二人とも寝たきりのために
孫であるあなたの結婚式に
出席できないので、
おじいちゃん、おばあちゃん、が
これまでどんな人生を送ってきゃはったのか、
少しでも、伝わるなら、と思い、
姪からの結婚の報告を受けて
式の前に送った手紙を、
忘れんように、
ここに残しておきたいと思います。
少し長くなりますが。。。
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この度は、ご結婚おめでとうございます。
ご結婚との嬉しいお知らせは、
京都のおじいちゃん、おばあちゃんも、とても
喜んでいます。私にとっても、もちろん!
月日の経つのは、本当に早いですね。
幼い頃から、ご両親から送ってもらった、当
時VHSだったビデオで、赤ちゃんの頃からの成長をずっと、
おじいちゃん、おばあちゃんと、テレビで見て、
喜んでいました。
ハイハイから、歩き出したばかりの頃、
三輪車に乗れるようになったばかりのときの様子、
白線流しでも有名になった幼稚園の舞台劇で、
キリストの誕生を祝う、
東方の三博士のセリフを言っている姿、
ピアノの発表会で、妹と一緒にピアノを弾いている姿、
ダンスの大会で、年上のメンバーと一緒に
上手に踊っている姿、
成人式の綺麗な着物姿の娘さんの写真etc…
幼い頃からの映像が、次々と、浮かんできます。
小さかった女の子が、大切なひとと出逢って、
新しい家族を作ることができるようになって、
幸せでいてくれて、本当に嬉しく思います。
今日は、お祝いを言わせてもらうとともに、
今まで、話す機会が、なかったので、
おとうさんの両親である、
おじいちゃんとおばあちゃんのことについて、
少し聴いてもらえたらと思って、書いています。
おじいちゃんは、今年90歳になります。
京都の今でいう南丹市八木町という田舎で、
専業農家の、4人兄弟の末っ子として生まれました。
お兄さんが二人、そしてお姉さんがひとり、でしたが、
残念ながら、みんな今は、鬼籍に入ってしまわはりました。
おじいちゃんは、高校を出ると、うちの農業を手伝いながら、
汽車で、京都まで通い、立命館大学の夜間で、
建築を学んでいましたが、卒業後は、電電公社(今のNTT?)
に勤め、その後、二条城の近くのお菓子問屋さんで、
営業の仕事をしているときに、保険のおばさんのお世話で、
おばあちゃんとお見合いをして、結婚することになりました。
昔よくあった、夫婦養子、というかたちの結婚で、
おじいちゃんとおばあちゃんが結婚して夫婦になると同時に、
その家の子供にもなって、家業を継ぐという結婚でした。
今とちがって、写真を見て、何度も会わないうちに、
結婚が決まり、家業であった、染め物工場を、
二人して継ぐことになったのですが、
おじいちゃんは、まったく染色の素人で、
いちから、おばあちゃんのお父さんに習って、
仕事を覚えましたが、とても厳しいひとで、
キツい指導が続いたそうです。
今、うちのガレージになっている場所に、
2階建ての工場があったのですが、染色工場というのは、
体力的に、とても厳しい仕事で、真夏でも一日中、
熱湯を満たした窯の前に立って、着物を染め続けたり、
真冬でも、冷たい水のなか、凍る手で着物を洗ったり
しなくてはならず、
時間的にも、早朝から夕食まで着物を染めた後、
また翌日染める生地の下準備を、
夕食後に夜遅くまでしていました。
数名の従業員の方に工場で働いていただきつつ、そんな日々を
何十年も送りながら、私と弟、つまり、あなたのお父さんを
育ててくれたのでした。
晩年は、時代とともに、染色の仕事が減り、
倒産する工場も出始めたために、
おじいちゃんは、早めに、工場をたたみ、年金生活に、入りました。
年金生活を送るようになってからのおじいちゃんは、
カメラを趣味とし、写真教室のお仲間のみなさんと、
日本中や世界中のいろんな地にも、撮影旅行に行ったり、
ハーフマラソンに参加したりして、
遅まきながらの<自分さがし>を始めました。
ハーフマラソンでは、ねんりんピックなどにも、
参加していたことがありました。それで、今も、
うちの押し入れには、山のように、写真と
マラソンでいただいたメダルやトロフィーがあります。
そんなふうに、80歳頃までは、元気で足も達者で、
車の運転もしていましたが、やがて、
注意力や集中力に欠けるようになると、車での物損、
人身事故を起こすようになり、とても心配しました。
返して、返さない、と何度も言い合いを重ね、
文字通り取っ組み合いの喧嘩をしながら(笑)、
なんとか、大事に至るまでに父に免許を返納してもらい、
その後は、バスで出かけていたのですが、
次第に、それも面倒がり、
うちに居るようになり、足が衰えるのとともに、少しずつ
認知症がすすんできたように思います。
今も、遠い昔のことは、覚えていたりするのですが、
少し前のことは、すっかり忘れてしまうので、
今のおじいちゃんは、言うならば、
<瞬間を、生きているひと>そんな感じです。
ただ、認知症になっても、快、不快の感情は、残るので、
毎日、できるだけ、笑って暮らしてもらえたらいいな、
と思いながら、お世話をしています。
なんでもすぐに忘れてしまうので、困ることも多々ありますが、
怒りの感情もまた、すぐに通り過ぎてしまうので、
私が酷く怒ったことも、すぐ忘れてくれることは、
とても、ありがたいです。(笑)
おじいちゃんは、生来、口数が少なく、
自分の胸の内を言葉にすることが苦手な、
内弁慶なひとでしたが、
社会的には、世間体をとても気にするひとで、
<勉強も運動も、頑張るのが当然、できてあたりまえ、
病気になるのは気が緩んでいるから(?)>
と平然と言うようなところがあったので、私とはよく衝突しました。
実際、思春期のあいだは、ほとんど口をきかなかったほどです(笑)
その親の期待を裏切らへんように、と良い子で、できる子でい続ける
ことは、正直、私には、とてもしんどいことでもありました。(笑)
ただ、今になってふりかえれば、
誰ひとり知らない土地へ婿養子として嫁ぎ、
まったく初めての仕事を、厳しい義父や義母から、
叱られながらこなす日々のなかでは、
<子育てには、成功している>というプライドが、
父にとっては、支えだったのかもしれないなぁと
近頃になって、やっと、思ったりできるようになりました。
頑なな心の鎧の内には、父なりの優しさも、
きっと、あったのでしょう。
子供の頃には、そこまで考えることは、
できひんかったけれど。
認知症のひとのお世話は、とても、手がかかりますし、
大変なことも多いです。
放り出してしまいたいと、
毎日のように、思うこともありますが、
もう限界やなぁ~と思う時、腹が立ったときには、
私ならたとえ5分間でも、前に立っていることすら、
熱くてできないようなお釜の前に立ち続けて、
蒸気で失明しかけたり、
腰を痛めて立てなくなったりしながらも、
染色の仕事を休むことなく続けることで、
育ててもらった、昔のあの染工場の
沸騰した釜の前に立つ汗だくの父の姿を、
思い出しています。
そして、おじいちゃんのことで思い出すのは、
弟が生まれるときに、お家へ父が手伝いに行った
時のことです。(母も私も行けないもので)
そのとき、髪を長くしていたから、お母さんのように、
髪の毛をくくってほしいと父に頼んだそうなのですが、
父は、まったくそういうことをしたことがなくて、
困って、とりあえず、結んでみたそうなのですが、
グチャグチャになった頭で、三輪車に乗って、
あなたが怒っている顔の写真が、
このまえ、アルバムの整理をしていたら、出てきました。
帰ってきて、お母さんのようにくくって、
と言われてできひんので、ほんまに困ったと、
当時話していました。(笑)
さて、今度は、おばあちゃんの話です。88歳に、なりました。
おばあちゃんは、滋賀県の琵琶湖の近くで、生まれました。
お兄さんが3人、お姉さんが、2人、弟が、ひとりの
7人兄弟でしたが、
まだ赤ちゃんの頃に、父親が亡くなって、
母親ひとりで、沢山の子供たちを育てられないということで、
長男ひとりを母のもとに残して、他の兄弟姉妹はみな、
それぞれに、子供のいない親戚のうちへ、ひとりずつ、別れて、
里子に出されたのでした。
以前、気になって、その後、おばあちゃんの
お母さんはどうならはったのかと
尋ねたことがありましたが、
その後会うこともなく、風のたよりに、仙台のほうで
住み込みのお手伝いさんを高齢になるまでなさって、
そこでひとり亡くなられた、ということを聞いた、
ということでした。
会ってみたかったです。
さて、京都の染め物工場を営んでいた夫婦の元に、
引き取られることになったのが、おばあちゃんでした。
奥さんが、病気で子供を産めない身体だったので、
将来、おばあちゃんがお婿さんをこのうちに迎えて、二人で、
染色工場を継いでいってもらおうと、
ご夫婦は、おばあちゃんを京都の家に、引き取ったのでした。
子育てをしたことがない、奥さん
(おばあちゃんのお母さんになった女性)が
オムツのあて方を間違ってしまったことから、
股関節が脱臼していたのですが、
長いこと放置していたために、固まってしまい、幼い頃から、
おばあちゃんは、3センチほど、足の長さが違っていて、
いつも、片足をひきずるようにして、歩いていました。
小学校の頃から、体育などはずっと見学で、男の子たちからは
<びっこ>と呼ばれていじめられて
、いつも、校庭にある大きな楠の木の下で、ひとりで泣いていた、
と、同じ小学校に通うようになった頃、聞きました。
また、工場の働き手としてもらわれてきたおばあちゃんですから、
小学校から高校まで、仕事が忙しければ、勉強なんか、
せんでもええ、うちの仕事を手伝いなさい、と言われて、
学校を休んだり、早退したりして、
家にもどっては、仕事を手伝わなくてはならなかったので、
授業をしょっちゅう抜けなくてはならずテストのときなどは、
とても苦労したと話していましたが、
それでも、商業高校、を、家の仕事を手伝い、
家事もこなしながら、良い成績で卒業しました。
さらに、大変だったのは、母をひきとってくれた父、
私からすればおじいちゃん、あなた達からは、
曾祖父にあたるひとが、
映画にでも出てきそうな遊び人で(笑)、
一代で染め物工場を起こし、軌道にのせて、
何人も従業員のひとに働いてもらうようになってからは、
毎日のように、祇園のお茶屋さんへ通い詰めて、
挙句、今でいうなら愛人の女性に、
子供もできて(女の子なのですが)、
5歳になった時に、その子をうちに引き取ることになりました。
子供ができない身体である曾祖母が、
外でできた子供をひきとり育てるというのも、
辛いことであったろうと思われますが、実際には、曾祖母は、
曾祖父が遊んで留守の間、工場を仕切って
仕事をしなければいけなかったので、できません。
染工場の仕事に忙しい曾祖母に代わって、
その5歳でやってきた女の子は、当時12歳であった母が、
その後、姉として、ずっと面倒をみることになります。
母は、学校へ行き、うちの仕事も手伝い、そして、
その子(おばさん)の母親代わりとして、服を作ったり、
編んだり、参観日にも行ったりしながら、過ごしていたので、
その後、おばさん(諏訪にやはる)が、成人した後は、
今度は、母の子供である、私達を、おばさんが、
仕事で忙しい母の代わりに、母親代わりとして、
よく面倒みてくれはったのでした。
そんなふうに忙しく過ごしながら、母は、
高校卒業後は、当然のごとく、家の仕事をするように、なりました。
片足を引きずりながら、濡れて重くなった着物の生地を抱えて、
工場内を運び、2階の干場への階段を上っていく重労働は、その後、
仕事を辞めるようになるまで、ずっと続きました。
その足で、仕事をしながら、結婚し、子育てを続けました。
私達も学校が休みのときは、脱水機から着物を出して、運んだり、
昼食を用意したりして、子供ながらに、お手伝いを
しました。
そして、いよいよ50代の後半になった頃、母は、ついに足の痛みが
耐えがたくなって、手術を受けることになりました。
なにせ、半端なく我慢強い性分で、小学校の頃に、
耳の中に溜まった膿を、耳の下を切開して、取り除く手術を、
麻酔なしで受けたことがあるほどのひとなので、
その母が耐えがたい痛みというので、相当のものだったと思いますが、
長いこと、痛みをだましだまししながら、仕事をしていたようでした。
その手術によって、ありがたいことに、痛みはましになったのですが、
今度は、足の長さが、左右で9㎝、違うようになってしまい、
松葉杖での生活が始まりました。
できる限り、うちのなかで、
転倒しないようにと工夫をして暮らしてはいたのですが、その後、
30年の間に、20回近く転倒し、その半分は救急車のお世話になり、
からだのあちこちに、骨折や脱臼を繰り返しました。
両肩の骨折、脱臼、打撲、そして、両股関節は脱臼と、亜脱臼、
膝は片方が、まったく曲がらず、手は片方が、少ししか上がらないため
座る、ということがまったくできないので、今も、腹筋と片方の腕の力で
ベッドからなんとか身体を起こして、乗り降りをしています。
家の中を、歩行器を使って少し歩き、どこかにもたれながら
1時間程度なら立っていられる、というのが、限界で車椅子にも、
乗ることはできませんし、普通の椅子にも座れません。
うちから出るときは、救急車に乗るとき、
ストレッチャーで運んでもらうときだけで、
あとは、寝るか、立つかして、うちのなかで過ごす、
そんな暮らしをして、もう30年になります。
そんな身体の状態なので、今も体調は良くありませんが、
お医者さんによれば、この身体の状況から、そもそも
検査自体ができない、というお話なので、今後は、
家でできるだけ長く、穏やかに暮らせるように願うしかないと、
言われています。
それでも、ほぼ一日中、おばあちゃんは、笑って過ごしています。
テレビで世界中の旅番組やドキュメンタリーやサスペンスを見たり、
ニュースを見たりして、うちに居ながら、
私よりよほど沢山のことを知っているので、驚くばかりです。
このからだの状態で、愚痴を一切こぼさずに、笑って、
つねに前向きでいるとは、ほんとうに、こころの強いひと、
なのだと思います。
戦時中は、まだ12歳ぐらいの頃に、着物とお米を交換してもらいに、
京都から滋賀県の遠くの田舎まで、リュックをかついで、
ひとり汽車に乗り、汽車が止まってしまったので、真っ暗な中、
一晩琵琶湖畔を歩いて、親戚の家を探して尋ねて行った、という話を
してくれたこともありました。
いつも前向きで、ほんとうに愚痴を言わないひとですが、
ちょっと前に、夢の話をしてくれたことがありました。
夢のなかで、子供の自分が、ハードルを跳んでいる、という
なんでもない夢の話なのですが、おばあちゃんが言うには、
夢のなかでも、
<走れるわけあらへんのやから、これはきっと、夢なんやなぁ~>
と自分で、わかりながら、ハードルを跳んでいたんやそうです。
で、目が覚めて、やっぱり、夢やったんやなぁ~と思って、
現実にもどって、哀しかった、というのを聞いて、初めて、
母は、走れないんや。。。ってことに、あらためて思い至りました。
そういえば、母が走っている姿は、記憶にありません。
こうして、どこもかしこも、
不自由な身体で、暮らしていくなかで、不自由なことは、
きっと沢山あるのでしょうが、そのすべてを受け入れて、
一日中、笑って暮らしている、その強さのDNAが、
私のなかにもあればいいのやけれど、
どうも、もう一方の、小心者のDNAのほうが。。(笑)
と、思いがけず、長い手紙に、なってしまいました。
最後に、うちの玄関には、いつも、遊びに来たときに、
撮ってもらった、みんなとの写真が飾ってあります。
おばあちゃんは、いつも、
訪問看護のお世話に来ていただく皆さんに、嬉しそうに、
今度の結婚の話をしています。
ご主人様も、孫が伴侶に選んだひとなら、きっと、
優しい、いいひとに違いないって言っています。
そんなこんなで、おじいちゃんとおばあちゃんと、
そして、二人のお世話のある私も、
京都からお祝いに駆けつける、というわけには、いかへんので、
ご迷惑を、もしくは、肩身の狭い思いをおかけしてしまうことを
とても心苦しく、申し訳なく思っています。
京都からお祝い言いに行けなくて、ごめんね。
でも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、(もちろん、私も)
この度のご結婚のことを、心から、とてもとても、喜んでいます、
ということを、お伝えしたくて、お手紙を書かせてもらいました。
えらく長くなってしまいましたが。(笑)
どうぞ、お二人で、仲良く、末永くお幸せに。
ご結婚、おめでとうございます!
令和3年3月28日
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