3月1日、早稲田リーガルコモンズ法律事務所がスタートした。
私はこの事務所の設立メンバーの1人となりました。
この事務所、開所前から日経新聞で2度にわたって報道されるなど、華々しいスタートを切ることができた。各方面に対して感謝してもしきれません。
この事務所のコンセプト、成り立ち等々はあらゆるところでいろんな人が情報発信をしているのでそちらに譲りましょう。
事務所HPにもいろいろ書かれている。
www.legalcommons.jp
ここでは私、弁護士趙誠峰個人として、このコモンズ事務所に対する思いを書き留めようと思う。
私は2008年12月に弁護士登録をして以来、高野隆弁護士のもとで刑事弁護はもとより、弁護士としてのイロハを学んできた。
そして、その中で私の中に根をはったものの一つとして、「弁護士たるもの、目の前の依頼者の利益のために徹底的にその人の側に立って行動するもの」という弁護士としての最も基本的な行動原理がある。
刑事弁護に関して言えば、たとえ依頼者が社会からの嫌われ者だろうが、ヤクザだろうがオウムだろうが何だろうが、その人が国家から生命、身体の自由を奪われそうになっている以上、徹底的にその依頼者の側に立って、依頼者の利益のためだけに動くことが要求される。
その意味で、弁護士としての活動は誰のためでもなく、世の中のためでもなく、依頼者のためでなければならない。弁護士という職業は極めてプライベートな仕事だということである。
私はこれは弁護士たる職業の基本だと思っている。
ところで、私たちがこのたび設立した「早稲田リーガルコモンズ法律事務所」は「コモンズ」という言葉が示しているように、決してプライベートに特化した事務所ではない。
「コモンズ」の意味するところは事務所HPに譲るとして、この事務所はいくぶんか公益的な色彩を帯びた事務所であることは間違いない。
そして、われらがコモンズの中には、私のような刑事弁護をやっている者から、企業法務、ファイナンスなどを専門に手がける者まで幅広い人材が集まった。
そして、私がこの公益的な色彩を帯びた事務所の中で果たすべき役割として、プライベートな弁護士でいることが求められていると自分で勝手に理解している。
どういうことかと言えば、刑事弁護という役割からしても、世のため人のための弁護なんかではなく、弁護士たるもの目の前の依頼者の利益のためだけに動くということを実践することこそが求められていると思う。たとえそれが世の中全員を敵に回すような行動であったとしてもである。
そして、弁護士という職業の本質は、決して中立的なものではなく、決して公平なものではなく、極めてかたよった、極めて不公平な存在であることを、このコモンズで実践することに意味があるのだろう。
そして、このコモンズ事務所がこのような弁護士の受け皿になり続けられるように育てていきたいと思う。
今回は裁判員裁判を考えるシリーズから離れて、時事問題について思ったことを。
インターネット上の書き込みについて、真犯人ではない人を逮捕し、起訴し、保護処分が出された等々話題になっている。
今回警察はIPアドレスを根拠に被疑者を逮捕し、中には「自白」をして起訴された人がいるとのことである。
マスコミをはじめとする多くの論調は警察の捜査はずさんだ!誤認逮捕けしからん!というものである。非難の矛先は誤認逮捕をした警察、自白を強要した警察、検察、起訴した検察といったところだろう。
しかし私は、非難されるべきは誤認逮捕をした警察ではないと思う。
警察はIPアドレスを根拠に各被疑者を逮捕したとのことである。このこと自体、間違っていないと思う。IPアドレスはそれ自体、当該パソコンから違法な書き込みがなされたことを疑わしめる1事情であることは間違いない。今回の件でこのIPアドレスというものが絶対的なものではないことが世に知れ渡ったが、とはいえ重要な証拠であることは遠隔操作できるウイルスがあっても変わらない。
だから、IPアドレスを根拠に逮捕することがあっても私は仕方ないと思う。
問題はその後である。
今の日本の事件捜査では、逮捕すればほぼ自動的に10日間(ないし20日間)勾留されるという運用になっている。このことが最大の問題点である。
IPアドレスから疑われた人について逮捕したとしても、その人の弁解を聞いて、その人が事実を否認しているのであればすぐに釈放すればいい。逮捕して、証拠物件となるパソコンを押収して、問題となるようなウイルスがないかどうか、IPアドレスを信用すればいいのかどうか、時間をかけて証拠物件を精査すればいい。そのような捜査を時間をかけて行うべきである。
ところが、現状は、逮捕し、20日間勾留する中で、IPアドレスが出ているんだぞといって自白を強要する捜査が行われている。自白を強要することが非難されるべきことは言うまでもないが、その根本的な原因は、逮捕=20日間の身柄拘束という、現在の日本の捜査実務にあると私は思う。
そして、その原因は誰か。もちろん勾留請求する検察官にも責任はあるのかもしれないが、それよりも何よりも、捜査機関からの令状請求に対してメクラ判を押して続けている裁判官こそ、非難されるべきである。
今回の一連の事件報道を見ていて、一番非難されるべきことは、このような事件で安易に20日間の身柄拘束を認めている裁判官だと思った。
身に覚えのない事実で逮捕されたとしても、最初に弁解を聞かれた時には身に覚えのない人は「身に覚えがない」と言うだろう。その後、速やかに被疑者を釈放すれば自白を強要されることもないし、起訴されることもなかっただろう。捜査機関も20日間という短期間に慌てて捜査することもなく、時間をかけてPC等の証拠物件の精査をすることができただろう。
そうすれば今回のような悲劇は起こらなかったはずだ。
よく、冤罪報道の際にも、警察が謝罪する場面が報道される。
私は間違っていると思う。
結果として警察が捜査の対象とした人物が本来捜査の対象をすべき人ではなかったとしても、それがチェックできるように裁判所という存在がある。言い換えれば、警察の捜査に誤りがあることは制度上織り込み済みなのである。
冤罪事件で謝るべきはチェック機能を果たせなかった裁判所である。
ところが、どうもマスコミ等の批判の矛先は警察に向かう。これは非常に危険だ。
なぜならば、非難の矛先が警察に向かうということは、無意識のうちに、世論が警察のやることは全て正しいという前提に立とうとしていて、その後にあるべき裁判所によるチェックというものに目を配らなくなるからだ。
その行き着く先は、「警察が捜査し、検察が起訴したのだから有罪だろう」という有罪推定原則の蔓延だと思う。
警察がやることには誤りが含まれるのは当たり前だ、だからこそ裁判所が身柄拘束についてもチェックをするんだという感覚をもっと世の中に根付かせる必要がある。
そのような感覚が根付けば、検察が起訴したとしても、正しいかどうかわからない。それをチェックするのが裁判所の役割だ、という感覚を持った裁判員が増えるのだろう。
インターネット上の書き込みについて、真犯人ではない人を逮捕し、起訴し、保護処分が出された等々話題になっている。
今回警察はIPアドレスを根拠に被疑者を逮捕し、中には「自白」をして起訴された人がいるとのことである。
マスコミをはじめとする多くの論調は警察の捜査はずさんだ!誤認逮捕けしからん!というものである。非難の矛先は誤認逮捕をした警察、自白を強要した警察、検察、起訴した検察といったところだろう。
しかし私は、非難されるべきは誤認逮捕をした警察ではないと思う。
警察はIPアドレスを根拠に各被疑者を逮捕したとのことである。このこと自体、間違っていないと思う。IPアドレスはそれ自体、当該パソコンから違法な書き込みがなされたことを疑わしめる1事情であることは間違いない。今回の件でこのIPアドレスというものが絶対的なものではないことが世に知れ渡ったが、とはいえ重要な証拠であることは遠隔操作できるウイルスがあっても変わらない。
だから、IPアドレスを根拠に逮捕することがあっても私は仕方ないと思う。
問題はその後である。
今の日本の事件捜査では、逮捕すればほぼ自動的に10日間(ないし20日間)勾留されるという運用になっている。このことが最大の問題点である。
IPアドレスから疑われた人について逮捕したとしても、その人の弁解を聞いて、その人が事実を否認しているのであればすぐに釈放すればいい。逮捕して、証拠物件となるパソコンを押収して、問題となるようなウイルスがないかどうか、IPアドレスを信用すればいいのかどうか、時間をかけて証拠物件を精査すればいい。そのような捜査を時間をかけて行うべきである。
ところが、現状は、逮捕し、20日間勾留する中で、IPアドレスが出ているんだぞといって自白を強要する捜査が行われている。自白を強要することが非難されるべきことは言うまでもないが、その根本的な原因は、逮捕=20日間の身柄拘束という、現在の日本の捜査実務にあると私は思う。
そして、その原因は誰か。もちろん勾留請求する検察官にも責任はあるのかもしれないが、それよりも何よりも、捜査機関からの令状請求に対してメクラ判を押して続けている裁判官こそ、非難されるべきである。
今回の一連の事件報道を見ていて、一番非難されるべきことは、このような事件で安易に20日間の身柄拘束を認めている裁判官だと思った。
身に覚えのない事実で逮捕されたとしても、最初に弁解を聞かれた時には身に覚えのない人は「身に覚えがない」と言うだろう。その後、速やかに被疑者を釈放すれば自白を強要されることもないし、起訴されることもなかっただろう。捜査機関も20日間という短期間に慌てて捜査することもなく、時間をかけてPC等の証拠物件の精査をすることができただろう。
そうすれば今回のような悲劇は起こらなかったはずだ。
よく、冤罪報道の際にも、警察が謝罪する場面が報道される。
私は間違っていると思う。
結果として警察が捜査の対象とした人物が本来捜査の対象をすべき人ではなかったとしても、それがチェックできるように裁判所という存在がある。言い換えれば、警察の捜査に誤りがあることは制度上織り込み済みなのである。
冤罪事件で謝るべきはチェック機能を果たせなかった裁判所である。
ところが、どうもマスコミ等の批判の矛先は警察に向かう。これは非常に危険だ。
なぜならば、非難の矛先が警察に向かうということは、無意識のうちに、世論が警察のやることは全て正しいという前提に立とうとしていて、その後にあるべき裁判所によるチェックというものに目を配らなくなるからだ。
その行き着く先は、「警察が捜査し、検察が起訴したのだから有罪だろう」という有罪推定原則の蔓延だと思う。
警察がやることには誤りが含まれるのは当たり前だ、だからこそ裁判所が身柄拘束についてもチェックをするんだという感覚をもっと世の中に根付かせる必要がある。
そのような感覚が根付けば、検察が起訴したとしても、正しいかどうかわからない。それをチェックするのが裁判所の役割だ、という感覚を持った裁判員が増えるのだろう。
今日、ひっそりと最高裁でとても重要な判決が出た。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120907162323.pdf
被告人に前科がある場合に、その前科の存在を被告人が有罪か無罪かの判断に使えるか、使えるとしてもどのような場合に使えるかということが問題になった事件である。
この事件の被告人は10年以上前に11件の放火事件を起こして刑務所に入っていた。
そして、それらの放火事件のほぼすべてが、窃盗事件とセットになっていた。また、放火の方法としては室内に灯油をまいて火をつけるという方法だった。
その後、刑務所から出所した後、この人は窃盗事件を何件か起こした。
そして今回、ある家が放火で燃やされた。灯油をまいて火をつけられていた。そして家の中から誰かがカップラーメンを食べた痕跡があった。そしてそのカップラーメンからこの被告人のDNAが検出され、窃盗事件で逮捕された。
しかし彼は放火については事実を否認した。
そして、彼は放火と窃盗の罪で起訴された。
こういう事件である。
彼が放火をしたという証拠は何もない。検察官は、彼は以前に11件も放火事件を起こしており、そのほぼ全てが窃盗事件とセットになっており、しかも灯油をまいて火をつけていたという前科を、今回の放火事件の犯人が彼であることの証拠として請求した。
この事件の第1審は裁判員裁判で行われた。
河合健司裁判長はこの11件の放火の前科を、今回の事件の放火事件の犯人が彼であることの証拠として用いることはできないとして証拠請求を却下した。
そして、放火事件については無罪とした。
検察官は控訴し、東京高裁飯田喜信裁判長は、前科の放火の手口と今回の事件の放火の手口について「特徴的な類似性」があるからという理由で、前科を証拠として採用すべきだったとして無罪判決を破棄した。
それに対して被告人が最高裁判所に上告したのが今回の件だった。
ところで、なぜ前科の存在を、その事件の犯人が被告人であることの証拠として用いることが問題とされるか。
それは、前科の存在からその被告人は「悪い奴だ、犯罪をするような奴だ」という印象を持ち、だからこそ今回の事件の犯人もその被告人に違いないという思考経路を人間は取ってしまうからである。
これはどんな人間でも避けられない思考経路だと言われている。
どんなに経験豊富な裁判官であっても、初めて裁判に関わる裁判員であっても、誰にでも共通する。
人間はそういう生き物なのである。
逆に言うと、だからこそ検察官は前科を証拠として使いたがる。
そして今日、最高裁判所はこのように判断した。
「前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり,・・・、前科証拠によって証明しようとする事実について,実証的根拠の乏しい人格評価によって誤った事実認定に至るおそれがないと認められるときに初めて証拠とすることが許されると解するべきである。本件のように,前科証拠を被告人と犯人の同一性証拠に用いる場合についていうならば,前科に係る犯罪事実が顕著な特徴を有し,かつ,それが起訴に係る犯罪事実と相当程度類似することから,それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できるものというべきである。」
この判決で重要な部分は、
前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり、(中略)(前科は)それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できる
という部分である。
最高裁判所は、前科が持つ危険性を認識した上で、その前科の存在から、前の事件と今回の事件と犯人が同じ人物だと言えるくらい、手口等が類似しているものでなければならないとした。
そして、窃盗の腹いせに放火するとか、灯油で放火するというのはこれに当たらないとした。
こういう理由から高等裁判所の判決を破棄した。
ところで、今日のこの判決は裁判員裁判の影響が色濃い。
この事件の第一審は裁判員裁判で行われた。裁判員裁判だったからこそ、第一審の河合裁判長は前科を却下したのかもしれない。
これについて、ある人はこう言う。
「裁判員は前科に影響を受けやすいから、裁判員に不当な影響を与えないようした」と。
しかしこれは間違っている。
裁判員だろうが、裁判官だろうが、人間はみな前科に引っ張られるのである。
裁判官はこれを否定しようとする。自分たちは前科に引っ張られないけれど、裁判員は・・・と。
しかし、裁判官も人間である以上、このようなフィクションは成り立たない。
栃木力裁判官(東京地裁所長代行)はこう言っている。
「同種前科があることによって、それが犯罪事実の認定に影響してくるのではないかということですが、私の経験からすると、裁判員は以外ときちんと区別して考えていらっしゃるので、きちんと説明さえすれば、一般情状で前科があるということが事実認定に影響することはないと思います。」(論究ジュリスト第2号(有斐閣)28頁)
今日、最高裁判所はこの考え方は間違いであることをはっきりと示した。
人間はそんなにデキたものではない。
だからこそ証拠法がある。
裁判員裁判を迎えて、刑事裁判での証拠法の重要性が増している。
今回の「関連性」など、裁判官裁判では軽視されがちだった。
裁判員裁判をきっかけに脚光を浴びつつある。
この問題は決して裁判員裁判に限った話ではないが、裁判員裁判が契機になって議論が進むのであればそれはいいことだ。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20120907162323.pdf
被告人に前科がある場合に、その前科の存在を被告人が有罪か無罪かの判断に使えるか、使えるとしてもどのような場合に使えるかということが問題になった事件である。
この事件の被告人は10年以上前に11件の放火事件を起こして刑務所に入っていた。
そして、それらの放火事件のほぼすべてが、窃盗事件とセットになっていた。また、放火の方法としては室内に灯油をまいて火をつけるという方法だった。
その後、刑務所から出所した後、この人は窃盗事件を何件か起こした。
そして今回、ある家が放火で燃やされた。灯油をまいて火をつけられていた。そして家の中から誰かがカップラーメンを食べた痕跡があった。そしてそのカップラーメンからこの被告人のDNAが検出され、窃盗事件で逮捕された。
しかし彼は放火については事実を否認した。
そして、彼は放火と窃盗の罪で起訴された。
こういう事件である。
彼が放火をしたという証拠は何もない。検察官は、彼は以前に11件も放火事件を起こしており、そのほぼ全てが窃盗事件とセットになっており、しかも灯油をまいて火をつけていたという前科を、今回の放火事件の犯人が彼であることの証拠として請求した。
この事件の第1審は裁判員裁判で行われた。
河合健司裁判長はこの11件の放火の前科を、今回の事件の放火事件の犯人が彼であることの証拠として用いることはできないとして証拠請求を却下した。
そして、放火事件については無罪とした。
検察官は控訴し、東京高裁飯田喜信裁判長は、前科の放火の手口と今回の事件の放火の手口について「特徴的な類似性」があるからという理由で、前科を証拠として採用すべきだったとして無罪判決を破棄した。
それに対して被告人が最高裁判所に上告したのが今回の件だった。
ところで、なぜ前科の存在を、その事件の犯人が被告人であることの証拠として用いることが問題とされるか。
それは、前科の存在からその被告人は「悪い奴だ、犯罪をするような奴だ」という印象を持ち、だからこそ今回の事件の犯人もその被告人に違いないという思考経路を人間は取ってしまうからである。
これはどんな人間でも避けられない思考経路だと言われている。
どんなに経験豊富な裁判官であっても、初めて裁判に関わる裁判員であっても、誰にでも共通する。
人間はそういう生き物なのである。
逆に言うと、だからこそ検察官は前科を証拠として使いたがる。
そして今日、最高裁判所はこのように判断した。
「前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり,・・・、前科証拠によって証明しようとする事実について,実証的根拠の乏しい人格評価によって誤った事実認定に至るおそれがないと認められるときに初めて証拠とすることが許されると解するべきである。本件のように,前科証拠を被告人と犯人の同一性証拠に用いる場合についていうならば,前科に係る犯罪事実が顕著な特徴を有し,かつ,それが起訴に係る犯罪事実と相当程度類似することから,それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できるものというべきである。」
この判決で重要な部分は、
前科,特に同種前科については,被告人の犯罪性向といった実証的根拠の乏しい人格評価につながりやすく,そのために事実認定を誤らせるおそれがあり、(中略)(前科は)それ自体で両者の犯人が同一であることを合理的に推認させるようなものであって,初めて証拠として採用できる
という部分である。
最高裁判所は、前科が持つ危険性を認識した上で、その前科の存在から、前の事件と今回の事件と犯人が同じ人物だと言えるくらい、手口等が類似しているものでなければならないとした。
そして、窃盗の腹いせに放火するとか、灯油で放火するというのはこれに当たらないとした。
こういう理由から高等裁判所の判決を破棄した。
ところで、今日のこの判決は裁判員裁判の影響が色濃い。
この事件の第一審は裁判員裁判で行われた。裁判員裁判だったからこそ、第一審の河合裁判長は前科を却下したのかもしれない。
これについて、ある人はこう言う。
「裁判員は前科に影響を受けやすいから、裁判員に不当な影響を与えないようした」と。
しかしこれは間違っている。
裁判員だろうが、裁判官だろうが、人間はみな前科に引っ張られるのである。
裁判官はこれを否定しようとする。自分たちは前科に引っ張られないけれど、裁判員は・・・と。
しかし、裁判官も人間である以上、このようなフィクションは成り立たない。
栃木力裁判官(東京地裁所長代行)はこう言っている。
「同種前科があることによって、それが犯罪事実の認定に影響してくるのではないかということですが、私の経験からすると、裁判員は以外ときちんと区別して考えていらっしゃるので、きちんと説明さえすれば、一般情状で前科があるということが事実認定に影響することはないと思います。」(論究ジュリスト第2号(有斐閣)28頁)
今日、最高裁判所はこの考え方は間違いであることをはっきりと示した。
人間はそんなにデキたものではない。
だからこそ証拠法がある。
裁判員裁判を迎えて、刑事裁判での証拠法の重要性が増している。
今回の「関連性」など、裁判官裁判では軽視されがちだった。
裁判員裁判をきっかけに脚光を浴びつつある。
この問題は決して裁判員裁判に限った話ではないが、裁判員裁判が契機になって議論が進むのであればそれはいいことだ。
裁判員に選ばれた市民は、有罪なのか無罪なのかを検察官と弁護人が全面的に争うものを刑事裁判だと思って、期待して裁判所に来るのではないだろうか。
ところが、裁判員に選ばれた多くの市民が担当する裁判は、有罪であることには争いがなく、被告人の懲役の年数を決める裁判であるのが現状だ。
この「有罪なのか無罪なのかを争う裁判」と、「有罪であることに争いがない裁判」とでは裁判員に求められる判断の対象が全く異なる。
有罪なのか無罪なのかを争う裁判であれば、裁判員の判断の対象は、被告人が有罪であることについて「法廷に出てきた証拠のみに基づいて常識に従って「間違いない」と言えるかどうか」である。
「間違いない」と言えるときは有罪となり、疑問が残るときには無罪とされる。
そしてここでいう「常識」こそが裁判員に期待されている健全な社会常識というものである。
つまり一市民である裁判員の健全な社会常識に照らして、「間違いない」と言えるのかどうか、疑問は残らないかが裁判の最大のポイントとなる。
そして、この判断が法律の専門家ではない、一市民の社会常識に従って判断されるところに裁判員裁判の最大の魅力がある。
一方、有罪であることに争うがない裁判では、結局のところ、被告人に何年の懲役刑をかすのがふさわしいのかを裁判員が判断することとなる。もちろんここにも裁判員の健全な社会常識というものが反映されるのだが、実は有罪か無罪かを判断する場面での社会常識と、量刑判断での社会常識は全く異質なものなのではないかと私は思う。
有罪なのか無罪なのかが争われる裁判では、検察官が作成した起訴状に書かれている事実が、法廷に出てきた証拠のみに基づいて、常識に照らして間違いないと言えるかどうかが判断の対象である。
ここには、法律の専門的な知識も要求されないし、裁判員は完全に自分自身の尺度で物事を判断することができるはずだし、そうでなければならない。
これまでの裁判だったらどうか?などということを考える必要はないし、裁判官だったらどう考えるのか、裁判官の判断のほうが、市民の判断よりも優れているなんてことも考える必要は全くない。
これまでの裁判などとは全く関係なく、純粋にその裁判で出てきた証拠のみに基づいて考えることとなる。
ところが、量刑の判断はそうはいかない。強姦致傷事件において、その被告人を何年刑務所に入れるべきかということを、全くフリーハンドで、純粋に、裁判員の健全な社会常識に基づいて判断することなど不可能である。そのようなことはわかるはずがない。人によって当然バラバラになるだろう。
全くバラバラになっていいというのも一つの考え方ではあるが、ある罪で人を何年刑務所に入れるかということは、そのようなことを人は社会の中で考えながら生きるわけではなく、そこに裁判員の社会常識を反映することはかなり無理がある。
では実際の法廷では何が行われているか?
それは、過去の類似事件では、だいたい懲役何年ですというデータを裁判員に提供して、その枠内で裁判員に当該事件の量刑を判断させている。
つまり、結局の所、これまでの裁判の結果に裁判員を縛っている。
裁判員は入れられた檻の中で、なんとなくこれくらいと判断しているのである。
あえて言おう。私は量刑判断など裁判員にさせる必要はないと思う。
これまでの裁判の結果の枠内で、被告人の刑の重さを判断させるためだけに、市民を裁判所に呼んで何日もかけて裁判をする必要などないと思う。
裁判員裁判を導入する最大のポイントは、事実認定に裁判員の健全な社会常識を反映させることではなかったか。
そうであれば、「有罪か無罪か」が争われる事件でこそ裁判員裁判を行うのが筋ではないか。
今は、死刑や無期懲役が科される可能性がある重い事件のみ裁判員裁判が行われているが、痴漢事件や万引き事件などもっと軽い事件で、被告人が無罪を主張するような全ての事件で裁判員裁判をやるのがいいと思う。
そのほうが参加する裁判員にとっても、より充実した裁判員期間を過ごせるのではないだろうか。
ところが、裁判員に選ばれた多くの市民が担当する裁判は、有罪であることには争いがなく、被告人の懲役の年数を決める裁判であるのが現状だ。
この「有罪なのか無罪なのかを争う裁判」と、「有罪であることに争いがない裁判」とでは裁判員に求められる判断の対象が全く異なる。
有罪なのか無罪なのかを争う裁判であれば、裁判員の判断の対象は、被告人が有罪であることについて「法廷に出てきた証拠のみに基づいて常識に従って「間違いない」と言えるかどうか」である。
「間違いない」と言えるときは有罪となり、疑問が残るときには無罪とされる。
そしてここでいう「常識」こそが裁判員に期待されている健全な社会常識というものである。
つまり一市民である裁判員の健全な社会常識に照らして、「間違いない」と言えるのかどうか、疑問は残らないかが裁判の最大のポイントとなる。
そして、この判断が法律の専門家ではない、一市民の社会常識に従って判断されるところに裁判員裁判の最大の魅力がある。
一方、有罪であることに争うがない裁判では、結局のところ、被告人に何年の懲役刑をかすのがふさわしいのかを裁判員が判断することとなる。もちろんここにも裁判員の健全な社会常識というものが反映されるのだが、実は有罪か無罪かを判断する場面での社会常識と、量刑判断での社会常識は全く異質なものなのではないかと私は思う。
有罪なのか無罪なのかが争われる裁判では、検察官が作成した起訴状に書かれている事実が、法廷に出てきた証拠のみに基づいて、常識に照らして間違いないと言えるかどうかが判断の対象である。
ここには、法律の専門的な知識も要求されないし、裁判員は完全に自分自身の尺度で物事を判断することができるはずだし、そうでなければならない。
これまでの裁判だったらどうか?などということを考える必要はないし、裁判官だったらどう考えるのか、裁判官の判断のほうが、市民の判断よりも優れているなんてことも考える必要は全くない。
これまでの裁判などとは全く関係なく、純粋にその裁判で出てきた証拠のみに基づいて考えることとなる。
ところが、量刑の判断はそうはいかない。強姦致傷事件において、その被告人を何年刑務所に入れるべきかということを、全くフリーハンドで、純粋に、裁判員の健全な社会常識に基づいて判断することなど不可能である。そのようなことはわかるはずがない。人によって当然バラバラになるだろう。
全くバラバラになっていいというのも一つの考え方ではあるが、ある罪で人を何年刑務所に入れるかということは、そのようなことを人は社会の中で考えながら生きるわけではなく、そこに裁判員の社会常識を反映することはかなり無理がある。
では実際の法廷では何が行われているか?
それは、過去の類似事件では、だいたい懲役何年ですというデータを裁判員に提供して、その枠内で裁判員に当該事件の量刑を判断させている。
つまり、結局の所、これまでの裁判の結果に裁判員を縛っている。
裁判員は入れられた檻の中で、なんとなくこれくらいと判断しているのである。
あえて言おう。私は量刑判断など裁判員にさせる必要はないと思う。
これまでの裁判の結果の枠内で、被告人の刑の重さを判断させるためだけに、市民を裁判所に呼んで何日もかけて裁判をする必要などないと思う。
裁判員裁判を導入する最大のポイントは、事実認定に裁判員の健全な社会常識を反映させることではなかったか。
そうであれば、「有罪か無罪か」が争われる事件でこそ裁判員裁判を行うのが筋ではないか。
今は、死刑や無期懲役が科される可能性がある重い事件のみ裁判員裁判が行われているが、痴漢事件や万引き事件などもっと軽い事件で、被告人が無罪を主張するような全ての事件で裁判員裁判をやるのがいいと思う。
そのほうが参加する裁判員にとっても、より充実した裁判員期間を過ごせるのではないだろうか。
裁判員裁判が始まってから、裁判所や検察官が口を揃えて、何度も何度も発するキーワード。
それが「わかりやすい裁判」。
裁判員裁判時代よりも前の裁判は、法律家にしかわからない言語を用い、法律家にしか通用しないルールのもとで行われてきた刑事裁判が、一般市民である裁判員が裁判に加わることで、変化せざるを得なくなった。
裁判員にもわかる裁判、裁判員にも理解できる裁判を法律家が目指さなければならなくなった。
これは裁判員裁判をやる以上あたりまえの話だ。
話はここからである。
裁判員にわかりやすい裁判を目指すというのは、刑事裁判の当事者である検察官や弁護人(被告人)にとっては、自分たちの主張を受け入れてもらうためにやることである。
わかりやすい裁判は、自分たちのために目指すものであって、逆に言えば裁判員にわかりづらい裁判をやってしまった責任は自分たちが負うべきものだ。
ところが現実はそうではない。
裁判所は、裁判員"様"にわかりやすい裁判に参加してもらって、満足して帰ってもらおうと、検察官や弁護人にわかりやすい裁判を過度に求める。
当事者に対してそのように促すならまだいいだろう。それに止まらない。
裁判所は、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人に求めてくる。
協力を求めるならまだましかもしれない。
ひどいときには、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人を脅迫することさえある。
なんとなく、「わかりやすい裁判のために」と言われると、みんなで目指さなければならないような気になる。
しかしそれは大きな罠である。
弁護人は「わかりやすい裁判のために」検察官の立証に無駄な協力し、裁判官の脅迫に屈し、その結果、いつのまにか弁護人は検察官の有罪立証に協力していることとなる。
検察官のわかりやすい立証とは何か、それは他ならぬ、被告人を有罪にするためのわかりやすい立証である。
検察官がわかりやすい立証をできなければ、検察官の立証がわかりづらければ、それは弁護人にとっては願ってもない敵失である。その程度の立証しかできない責任は検察官が負うべきである。その結果、被告人が無罪になり、被告人の刑が軽くなれば、その責任は当然検察官が負うものである。
ところが、「わかりやすい裁判」という罠にはまり、いつしか検察官のわかりやすい有罪立証に弁護人が加担していることが決して少なくないのではないかと思う。
いつのまにか、法律家全員で協力して、被告人を有罪に導いていることがあるように思う。
裁判所がここまでして「わかりやすい裁判」を目指す背景の1つには、裁判所が裁判員をお客様扱いしていることがあるだろう。
裁判員"様"に満足して帰ってもらうために、被告人の立場など無視し、わかりやすい裁判を目指す。このような発想が裁判所にあるような気がしてならない。
裁判員は決して裁判官のお手伝いでもないし、お飾りでもない。
まぎれもない独立した1人の判断者である。
裁判所は裁判員をもっと尊重し、その判断を裁判員に丸ごと委ねるべきだ。
そうすれば、裁判所が執拗に「わかりやすい裁判」を目指すこともなくなるのではないだろうか。
それが「わかりやすい裁判」。
裁判員裁判時代よりも前の裁判は、法律家にしかわからない言語を用い、法律家にしか通用しないルールのもとで行われてきた刑事裁判が、一般市民である裁判員が裁判に加わることで、変化せざるを得なくなった。
裁判員にもわかる裁判、裁判員にも理解できる裁判を法律家が目指さなければならなくなった。
これは裁判員裁判をやる以上あたりまえの話だ。
話はここからである。
裁判員にわかりやすい裁判を目指すというのは、刑事裁判の当事者である検察官や弁護人(被告人)にとっては、自分たちの主張を受け入れてもらうためにやることである。
わかりやすい裁判は、自分たちのために目指すものであって、逆に言えば裁判員にわかりづらい裁判をやってしまった責任は自分たちが負うべきものだ。
ところが現実はそうではない。
裁判所は、裁判員"様"にわかりやすい裁判に参加してもらって、満足して帰ってもらおうと、検察官や弁護人にわかりやすい裁判を過度に求める。
当事者に対してそのように促すならまだいいだろう。それに止まらない。
裁判所は、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人に求めてくる。
協力を求めるならまだましかもしれない。
ひどいときには、わかりやすい裁判のために、検察官の立証に協力するよう弁護人を脅迫することさえある。
なんとなく、「わかりやすい裁判のために」と言われると、みんなで目指さなければならないような気になる。
しかしそれは大きな罠である。
弁護人は「わかりやすい裁判のために」検察官の立証に無駄な協力し、裁判官の脅迫に屈し、その結果、いつのまにか弁護人は検察官の有罪立証に協力していることとなる。
検察官のわかりやすい立証とは何か、それは他ならぬ、被告人を有罪にするためのわかりやすい立証である。
検察官がわかりやすい立証をできなければ、検察官の立証がわかりづらければ、それは弁護人にとっては願ってもない敵失である。その程度の立証しかできない責任は検察官が負うべきである。その結果、被告人が無罪になり、被告人の刑が軽くなれば、その責任は当然検察官が負うものである。
ところが、「わかりやすい裁判」という罠にはまり、いつしか検察官のわかりやすい有罪立証に弁護人が加担していることが決して少なくないのではないかと思う。
いつのまにか、法律家全員で協力して、被告人を有罪に導いていることがあるように思う。
裁判所がここまでして「わかりやすい裁判」を目指す背景の1つには、裁判所が裁判員をお客様扱いしていることがあるだろう。
裁判員"様"に満足して帰ってもらうために、被告人の立場など無視し、わかりやすい裁判を目指す。このような発想が裁判所にあるような気がしてならない。
裁判員は決して裁判官のお手伝いでもないし、お飾りでもない。
まぎれもない独立した1人の判断者である。
裁判所は裁判員をもっと尊重し、その判断を裁判員に丸ごと委ねるべきだ。
そうすれば、裁判所が執拗に「わかりやすい裁判」を目指すこともなくなるのではないだろうか。