山親父の日記 -561ページ目

昨日は

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夕方からかみさんと買い物に。

南大沢まで

色々見て廻りましたが、結局ナイキで私のジムのウエア上下と

秋用のゴルフパンツ。


かみさんは小さすぎてサイズが合わずぶつぶつと。

アウトレットはサイズ選びが少し難しいですね。


ところで私の周りを見回しても、でかいFWの奴はみんな奥さん小柄な様な気がします。


たまたまかな。


しかしうちのは、身体小さいけど、態度は私の倍ほど在るように感じます。

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少し私のブロフの補足を。少し長い話ですが。

家に帰ってまずする事に野良猫にご飯とありますが。無闇矢鱈にばらまいている近所迷惑な訳ではありません。


私の家は世田谷の端っこの車一台がやっとこさ通れる路地にあります。今度紹介しますが家にはダックス三匹いて、犬か猫かと言われれば明らかに犬派です。


路地を挟んだ向かいの家におばあさんが住んでおられました。このおばあさんの所に毎晩一匹の黒白の猫が帰って来るんです。賢い子で塀の上からミャーと鳴いて窓枠に飛び乗り、窓を前足でトントン叩き、入れて貰うんです。


ところがおばあさんが去年の秋に突然亡くなってしまうんです。


それでも毎晩窓枠に乗り窓をトントンするんです。近くに緑道があり、結構野良に餌をあげている人がいるんですが、どうも仲間に容れて貰えないみたいです。

みるみる痩せていきました。

可哀想になり最初は塀の上にちくわを置いたりしていましたが、ここが猫の好きじゃないところなんですが、愛想がない、警戒心丸出しで近寄っても来ない。基本的にSなんで冷たくされても嬉しくもなんともない。

それでも猫のカリコリ餌を買ってきて塀に置いておくと綺麗に食べてくれました。

1~2ヶ月たつと私の帰りを待っていて塀から飛び降り近寄って来るようになり、こちらも情が移り見掛けないと心配したりしていました。

飼ってくれそうな家を探したりしたんですが。結局私の家の前に居付きました。
そして冬になり私は玄関の横のゴミバケツを片し、丸く穴を開けた箱を用意し、お湯を入れたペットボトルをタオルにくるんでセットしました。

その日のうちに中で寝てました。

首輪を買ってきて、ありきたりですが、(みゃーこ)と名札をつけました。


冬の寒い雨の日も毎晩箱で過ごし、ご飯も中で食べていました。


犬を散歩に連れていくとき超接近しても(うちのワンコは他の犬や猫には激しく吠え掛かるのに)存在しないかのように無視して、良い関係をつくってました。

春になり箱は取っ払いましたが、相変わらず夜待っていました。

この頃から頻繁にみゃーこのところに同じ様な色のもっとでかい奴が来るようになったんです。
太っていてどう見ても満ち足りた食生活を送ってそうなんです。
みゃーこのごはんを横取りか、子供でも作られたら大変なんで追い払ってました。


この子はぶーちゃんと呼んでました。

4月になってみゃーこは2日おきのペースやしばらく来ない日がありました。そして余り食べずに、水ばかりガブガブ飲んでいました。

4月中頃の日曜日、休みだった私の所にやって来ました。ぶーちゃんを連れて。
ご飯を皿に入れてやっても、頑として拒否します。代わりにぶーちゃんに食べさせようとさえするんです。

結局「お前が食べないならぶーちゃんにやるよ」と言って初めてぶーちゃんに食べさせました。


次の日はみゃーこは来ないで、ぶーちゃんだけでした。こいつ縄張りを横取りしたのかなと思っていました。


火曜日仕事場にかみさんから電話があり。学校帰りにいつも家の前でみゃーこと戯れていた小学生が、緑道の所で死んでいる、って言いにきた、私怖いからあんたの見てきてとの事、

すっ飛んで帰って見に行ったら、綺麗に咲いているツツジのなかで、首輪をつけたみゃーこが死んでました。

坊主頭のいかつい親父、遠巻きに見守る小学生を前に号泣しました。

うちの子でも無いので区役所に連絡して引き取りに来て貰うことにして、何時も寝ていた段ボールに入れ、家の前の花と残ったカリコリを入れてやって、引き取ってもらいました。

どうやらぶーちゃんはみゃーこの子供だった様です。
今なついてお腹を見せて甘えますが女の子でした。

みゃーこはおばあさんが亡くなった後直ぐに死んでしまうつもりだったのかもしれません。

春まで生き延びて、自分の死期を知り、ぶーちゃんを私に託したとしか考えられません。

今日もぶーちゃんはわたしを待っていて、足元にじゃらついた後ご飯を食べいました。

今みゃーこの話をブログに書いているんだとかみさんに話ているだけで涙が止まりません。

ぶーちゃん可愛いです。

ラグビー人生9

6月に入る頃にはなんとか清水と私は二本目に上がってました。私の対面大八木さんショック!。とにかく先生は私と大八木さんを対決させます。

練習試合のキックオフもわざわざそこに蹴るし、練習終わりの肩車グランド一周も強制的に組まされる。自分より20キロも重いんですよ。

しかもあの人私をラジコンカーのように、右耳を引っ張ると右に、左耳を引っ張ると左に、ふらふら、くるくると一周処ではありません。

初めての紅白戦は緊張とアドレナリンで、前後半を10分程で終えたような気がしました。


春の公式戦が始まる頃、大八木さん怪我したか風邪をひいたかして、試合にでないことになったんです。

そんなこんなしているときの紅白戦、その光景はっきりと覚えてますが、ラインアウトの四番目に並んだ私は、相手が投げ入れたボールを半身前に出てファインキャッチし、そのまま相手側に突き抜け、スクラムハーフを巻き込んで突進していました。

自分でもびっくりするビックプレーでした。練習していた訳でもなく、狙っていた訳でもありません。なぜか、勝手に体が動いた訳ですから。


そのプレーのイメージさえなかったです。

その頃はリフティングは反則で、ボールに飛び付いていた頃です。

その夜、自宅に先生から電話がかかってきました。


「あのラインアウトのプレーは凄かった、あの気持ちだ、決してお前を昔から知っているからってひいきしている訳じゃないからな」


疎い私は意味がわからず怒られてはいないようだ。とだけわかりました。

次の日練習で週末の試合のメンバー発表され、私が背番号5を着けることなりました。

吉祥院で土曜日に行われた試合は一方的大差で、168VS0で勝ちました。あのラインアウトのプレーがどうとかいう問題ではなく、この日の私の仕事は約3分毎にキックオフをキャッチしてタックルされてボールを出すこと。のみ。


少しはミスもしたでしょうがほぼノーホイッスルトライでした。

この時点で、168点差は日本のあらゆるスポーツの最多得失点差であったようです。インターネットの無かった時代ですから不確かですが。

トライ4点ゴール2点の時です。

しかし次の日の日曜日、岩手県の黒沢尻工が172VS0と記録を伸ばします。

迎えた次の土曜日続いて出場した私は同じようにタックルされ続け、174得点に貢献します。


この試合でウイングの先輩が独走トライを決めたとき、ゴール前でステップを切りました。

戻ってきた先輩に先生が、「何故ステップを切った?」と聞いたら、先輩が




「水溜まりがありました!」

元気良く答えて怒られてました。



今では佐賀県の方で県大会決勝で300点とかありますが、私自身はこれ以上点を取った記憶はありません。

1年生の公式戦出場はこの2試合だけです。

次回は花園以外の1年生の出来事を。