、取調べを受ける義務がないとすることはかなり困難だと思う。であれば、次善策として、被疑者の取調べに弁護人を立ち会わせろという話にならざるを得ないような気がする。
そう考えると、全面録画に応じることはミランダの会の再結成につながるような気がしてきた。
いま全面録画に応じなければ、自白調書にサインをしてしまったら任意性はほぼ認められてしまうだろう。
検察庁は、せっかく弁護士の希望通り全面録画を始めたのに弁護人が拒否するのであれば、全面録画なんてやーめたと言われるかもしれません。
検察庁が全面録画を始めたことはじつは千載一遇のチャンスのような気がしてきた。
全面録画に応じることで、中には黙秘できずに供述をして、それが有罪の証拠として使われてしまう事例も出てくるだろう。
しかし重要なことは、そのような黙秘をしきれずに供述してしまう様子をすべて明らかにすることだと思う。そうすることで、黙秘権侵害の常態化が明らかになるような気がする。
そしてそのことは、被疑者の取調べを大きく転換するほどのインパクトがあるような気がする。
そのときに備えて、ミランダの会が再始動する準備をしたほうがいいのかもしれない。
(ちなみにタイトルも内容も全て私見です。高野隆弁護士からの圧力など一切ありません。私が勝手にそう思っているだけです。)
さて、この取調べの全面録画について、弁護人としてどのようなスタンスで望むべきか。
そして、取調べ全面録画の行く末はどうなるのか。
これまでは取調べの録画といっても、検察官が調書という名の作文を作り終えた後、被疑者に署名をさせるシーンのみが撮影されていた。これは一言で言えば、検察官の都合のいい場面のみの録画であって、署名シーンを録画されることによる被疑者のメリットは何一つなかった。
弁護人としては、署名をしないようにアドバイスをすればよかったし、録画については拒否すればよかった。
一方、最近始まったのは、取調べの最初から最後までの録画である。
この全部録画に対して、どのようなスタンスで望むべきか。
捜査段階で検察官に証拠を与えないようにするという観点を重視すれば、全部録画についても拒否するというスタンスになるだろう。
しかし、私は刑事弁護の行く末まで考えると、取調べ全部録画は応じるべきだと思う。
取調べを全部録画されるということは、被疑者がいろいろ話す様子が逐一記録されるわけで、その中で被疑者が供述すれば、仮に調書の署名を拒否したとしても、記録が残ってしまう。
つまり、調書さえ作らさなければ証拠にならないというこれまでの常識は通用しなくなる。
いわば、"自白動画"がこれまでの自白調書に取って代わることになる。
このような状況を考えると、被疑者を守る弁護人のアドバイスとしては、「黙秘」が第一選択になる。
何も話さなければ何も証拠が残らないのだから。
しかし、検事は被疑者が「黙秘します」と言って、「わかりました」と素直に引き下がるような人種ではない。検事はあの手この手で自白を迫るだろう。
例えば、「黙秘をします」という被疑者に対して、延々と質問をし続けて、その挙げ句、自白をしてしまう人も当然出てくるだろう。
その人が仮に調書の署名は拒否したとしても、検事は"自白動画"を証拠請求するだろう。
それでも、私は取調べの全部録画には応じるべきだと思う。
重要なのは、従来の調書では、いくら自白が任意のものではないと争ったとしても、その成果物である調書は、任意性があるかのような外観を整えていたことである。
調書からは任意性があるとしか思えない体裁になっていたことである。
裁判官は、「被疑者はいろいろ自白させられた理由とは言っているけど、最後は納得してサインしたんでしょ」と思うようになっている。
しかし、それが全面録画によって、自白に至る過程がリアルに明らかになって、これまでよりも遥かに自白の任意性を争いやすくなるだろう。
被疑者が黙秘する意思を明確に示しているのに、検事の質問攻めに遭って泣きながら自白をすれば、黙秘権侵害だと言いやすくなるだろう。
そして、このような事例を積み重ねれば、当然に巻き起こる議論は、黙秘権と取調受任義務の衝突という話だと思う。
取調べを受けることを強制されてしまっては、被疑者は黙秘権など行使できないのではないか。
黙秘権を保障するのであれば、被疑者はいつでも取調べを中断することができるようにしなければならないのではないか。
しかし、現実は、身体拘束されている被疑者が、取調べを受ける義務がないとすることはかなり困難だと思う。であれば、次善策として、被疑者の取調べに弁護人を立ち会わせろという話にならざるを得ないような気がする。
そう考えると、全面録画に応じることはミランダの会の再結成につながるような気がしてきた。
いま全面録画に応じなければ、自白調書にサインをしてしまったら任意性はほぼ認められてしまうだろう。
検察庁は、せっかく弁護士の希望通り全面録画を始めたのに弁護人が拒否するのであれば、全面録画なんてやーめたと言われるかもしれません。
検察庁が全面録画を始めたことはじつは千載一遇のチャンスのような気がしてきた。
全面録画に応じることで、中には黙秘できずに供述をして、それが有罪の証拠として使われてしまう事例も出てくるだろう。
しかし重要なことは、そのような黙秘をしきれずに供述してしまう様子をすべて明らかにすることだと思う。そうすることで、黙秘権侵害の常態化が明らかになるような気がする。
そしてそのことは、被疑者の取調べを大きく転換するほどのインパクトがあるような気がする。
そのときに備えて、ミランダの会が再始動する準備をしたほうがいいのかもしれない。
(ちなみにタイトルも内容も全て私見です。高野隆弁護士からの圧力など一切ありません。私が勝手にそう思っているだけです。)