岐鑑の悟りブログ

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悟りとは 『本来の面目』上

(この文章は長くなりアメーバーサイトには一度に掲載出来ませんので分けます)


私達は『誰』ではなく『何』でしょうか。

禅語の『本来の面目』とは悟りそのものです。


始めに

大変ご無沙汰しています。 書こう書こうと思いつつ今日に至りました。


私は今年に入ってから早々色々な事が起こり、2月には心不全の簡単な手術を2回しましたが、その間に詐欺事件が起こりお金は取られなかったのですが、パスワードを変えたり運転免許書を切り替えたり、各所に通知したりでストレスが溜まり大変でした。 詐欺に関しては最初の手術後に起こり、

私の体から麻酔がまだ完全に消失していなく、頭がボケーとしていた時に起こり誤魔化しに3日間も気づかず振り回されましたので3月は養成しておりました。 初めての経験だったので詐欺にあった被害意識を自分に向け私のせいにしてしまったので悩み、久しぶりに私の意識と精神レベルは修羅場に転落していました。 よって、長い間話していない私の先生に電話をかけ彼女(インド人)が正しく治してくれました。 


今回は彼女の教えてくれた根本を以下に書きたいと思います。 この根本が分かれば貴方様は悟りに一歩近づくか、何時かは悟りが悟りの方から来るでしょう。 


『本来の面目』

私はお坊さんでもなくただの一般人ですので、今まで書いて来た事は常に普通の一般の方々が理解出来るようになるべく分かりやすく書く努力をして来ました。 今回も禅語である『本来の面目』を理解するは難しいと思われますので、分かりやすくする為に英語ではTrue Selfとしこの二語を大文字にして『本来の面目』と致します。 ではTrue Selfとは何でしょうか。 Trueは真実、正しさ、純粋さなどと翻訳出来ます。 ここでは大文字にしますので、これらの訳語の精神レベルよりは上のものです。 Selfは自分自身ですが大文字にしますので自分と言うものを通り超えたものです。 二つ合わせての『True Self』とは根本的な本来の我々の『姿』とはいったい何ぞやです。 本当の意味での『真実の自分』とは何でしょうか。 この『真実の自分』は恒常的で揺るぎなく断固としてのある『自分』であり、またすでに『自分』を『超越している自分』(本来の面目)です。


『自分』と言うものを追求して行くと一体その先には何があるのでしょうか。 説明するにはまず追求する方法論を述べなければなりません。 どの様に追求すれば悟りは得られるのか。勿論坐禅があり大変重要なのですが、それだけではないです。 実際に坐禅の歴史と経験があまりないアメリカ人でも悟った人は多数います。 要は『心』(*)です。 ですからこの『心』を養い、貴方様が何時か目覚める事を私は切に願っております。 

(*『心』: 鈴木大拙が大好きだった『才一』の『なむあみだぶつ』。


以下の文章はもうすでに私が過去に散々書いている言葉ですが、これらが初心者にとっては分かりやすいと思っておりますので再度書きます。


私は私の感情ではない。 

I am not of emotions.

私は私の思考でもない。

I am not of the thoughts.

私は私の体でもない。

I am not of the body.


私は過去にこの三の中で最後の『私は私の体でもない』が一番分かりにくいのではと書きました。 今日はこれを説明します。 


人間である以上感情と思考が付き纏い、我々はそれらに作用されています。 これが我々の『苦』の始まりです。 感情的に嵌まり思考に取り憑かれては悩み分別評価をしては苦しんでいるのが我々日常茶飯事の生活です。これを打ち破るのが禅の精神です。 例えば、『何時かは幸せになろう』と思っていてもこれも思考の内です。 『なろう、なろう』とすればするほど諦めと絶望感が増します。 しかも『幸せ』とは概念でありますから人それぞれ『幸せ』の答えは違います。 ですから誰かに教授して貰っても今ひとつ掴めない。 自分の心の中にある定義の幸せと違うからです。 よく西洋では『生きていると言う意味は何だ(What is the meaning of life?)』と言う言葉をあたかも哲学的に聞きますが、これを考えても答えは出ません。 『意味(meaning)』は概念(concept)でありますからこれだと言う一つの答えは出ません。 この様な意識レベルだと何時まで経っても感情と思考の修羅場からは抜け出れません。 チャクラで言うなら第一と第二のチャクラでまだまだ動物レベルです。 人間の意識はそれ以上なもの、願わくば多数の方々がもっと高いレベルでの意識で『真実』を追って戴きたく思います。 


私個人としての理解は、人間の苦しみを見抜いてそれに対してどうあるべきかを説いたのが仏です。 例えば、言葉が相対的に出て来る以上我々は『良し悪し』とか『美しい醜い』などの言葉で自分と他人またこの世界を分別しています。 よって、私と貴方とは『違う』と見ており、人に対しても物に対しても分別評価(judgement)で判断しております。 これは日常生活の営み、また人間として生存するには必要ですが苦しみが増します。 この様な分別に取り憑かれると『心の安心』は得られません。 


一つここでは実験的に貴方様の心地よい部屋の中で落ち着いて、その部屋にある一個の物を見つめて下さい。 何か花瓶とか掛けてある絵とかを選び、しばらくじっと見つめて下さい。 20分、30分見つめてみる。 坐禅的に心を落ち着け見続ける。 まずは思考がその物に対して走ります。 30分もすると分かって来る事は、部屋は静寂でその中の物は一切動いていないのにただ頭の中の思考だけがグルグル動き回って走っていると気づきます。 これらの思考を無くしたければ今見つめている物と部屋の全体と一つになり自分自身が静寂そのものにならなければ何時までも思考が走ります(*)。 

(*: 後半で書く禅の物語を読んでみて下さい。)


思考が生まれるのは物や状況に対して感情を付けるからです。 感情は手に取れないものであり刹那く一時的なものです。 ですが、これに取り憑かれると感情的思考が停滞して病気になったり現実感を狂わせます。 悟りへの一歩は感情に取り憑かれない事です。 勿論人間である以上取り憑かれますが(*)、取り憑かれたと言う認識があれば改善出来ます。 何事も失敗の繰り返しで我々は鍛え上げられます。 諦めずに練習(修行)をしてみて下さい。 また、経験深い先生に付いて下さい。 貴方様の『心の奥底に安心とか平安を求める念願があれば』何時かは悟りが悟りの方から来ます。 

(*; 悟っても人間である以上感情は付きまといます。 悟りと言うものは悟ったから『即座に聖人になる分けではない』のです。 『本当の修行』と言うものは悟ってから始まります。 悟りの境地を保つにはお寺などの環境で生活すればまだ容易かもしれませんが、我々一般人が普通の生活の中での維持は非常に困難で、かの白隠さえも二回目の悟りでその境地に達しています。)


思考が出て来るもう一つの理由としては過去の経験からです。 過去の経験の記憶を思考として未来に投射しては分別評価判断しています。 悩み事とか憂鬱症などはそれの典型です。 過去の悩みの経験があったから未来もそうなるだろうと言う誤った思考が走り、未来の可能性を無くしは今の自分に対してそれらの感情を正当化する。 ですから逃げ道を見出せない。 悩むばかり。 修羅場ですね。


この様な修羅場から抜け出すには良く自分の思考パターンを理解し、過去からの経験、例えば親に見捨てられたと言う被害者意識のトラウマ、頭が悪いとかお金がないとかの欠乏症意識のトラウマの原因は過去形の思考から始まり、その思考をあたかも現実だと捉えては未来に投射するから起こると自覚するべきです。 過去形と未来形から来るこれらのトラウマの解決作は一つ、自分の思考を現在形にする事です。 


日本人は『あやふや言葉』で知らせていますが、あやふやは避けて『肯定』とて言葉を使う。 『あやふや言葉』とは『と思われます』とか『ではないでしょうか』とかです。 一度私は日本に帰国した時にテレビのニュースで火事の場面を映していましたが、家が燃え、火が窓から出ているシーンに対してアナウンサーが『今家が燃えているかもしれません』と報道した事でした。 アメリカでは絶対にこの様な間違った報道はしませんし、したら首になります。 目の前で起こっている真実を『思います』とは驚きしかありません。 しかし、これが日本人の長年培った知恵です。 ですが『悟りは絶対肯定な世界』です。 悟ると絶対にこれが悟りだと分かる世界です。 『これが悟りでは』と思っているうちは悟りではありません。 重要な事は肯定的に意識レベルを持って行かないとまず悟れません。 悟りの世界はそう言うものです。 あやふやではありません。 ですから般若心経が唱える『無』とは『絶対無』であり中途半端ではありません。 これを良く肝に銘じて下さい。 


思考に関してはなるべく過去形と未来形を無くし、『私はこれをする、いや、しない』とか『これを買う、いや、買わない』と言う"Do or Don't"として、自分に対して『私は何々だ』と常に肯定して行く。 この様な現在形を使っていれば憂鬱症になるような思考と感情が入る隙間はありません。 失敗しても良いのです、常に練習(修行)してみて下さい。 


続く


合掌