穴山梅雪(穴山信君:あなやまのぶただ)は
武田信玄、武田勝頼に仕えた武将で
武田二十四将にも入っている家臣団の
エリートです
その穴山梅雪が無くなった現場が京都の
京田辺市にあるというので潜入調査
しました
京田辺市飯岡付近の木津川
京田辺市の飯岡というところで
木津川の堤防の上に飯岡の渡し場跡
の石碑が立っています
昔は木津川の流れももっと広く大きい川
だったようです
飯岡の渡し場跡碑
穴山梅雪は富士山の西側の早川や富士川
流域甲斐国河内地方を領主とする武将です
武田信玄に仕えて川中島の戦いや駿河国
や遠江国に侵攻に貢献し
駿河の今川氏や三河の徳川氏との外交
交渉にも活躍していたようです
梅雪の正室は武田信玄の次女(見性院)
なので重臣で武田一族でもあるので
武田姓を用いる事を許されていました
穴山梅雪画像
*平山優著 穴山武田氏 中世武士選書5より
しかし
天正3年(1575年)織田・徳川連合軍が攻め
てきて長篠の戦いで武田家大敗北になり
武田家は重臣の多くを失います
その後、天正10年(1582年)に織田信忠の
甲斐侵攻で穴山梅雪は徳川家康の誘いに
のり
本領安堵と武田家の名跡継承を条件に
織田家に寝返ります
武田家の最高の重臣が寝返った事で次々造反
して勝頼は追いこまれ、自害し武田家が滅亡
しました
ふ船休み公園
渡し場跡の近くにふ船休み公園があり
4台の駐車場もあります
天正10年(1582年)5月には穴山梅雪は
徳川家康とともに上洛して安土城で
織田信長に謁見しました
金2000枚を織田信長に贈ったそうです
買収したのでしょうね
梅雪の領地の早川、富士川流域は甲州金が
出る山々で木材による利益も多い土地だった
ようです
徳川家康とともに当時の国際貿易港堺を
遊覧するのです
ふ船休み公園 舟の休憩所
ところが!
堺からの帰りの6月2日未明本能寺の変が起こ
り明智光秀により織田信長を自害します
家康一行は四条畷の飯盛山付近で本能寺の変
の情報を聞き織田家の接待役長谷川秀一は
土地勘の無い徳川家康一行の脱出ルート考え
大和国衆に護衛を出してもらい、宇治田原
城主や近江の信楽代官に領地通行の手配を
行い一緒に三河まで行きました
長谷川秀一責任感が強く織田家の奉行だけに
畿内の土地勘が有り、有力者に顔が広いのが
幸いです
もっとも自分も逃げなくてはいけないです
家康はここの渡し場から木津川を渡り
対岸の宇治田原にある宇治田原城に6月2日
の夜に宿泊しています
飯岡の渡し場跡碑
穴山梅雪は家康を疑い家康に遅れてこの
近くの草内で人質をとって案内人を頼み
この渡し場まで来たと言われてましたが・・・
渡場で落ち武者狩りの土民たちに荷物も命も
取られて絶命します
飯岡玉露の看板
この辺りは玉露の品評会の入賞常連の茶畑
だそうです
茶畑の日よけをみただけでも高級なお茶を
作っているのがよくわかります
ネットで見てみると100g6千円以上するような
とっても高級ブランド玉露でした
茶畑を見ながら西側に丘を登っていくと
茶畑の中に石碑があります
飯岡車塚古墳石碑
この古墳の向いに墓地があります
こんなたくさんの墓の中で穴山梅雪の墓を
見つけるのは大変だなぁと思っていると
墓地
穴山梅雪翁墓の石碑と五輪塔がありすぐに
わかりました
複数あるのは穴山梅雪の家来のお墓で
しょうね
穴山梅雪翁墓
横に京田辺市教育委員会の看板も立って
います
穴山梅雪の墓の案内板
この案内板をみると追手を巻くために戦略で
二組に分かれたという画期的な解説です
穴山梅雪一行は6月2日に木津川を渡らず
渡し場の近所の普賢寺郷で宿泊したという
地元の口伝があるようです
家康がその後の穴山武田家復興や穴山衆や
梅雪の妻の見性院への対応を見ると家康が
恩義に感じていた様子が良く分かります
木津川
梅雪は主家を裏切ったので 地元山梨では
評判が悪くサイテーの武将です
自分の家を残してあわよくばもっと出世
したいのがこの時代です
次の豊臣秀吉も織田家をないがしろにしても
文句を言われていないし
その次の徳川家康も秀頼を守る約束をして
秀頼を自害させ豊臣家を滅亡させたのです
が家康の評判が悪いわけではない
穴山武田家はというと
梅雪の死後、梅雪の子供勝千代(武田信治)
当主となり穴山衆は家康に臣従したそうです
しかし
勝千代は天正15年(1587年)に元服して
武田信治となりましたが天然痘に罹り
16歳で亡くなってしまったのです
せっかく武田家を復興したのにね!
感染症は怖いですね~!
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感染症対策をしっかりやっている処は
家康伊賀越え 星田ひそみの藪
たかぼん
徳川家康の伊賀越え穴山梅雪最後の地 マップ
穴山梅雪の墓 マップ