悟りとは 『生死(しょうじ)』
先に書きました『そのまま』に付いては理解して戴けたかと思っております。 ですが、我々一般人が今一受け止められないのは『死』と言う事から抜け出せていない処にあると思われます。 死がある以上、人が苦しみ死んで行くのを見ては『何が「そのまま」なんですか』と聞かれる事でしょう。 先の婦人からも『私の夫も息子を死んでしまったのです。 それに対して何が出来ると言うのですか。』と聞かれる事でしょうし、『「そのまま」とはちょっと非情ではないですか」』と言う返事が返ってくる事でしょう。 この疑問にどの様に答えれば良いのでしょうか。 難しいですね。
人の感情や想いはそれぞれ。 多数の人達を導くは至難の業です。 また、その時の状況や事情により感情も大きく分かれて違います。 さて、どうするか。
難題にはごちゃごちゃ説明するよりは、単刀直入に元から話した方が良いと思います。 よって単刀直入に話しますと、禅から観た『真実』とは『死』と言う状態は存在しませんし、『生』と言う状態も存在しないのです。 これは般若心経に細かく書かれています。 『そのまま』と言う世界は『生まれてもいなく』、だから『死ぬ』と言う死んだ世界もありません。 では何があるのか。 その答えは『只、そのまま』と言うものがある世界です。 『只ある』それだけです。
悟って真っ先に見性する事は、この悟りの世界には『生死(しょうじ)』がないと言う事です。 『生死』が無いとは『時間も空間も無い』となります。 始まりも無く、終わりも無い。 『只ある』の世界です。 私が言っている『生まれてもいないから死ぬはずがない』です。 ここら辺が分かって来るとパラダイムシフトと言うか知恵が初めて智慧になります。 この智慧を得て世界を観て行く(『見る』ではなく『観る』になる)。 人生初めて『生まれてもいなから死ぬはずはない』と言う『安心・あんじん』を得られる。 これから私の家族や知人が死んで行く事でしょうが、彼らの行き先はすでに分かっている。 この『安心・あんじん』から言える事が『そのまま』と言う事です。
般若心経の素晴らしい処は、この世界を『虚』として全てを『偽りだ』と見た処から正しく観ると何があるのかを答えている処です。 で、その様な世界がどこにあるのかと言いますと『般若波羅蜜多時』と言う『時』で、この『時』とは『即今只今』の『今』です。 そして、この『今』は『五蘊皆空・ごうんかいくう』であって五の要素には実体がない(五蘊: 色、受、想、行、識)。 だからどうするのかを唱えています。
般若心経を理解しようとする時に私が勧める事は、ルネデカルトに見習い、全てを一旦拒否してみてください(デカルト: 一旦騙されたら信用は置けない)。 彼の様に全てを拒否したが、その拒否したと言う意識思考(考え)がまだある、だから『我れ思う、故に我あり』とか『疑いは知のはじまりである』などと見性した時、貴方様にはもう一つ『百尺竿頭に一歩を進む』をして戴き、さらに追求して『我あり』の『我』が無くなった処まで辿り着けば、『色即是空、空即是色』のどん真ん中に居います。 このどん真ん中には死も生まれも時間も空間も我もありません。 『そのまま』として『只ある』の世界です。
『死生(しょうじ)』に付いて重要な事は『般若波羅蜜時(*1)』のその『時』とは何だです。 この『時』とは過去と未来のどん真ん中で、両極がぶつかり合った瞬間です。 ご承知の様に時間は数字で幾らでも分けられます。 一万分の一秒または一兆分の一秒、さらに一京分の一秒と頭の中で数えられるだけ区切りを取れますが、要は無限です(*2)。 この無限と言う『一瞬』が悟りの世界で、般若心経の『無老死』の世界です。 『この一瞬』が全てです。 我々は常にこの一瞬、この一瞬として存在しています。 『この一瞬』には死と生がなく禅語では『死生(しょうじ)』(*3)と言っています。
(*1: 般若心経の素晴らしい処は一番最初の言葉、『般若波羅蜜時』で、『この時を知れ』として、その後の言葉は全てこの『時』と言うものを唱えている処にあり、東洋思想の最先端であり最高峰なものである事です。)
(*2: 数学の無限はサイズです。 小さな無限大もあり大きな無限大もある、しかし両方無限です。)
(*3: この様に説明するしかないです。 言葉では表せ切れない事ですから。)
もし貴方様に『この一瞬』を経験したいと言う想いがあれば意識レベルを上げて戴き、死を恐れず憎まなく、『そのまま』と言う意識レベルから自分の人生の『安心・あんじん』を獲得して戴ければ幸いにと思います。
最後に伝えます。 『悟り』は貴方様の眼前にあります。 お気付きくださいませ。
合掌
