天正10年(1582年)6月2日早朝、明智光秀は
軍団で本能寺にを囲みせ謀反を起こし
本能寺にいた織田信長が寺に火を放ち
自害したこれを本能寺の変という
そう
君主を殺した立派な謀反人明智光秀です
常にヒール役で悪玉の代表格でした
しかし
その明智光秀を祀っている神社があると
いうので潜入調査しました
御霊公園入口
神社の前は広大な御霊神社公園となっていて
子供たちが遊んでいました
福知山パーキング
最初30分100円でその後1時間100円です
さて駐車場の横の御霊神社は石の鳥居の
立派な神社です
御霊神社
この神社が創建されたのがなんと江戸時代!
上下の身分がしっかりしていた時代です
明智光秀なんて日本一の裏切り者だった
時代です
ところが
奈良屋喜左衛門という町人が私邸の鎮守とし
て明智光秀公の御神霊をお祀りしていました
不幸な出来事は明智光秀の祟りだと
恐れていたからでしょう
鳥居扁額
↑
扁額の上に屋根もついています
宝永2年(1705年)に喜左衛門は檀家寺
の常照寺の日遙が光秀公に
長存院殿明窓玄智日光大居士
という大名並みの法号をつけ寺内に
祠堂を設けて供養したのが始まりです
手水舎
福知山でこんなに光秀が人気なのは何故?
光秀が丹波を占領して福知山城をつくり
元々宗部荘(そがべのしょう)と言われて
いた土地を「福智山」という地名にして
由良川に堤防をつくり城下町をつくり
ました光秀は土木工事の天才です
由良川治水図
*明智藪の看板より
もちろん
洪水で大変な時地子銭(じしせん:固定資産税)
を免除するという領民優遇を行い領民の気持
ちをガッチリ掴んだのです
日本政府も見習ってほしいですね!
石段
福知山藩は
江戸時代、有馬氏6万石、岡部氏5万石
稲葉氏4万5900石、松平氏4万5900石
次々と変わりますが
最後に朽木氏3万2000石が藩主になり
安定します
拝殿本殿
御祭神
宇賀御霊大神(うがのみたまおおかみ)
明智光秀公
第5代藩主朽木玄綱(くつきとうつな)の時代
享保17年(1732年)冷夏と害虫により
享保の大飢饉が起こります
忠魂碑
飢饉が続いて米価が上がった時に
福知山藩は少し増税した挙句財政再建の
ため備蓄米を大阪で売って商人への借金
返済にあてたわけです
餓死者が出ているときにです!
農民が大激怒!
享保19年(1734年)年貢をまけてもらおう
と享保強訴(無理矢理の談判)が起こります
この時は
第5代藩主朽木玄綱はいろいろの要求された
時明智光秀公を稲荷社に合祀することに同意
することになったわけです
ここに
日本一の逆臣明智光秀をお祀りする神社
が藩の公認の神社になったわけです
御霊会ができ御霊神社の始まりです
住民が激怒してできたようなものです
福知山踊りも光秀が福知山城を大改修
した時のドッコイセ、ドッコイセーと唄い
踊ったのがが起源だと言われています
福知山商工会議所の福知山踊り銅像
御霊公園まえの広小路通りにはおおくの
福知山踊りの銅像が立ち並んでいます
福井汀亭の川柳
免税を 決めて光秀 名を残し
福知山市川柳同好会の創立者
福井汀亭さんの作品のようですね!
財政再建より住民の生活が大切です!
増税するなんてもってのほか!
光秀のように減税するのが正解ですよね
堤防神社
この神社昭和59年(1984年)に作られた
神社です!意外と新しい
福知山の由良川はおおくの恵みもあり
ますが洪水も多い川です
治水事業に感謝して堤防神社を作った
らしい
そういえば
昭和28年台風13号による水害表示板
*福知山市の災害履歴についてHPより
↑
この様なありさまだったようです
そしてこの神社のパワースポット叶石
(かなえいし)です
叶石(かなえいし)
礫岩で君が代で歌われるさざれ石です
子持ち石とも呼ばれる縁起の良い石です
思兼神(おもいかね)と手力男命(たじからお
のみこと)をお鎮めした悲願成就神らしい
受験、縁談、災難除災に効くらしい
社務所
御朱印はどこかと探しているとちょうど
御朱印をいただく人がいたので社務所で
貼る御朱印をいただきました
貼る御朱印
ちゃんと
惟任日向守光秀公(これとうひゅうがのかみ
みつひでこう)と書かれていて桔梗紋のハンコ
も押してあります
光秀も福知山では良い政策をたくさんした
ので
440年以上経ってもヒールになっても
福知山市の災害履歴について
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