【軍師官兵衛ゆかりの地めぐり】
秀吉による播州地方の征伐は
黒田官兵衛の諸大名への説得で戦火を交えることなく
達成されそうでしたが三木の別所長治が離反したことから始まり
一気に戦局は秀吉軍にとって不利な戦況に・・・・!!
なんで離反したん?って思ったんやけど【軍師官兵衛】では評定(作戦会議)で
別所家の提案をことごとく秀吉が拒否した、とか
けっきょく播磨は秀吉の領地になってしまうだとか、赤松家の流れをくむ名家が
秀吉の軍門に下るのが嫌になったとかという表現がされていました。
たぶん全部、それが理由なんじゃないかな????
というわけで
別所長治は三木城に籠城して毛利軍の援軍を待つことに。
英賀城の三木通秋や毛利軍が兵糧を送り加古川城や高砂城からも
ドンドン兵糧・武器・弾薬が運び込まれます。
秀吉は三木城の支城をひとつづつ潰して補給を断つ作戦へ。
しかしながら北の上月城では毛利軍が上月城を包囲しており
援軍を送りつつ三木城でも戦わねばならない、ましてや高砂、加古川、英賀保にも敵がおり
神吉城や志方城まで離反するというまさに離反ドミノ!
補給線が長大なものとなり、戦力も各戦線に分けなければなりませんでした。
軍事学上、かなり不利な状況に秀吉軍は陥りました。
軍師官兵衛では
黒田官兵衛は上月城方面に出陣していましたね。
じゃあ三木城攻めは黒田官兵衛ゆかりの地ではない?
いえ、【軍師官兵衛ゆかりの地】と表記すれば問題解決することに
この記事作成時に気づいたので
《ゆかりの地の拡大解釈》はこれにて解決♪
別所長治のお墓のある【法界寺】
毛利家の援軍を待つために籠城したものの
結果として援軍は来ませんでした。
秀吉軍は上月城は見捨てて撤退、上月城は陥落してしまいますが
毛利軍は秀吉軍を追撃せず進撃を停止。
補給線が伸びるのを避けたかったのか、昨今のウクライナ情勢のように
あまり積極的な支援をして秀吉(ロシア)を刺激したくない政治的配慮か?
なんせ頼りにしていた毛利軍が来ないことで秀吉軍は兵力に余裕が出て
神吉城、志方城、魚住城、高砂城と次々と陥落させ
三木城への補給路を断っていきます。
別所家としては当てが外れてしまった・・・・。
籠城は援軍が期待できてこその戦略、これでは自滅を待つのみ!
しかし有岡城で荒木村重が謀反!
有岡城が反・織田家になったことで新たに補給線が構築されましたが
補給としてはまだ脆弱でした。
ここで黒田官兵衛が荒木村重の説得に向かいますが
幽閉されてしまいます。(涙)
なんと黒田官兵衛の主君である小寺政職と荒木村重が通じていたとか
まさに播磨戦線は混沌(カオス)状態に!
別所家の家臣の墓もありました。
三木城での戦いは2年
そのほとんどは秀吉軍による三木城包囲でした。
やがて有岡城も陥落し、黒田官兵衛は救出され
三木城は文字通り孤立無援となり【三木城の干殺し】と呼ばれる
人の肉まで食べたといわれる飢餓地獄が三木城内で発生。
別所長治は一族の命と引き換えに城兵や領民の助命を願い、秀吉がそれを了承し
ここに別所一族は滅亡・・・・していないそうです!
実は家臣が別所長治の子供を連れて逃げ、四郷町で名前を変え
やがて村娘と結婚して子孫は現在も定期的に集会をしているのだとか。
別所さんの墓
司馬遼太郎の作品においても
三木城攻めはいろんな題材で別所家は名家として登場します。
さるるが三木市を歴史ヒストリアしたのは8年前
まだまだ知識不足で播磨征伐の概要が理解できていなかったけど
それを知ることで三木合戦がまた違った印象に映りました。
城兵や領民のために命を差し出した別所一族は
現在も市民に慕われお祭りもあるそうです。
ハナちゃんと階段を上がったよ
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