ラグビー人生9 | 山親父の日記

ラグビー人生9

6月に入る頃にはなんとか清水と私は二本目に上がってました。私の対面大八木さんショック!。とにかく先生は私と大八木さんを対決させます。

練習試合のキックオフもわざわざそこに蹴るし、練習終わりの肩車グランド一周も強制的に組まされる。自分より20キロも重いんですよ。

しかもあの人私をラジコンカーのように、右耳を引っ張ると右に、左耳を引っ張ると左に、ふらふら、くるくると一周処ではありません。

初めての紅白戦は緊張とアドレナリンで、前後半を10分程で終えたような気がしました。


春の公式戦が始まる頃、大八木さん怪我したか風邪をひいたかして、試合にでないことになったんです。

そんなこんなしているときの紅白戦、その光景はっきりと覚えてますが、ラインアウトの四番目に並んだ私は、相手が投げ入れたボールを半身前に出てファインキャッチし、そのまま相手側に突き抜け、スクラムハーフを巻き込んで突進していました。

自分でもびっくりするビックプレーでした。練習していた訳でもなく、狙っていた訳でもありません。なぜか、勝手に体が動いた訳ですから。


そのプレーのイメージさえなかったです。

その頃はリフティングは反則で、ボールに飛び付いていた頃です。

その夜、自宅に先生から電話がかかってきました。


「あのラインアウトのプレーは凄かった、あの気持ちだ、決してお前を昔から知っているからってひいきしている訳じゃないからな」


疎い私は意味がわからず怒られてはいないようだ。とだけわかりました。

次の日練習で週末の試合のメンバー発表され、私が背番号5を着けることなりました。

吉祥院で土曜日に行われた試合は一方的大差で、168VS0で勝ちました。あのラインアウトのプレーがどうとかいう問題ではなく、この日の私の仕事は約3分毎にキックオフをキャッチしてタックルされてボールを出すこと。のみ。


少しはミスもしたでしょうがほぼノーホイッスルトライでした。

この時点で、168点差は日本のあらゆるスポーツの最多得失点差であったようです。インターネットの無かった時代ですから不確かですが。

トライ4点ゴール2点の時です。

しかし次の日の日曜日、岩手県の黒沢尻工が172VS0と記録を伸ばします。

迎えた次の土曜日続いて出場した私は同じようにタックルされ続け、174得点に貢献します。


この試合でウイングの先輩が独走トライを決めたとき、ゴール前でステップを切りました。

戻ってきた先輩に先生が、「何故ステップを切った?」と聞いたら、先輩が




「水溜まりがありました!」

元気良く答えて怒られてました。



今では佐賀県の方で県大会決勝で300点とかありますが、私自身はこれ以上点を取った記憶はありません。

1年生の公式戦出場はこの2試合だけです。

次回は花園以外の1年生の出来事を。