碧眼録第82則 大龍の堅固法身
本則
僧、大龍(だいりょう)に問う、
『色身(しきしん)は敗壊(はいえ)す、
如何なるか是堅固仏身(けんごほっしん)』。
大龍和尚云く、
『山花開いて錦に似て、澗水(かんすい)湛(たた)えて
藍の如し』。
色身敗壊: 肉体は滅ぶ
堅固仏身: 真理の身体、真理そのもの
澗水: 谷川の水
解釈
直訳しますと、『全ては死に絶えるが、不滅で変わらないものは何でしょうか
(真理とは如何に)』。
『花が咲き誇り(私の心が)錦のように輝いているように、谷川の水は青々と藍を湛える』。
禅には詩があります。 これが禅の素晴らしいところですね。 やはり公案の良さは、この則のように短文にて簡素、それに詩を付け加える事で全てを知らしめられる事です。
『この世の中の真理とは一体何だろうか』と疑問に想う事は人生の中誰にでもあります。 この僧も同じで素朴な質問を和尚に投げかけます。 このような質問をした僧の思いはどうだったのでしょうか。 いくら厳しい修行をしても死んでしまえば終わり、一体後に残る物があるのであろうかとか、人生と言うものは虚しいものではないのかとか、自分の心がまだ未熟で安定していない、特に死の事を思えば不安が起こる、人生の価値を見出してこの窮屈さから解脱したいなどと思っていたのかもしれませんね。
このような思惑に対して大龍(だいりょう)和尚は、山の花を見てみなさい、素晴らしではないか、また谷川の色も青々としていて、お前さんの心はそれらに湛えられいるではないかと返します。 これは碧巌録第5則に出ている『百花春至為誰開』と似ていて、春になり花が咲くのは誰の為に開くのかの教えに近いですね。 勿論、山は山としてあり、花は花としてあり、川は川としてあるだけの事ですから、花とか川には誰の為に咲くとか流れると言う思考は無く『ただ』そうなっている。 しかし、それらを見たり感じている人間の心が動く、花自体は不動で『ただ咲く』為に咲く、この事に気が付けば、人間の心が動かない処に真理を見つけ出せるのじゃよと和尚は伝えています。
この則の教えは『如し』ですから、人間と言うものは『すでに湛えられており』始めから花や川のように不動だと和尚は言っています。 この『不動』とは、貴方様の心の中に『花』を無くし、『錦』を無くし、『水』を無くし、『藍』を無くした処が和尚の言う『如し』で、この則の一番重要な言葉となっています。 和尚は、自分の周りを見わたせてみなさい、それを『錦』にするも『藍』にするもお前さん次第ですよと伝え、さらに思考が無くしてそれらが『如し』になった『自分』とは何ぞやと訴えています。 趣意としては、和尚は『真理とは如何にと質問をする自分』と言うものを寂滅させてみよと伝えている事です。 『自分』と言うものを寂滅させた処が有名な『寂滅為楽(*)』で、『消』も『滅』も『滅己』になって『己』が無く、ただ『楽』となっている『真実』です。
(*: 諸行無常、是生滅法、消滅滅己、寂滅為楽』。
前々から書いていますが、貴方様はすでに花であり川でもあります。 それらが錦とか藍になるかは貴方様次第です。 さらにそれらの感情にも囚われず、『錦』も『藍』も無くなった時(寂滅)、自分が誰ではなく『何だ(『如し』)を見性します。 その時生まれて初めて『錦』とか『藍』を真の心から見通せ、時間も空間も無い『不動』の世界に『ただ居る(楽)』と経験出来ます。
合掌
後書き
I have no life but this,
To lead it here;
Nor any death, but lest
Dispelled from there;
Nor tie to earths to come,
Nor action new,
Except through this extent,
The realm of you.
Emily Dickinson (エミリー ディキンソン)
(『今』と言う時間しかありません。)