奈良町を歩いていると何やら面白そうな
お寺を見つけましたそれが徳融寺です
徳融寺山門
中に入ると独特な文字で豊成公中将姫舊跡
並びにお墓を書いた独特の石碑がありました
豊成公中将姫舊跡並御墓碑
中将姫は鶊山姫捨(ひばりやまひめすてまつ)
という文楽、歌舞伎で有名な演目の主人公で
父親が奈良時代の貴族藤原豊成公でここに
邸宅があったらしい
しかし
この丸っちい深堀の字は奈良を中心に近畿に
たくさんの石碑、石造を残した快人吉村長慶
さんが作ったに違いない
寺門
髭を生やしたこの人こそ快人吉村長慶さん
その人の石像がありました
右手に帝国憲法、左手に如来道の
巻き軸を持っています
江戸時代を知っているので帝国憲法を
知って感動したんでしょうね
吉村長慶石造(喜寿像)
吉村長慶さんは幕末から戦中の人で実家が
質屋で金融業をやりながら
北浜の株式相場で莫大な富を築いた
そうです
そしていろんなところに石碑、石造を造って
奈良に長慶寺というお寺まで作っています
石造のお腹の所にセメントの所があります
石造のセメント部分
います
そしてこの白壁の衝立が奇妙です
たぶん蕃塀(ばんべい)でしょう
蕃塀(ばんべい)
蕃塀(ばんべい)とは聖なるものを直接見ない
ように造る塀のことです
ありますが
その後ろにまたまた吉村長慶さん
の石碑があります
侵入イギリス、フランスに宣戦布告し
第二次世界大戦が勃発しました
そんなきな臭い時に作られた石碑です
神仏は一体何をしているのだ!と言ってる
ような石碑です
世界ニ聖像
で寝ている釈迦と基督(きりすと)を起こ
しています
なんともほのぼのしたレリーフですが本当は
大戦争の緊急事態なのです
長慶さんのセリフが書かれています
普門来た来た 起きよ
今日 日本の昭和
長慶 戯刻
普門とは長慶さんの道号です
上には汽船に米俵に大黒天の船乗り
金運を現しているんでしょう
嘶軍馬即亡國(軍馬いななき国滅ぶ)
聞弦歌即亡家(弦歌を聞いて家滅ぶ)
筝音鐘響即亡身(筝音鐘響身ほろぶ)
普門(長慶の道号)
実に戦争反対をやんわり表現しています
嘶軍馬即亡國の部分を官憲がみつけ
戒告を受けたので当時は扉をつけて
秘仏になっていたらしい
鐘楼
立派な鐘楼です
豊成山徳融寺(とよなりざんとくゆうじ)は
かつて高林院という元興寺の塔頭で
真言宗に属していました
天正18年(1590年)現在地に移転し
融通念仏宗になったらしい
本堂
宗旨
融通念仏宗(大念仏)
御本尊
阿弥陀如来立像
北条政子の念持仏だったらしい
連歌師心前の歌碑
↑
右の宝篋印塔が右大臣藤原豊成公の墓で
永禄2年(1559年)松永弾正久秀が多聞山城
を造るときに石材集めのために
豊成公と中将姫の石塔を持ち去ろうとした
連歌師心前(しんぜん)が連歌の初句を
松永弾正に贈ったのです
曳のこす 花や秋咲く 石の竹
これを読んで文化人の松永弾正は改心して
石塔を奪うのをやめたのそうです
その問題の石塔がこれです
豊成公中将姫御墓
中央に四面石仏がありその向こうに中将姫
の宝篋印塔があります
中将姫の宝篋印塔
豊成公と紫の前との間に生まれたのが中将姫
で5歳で母の紫の前が亡くなります
継母の照夜の前が中将姫の才能に
嫉妬して継子いじめをする物語です
雪責の松(せきぜめのまつ)の看板
雪の降る朝、照夜の前が老松の下で割竹打ち
の折檻をする中将姫雪責の段でよく文楽
歌舞伎で演じられます
↑
昭和49年(1974年)までは築地塀下に
雪責の松の切り株が残っていたらしい
令和の代には切り株も無し
豊成公と中将姫のお墓に並んであるのが
きた〜!吉村長慶さんの墓だー!
吉村長慶墓
明治29年(1896年)数え34歳の時に分家
してこの墓を建てたらしい
つまり生前墓です
分家西ノ吉村家を作ったのはは自分の行動
から本家に迷惑をかけないようにするため
かも知れない
奈良市制発足と共に市会議員にもなっている
落選と思っていたらトップ当選だったらしい
吉村長慶墓正面
右上に
男系出民部太夫成能
女系出奈良市商人東吉村家
父親の長七は奈良眉間寺の寺裁(寺侍)で明治に
眉間寺が廃寺になり商家の吉村家の志奈子に
婿養子に入って登(長慶)が生まれたらしい
左下に
自分の手足の爪や髪の毛を入れた事が書いて
ありますね!
この寺は檀家寺ですが奈良を中心に高野山や
京都、大阪にも沢山墓を建てています
石碑造りの道楽は
「長慶死すとも碑文は死せず」の信条ので
200以上あるそうです
人は後世に何かを残したいようですね!
きっちり歯を残したい人はこちら
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たかぼん
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