悟りとは 『本来の面目』下
この文章は長くなりアメーバーサイトには一度に掲載出来ませんので分けます。
まだ『上』と『中』を読んでいない読者の方々にはそこから読んで戴きたいです。
『母の日』おめでとうございます。
私達は『誰』ではなく『何』でしょうか。
禅語の『本来の面目』とは悟りそのものです。
『本来の面目』下
先の文章で禅の小話しを例として載せましたが、絵の意味を追求しても『意味』が概念である以上答えは千差万別でこれと言った確定的な定義は見出せません。 禅は常に『経験』のみです。 悟りに付いて道元とか空海がいくら講義とか経典を書いても『経験』がない以上分からないものは分からないです。(*) 『経験』しかありません。 ですから黄檗和尚の棒30本や倶胝和尚の指一本も『「眼前にあるこれ」を経験せよ、まだ分からんか』と言う思いやりが有るのです。 これでもか、これでもかと推して、掛け軸の絵を見るにも2日、3日と推して腹が減らないと分からない正しい経験を誘っています。 悟りと言うものは常に『この一瞬、この一瞬、さらにこの一瞬』に有ります。 これを体験出来れば即座に自分が何で有るか(『誰』ではない)を見極め、時空間に作用されない悟りと言う場に入ります。
(*: 時々『分からん者は分からん』として済ます言葉を聞きますが、私は『分からんでも分かる』と言う立場を取ります。)
本来の面目とは
それでは『本来の面目』とは実際にどの様なものでしょうか。
私は私の感情ではない。
I am not of emotions.
私は私の思考でもない。
I am not of the thoughts.
私は私の体でもない。
I am not of the body.
上記の言葉は私と私の先生のマントラですが、これからみると『本来の面目』とは
まず感情に取り憑かれる事ではないと言えます。 また思考にも取り憑かれないもの。
体としては般若心経が唱える様に我々が身体と思っているものは実は『無眼耳鼻舌身意』で虚証であり真の本体は『不生不滅』で時空間に作用されないもの。(*)
(*: 終わりも無く、始まりも無い。 『ただ在る』もの。 科学的に言っても、特に素粒子学や量子電磁力学などの分野では一般に我々が現実だと思っている世界があやふやに成っています。 例としてはシュレディンガーの猫の箱が有名ですね/猫が箱の中に居て、生きているのか死んでいるのか箱の蓋を開けてみないと分からない。 しかし、蓋を開けない以上猫が生きている可能性と死んでいるとの可能性が両立している。 生死が両立している。)
『不生不滅』』と言っても悟りとは人間以外のものに変化(へんげ)するのではなく、超人になったり聖人になるものでもないです。 ただ悟りの境地を保つ人間として生きて行く。 道元の『眼横鼻直』も当たり前の人間だが、彼の境地は般若心経の『心無罣礙(しんむけいげ)、『無罣礙故(むけいげいこ)』であり(*)、よって『無有恐怖(むうくふ)、究竟涅槃(くきょうねはん)』(*)であるから『本来の面目』を弁えています。 この様な弁え方を実際にはどう教えて行くのでしょうか。
(*: 執着心がなく、わだかまりもなく、不安や恐怖感がなく、清く自由で真理である事。)
先のお話しの掛け軸の絵の事ですが、芸術鑑賞には人それぞれ色々な鑑賞方法がありますが、ここでは禅に付いて書いていますので、初心者レベルの鑑賞経験をもう少し高い意識レベルで見て戴きたいと思います。 例えば、どの様な絵でもキャンバスに描いてある絵を見るではなく画家を観る。 画家の性格とか生い立ちを知り絵から読み取る。 どの様な想いとか思考が走って絵を描き始めたのかを眺めてみる。 絵の裏を見てその絵を知る。 この様な意識レベルで鑑賞しますと色々な発見があります。
今回のお百姓さんはまだ若いせいもあり、特別な鑑賞方法を知っていませんでしたが、彼が持っている賢さは彼の正直さにあります。 住職である和尚さんに言われた通り、疑いなく絵と睨み込んだ。 和尚さんを信じて何かあると言う事に挑戦してみた。 しかも、頑張って3日も睡眠もなく見続けた。 お坊さんに成ろうとする意志は正直がゆえとても強かったですね。 ここの処、和尚さんは確かめています。 これで良いのです。 和尚さんは最初から答えの出ない事を聞いているのですから。 『絵の意味は何だ』と聞く意味とは概念ですから人それぞれ違う答えが出ます。 『これだ』と言う答えは無いです。 ですから、お百姓さんが出す答えよりは、如何にお百姓さんがこの現状に対して対処するかを伺いたかったのです。 一日目で疲れたからと言って適当な答えを出していては即失格ですね。 強い念願があり、頑固に頑張る。 その結果として意味と言うのは見出せなかったが絵に描いてある男と『同じ』(*)と言う事を経験出来た。
(*: 両鏡相照(りょうきょうそうしょう)。 絵の男と画家の心とお百姓さんのお互いの鏡が照らし合った。)
また、正直ですから頭を使い試行錯誤をして何とか知的な答えを出そうともしなく、3日間頑張った結果腹が減ったと言う当たり前の言葉で返した。 禅者は自然に従うので眠い時には眠る、腹が減っては食う、普通の人間としての行動を続けます。 今回のお話しでも正直さから自然に出た当たり前の言葉を和尚さんが認めてこのお話しは無事決着しています。 良かったですね。 ただお話しの内容は禅とか悟りの段階の始まりでまだまだ上があります。 ではこの『上』とはどの様なものなのでしょうか。
禅語に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)と言う言葉があります(*)。 努力をして到達出来る境地からもう一歩さらなる飛躍を目指して進む。 禅は常に自己究明だけの事です。 ですから百尺竿頭として追求すれば、自分が誰ではなく『誰』の上『何だ』を見極めるます。 そうだとすると『悟り』の上は何でしょうか。 心の『安心(あんじん)』の上は何でしょうか。 『智慧』の上は何でしょうか。 最後に『本来の面目』の上は何でしょうか。 『真の本来の面目』とは如何にです。 どうでしょうか。 しばらく考えてみるか坐禅でもしてみて下さい。
(*: 『百尺竿頭一歩を進む』。 約30メーターの竿の先、この先からもう一歩踏み出す。)
禅とか仏教の真髄はどの様なものでしょうか。 私は先にも書いた様にただの一般人で禅者でもなくお坊さんでもないです。 檀家には一切関わり有りません。 よって自由です。 評論家や各宗派の方々の批評は気にしておりません。 正しい事を書けばお互いが理解出来ると思っております。 よって、誰が以下の文章に対して何を言おうと私は気にしません。 私としては『起るべき事が起る』で良いのです。
以下、重要な事ですので読んでみて下さい。
百尺竿頭とは素晴らしい言葉ですね。 自己究明の意志を忘れなく追求する。 よって悟りを追求すると『何処』に落ち着くのでしょうか。 竿からもう一歩出た『処』とは何でしょうか。 それは『愛』の上であり、『禅』の上でもあり、『悟り』の上でもある『慈悲』です。 安心の元は慈悲であり、安心の上の安心(あんじん)(*)が『慈悲』そのものであり不動です。 また『菩提娑婆訶(ほじそわか)』である元です。 一切の悩み事を含む『慈悲』。 また、それで良しとする『慈悲』。
(*: 達磨の安心(あんじん))
ではもう一つ百尺竿頭して飛躍した処の『慈悲』とは何でしょうか。 『慈悲』の上は如何に。 『慈悲』の上は『大慈悲』です。 この『大慈悲』と言う言葉は私が勝手に作って使っている言葉ですが、この『大慈悲』が原動力になっており、これが無いと何事も起こらず、ただ始まりも終わりも無い世界だけになってしまいます。 これに付いては、それは貴方の勝手な考え方で判断でしょう。 判断だから結局は相対性に嵌っていると言われるかも知れませんが、この『大慈悲』がないと何も進めないのです。
重要な事は『慈悲』(*1)と『大慈悲』は感情の『上』で二極間には別れません。 『慈悲と大慈悲は一如です』。 『大慈悲』とは「源(みなもと)」』で『百尺竿頭としての自己究明が行き着いた「処」』です。 これがないと『悟り』などは実在しません、根本ですから。 根本と言う事は『大慈悲』が『真の一如』です。 我々は『一如そのもの』であり、『その一部』でもあります(*2)。 この『一如』と言う経験の立場から自分と世界の諸々のものを『慈悲の目から観る』。 これが『本来の面目』の真理です。(*3)
(*1: 仏は悟って仏になる前(シッダールタ)は修行をやり過ぎて体が骨と皮になって死に掛けていましたが、ある日スジャータと言う若い女性からお粥を与えられて生き延びています。 ここでシッダールタはこの女性の慈悲に出会い、私としてはこの経験が後の彼の悟りへと繋がった要因だと確信しています。)
(*2: 『一如』とは何だと聞かれた時、強いて言えば『色即是空、空即是色』のどん真ん中ですとお伝えします。)
(*3: 倶胝和尚が貴方様の目の前で指一本挙げます。 この一本は貴方様に対しての『慈悲』として挙がります(スジャータのお粥)。 受け取る貴方様には心中に安心(あんじん)を置ける心構えがお有りでしょうか。 また、この指一本に対して貴方様の目から涙が出れば、貴方様はすでに悟りを超えた仏に成っておられます。)
この様に追求して行きますと、最終的に気が付く事は、我々に『慈悲』がある以上、我々はすでに『大慈悲』であり、『一如』の悟りの世界に居るとい言う事です。 我々の大多数の人達がそれに気が付いていないだけです。 早く目覚められる事を心から願っておるしだいです。
『菩提娑婆訶』。
合掌
最後に
さて、ここまで書いて来ましたが、ここで一つ読者の皆様方に質問があります。
以下の質問に対して貴方様でしたらどうの様にお答え致しますでしょうか。
多数のお坊さんが全国から集まり、また一般の方々も参加している会合にて仏教に付いて語っている中、一人の勇気ある婦人が立ち上がりマイクを持って質問します。
『私は先の東日本大震災の時に津波により夫と息子を亡くしました。 あれからもう数年経ちましたが、一人に成った今の私の心を癒すにはどの様にすれば良いのでしょうか(心の置き場所を何処に置くのか)』。
この質問に対して貴方様が正しく貴方様の心から答えを出す事が出来れば、貴方様はすでに悟りの世界にいます。 答えはすでに散々書いております。
