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岐鑑の悟りブログ

スピリチュアリティー (spirituality)
愛と禅
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悟りとは 『禅から観た死』


無門関第29則 『非風非幡』


無門関は全般的に碧巌録よりは優しく分かりやすい方だと一般的に言われていますが、無門関は難問の第1則『趙州の狗子』から始まっており、公案の基礎と言って良いと思っております。 


この29則、率直で分かりやすいと思います。 すでに2、3回解釈しております。 内容は二人の僧が風になびく幡を見ては、一人が『幡が動いているのだ』と言い、もう一人の僧が『いや、風が動いているのだ』と討論していてなかなか収まらずにいた時、六祖(慧能)が通り掛かり『これ風が動くものでもなく幡が動くものでもない。 お前ら二人の心が動いておるのじゃ』と教えます。 これを聞いた二僧は悚然(しょうぜん)たりと書かれていますが、ちょっと大袈裟ですね。 これも公案の面白い処です。 最後の『頌』の所では『六祖も釣られて口開き思わず語りに落ちるとは』と締めくくっています。


先に何回も書いていますが、この世の中言葉では表せられない事があります。 ここで『口開き思わず語りに落ちる』が正しいこの則の教えです。 確かにこの二僧の意識が動いての事ですが、思考では答えが出ません。(*) 論理的または科学的に考えても禅から遠ざかります。 

(*: 禅的に言えば、思考は思考しか生まなく答えは出ません。Thoughts only produce thoughts, no solution.)


ではどうすれば良いのでしょうか。 そもそも我々の言葉が相対的に出て来る事を認識していれば、禅的な答えは『その何方でも無い。(neither)』が正しいです。ただし、ではいったい『何方でも無い』とは何だと聞かれた時に説明する一つの言葉がありません。 『良し悪し』の何方でも無いとは何だと同じです。 ですからこの則では言葉で答えてしまっては公案の落とし穴に嵌ってしまいます。 簡単そうで簡単ではないのが無門関です。 ここら辺、第1則の『趙州の無』が大変難しい処の中核です。 


私はこの則と同じ経験を先回帰国した時に体験出来ました。 三重県の賢島に行きホテルの部屋から湾を眺めた景色と同じで、海上に風がサッと走ると同時に波がサッと揺らいで走って行く。 その景色を上から暫く眺めておりました。 私はこの則の真っ只中に居たわけです。 良い経験になりました。


この則、答えを言葉で出してはいけません。 最初から無いからです。 般若心経の言葉を借りますと『色即是空』と『空即是色』のどん真ん中です。 これを経験する事(言葉ではダメですから)が禅の精神です。 このどん真ん中には言葉は無く、ましてや時間とか空間も有りません。 だた『どん真ん中』と言う『一如』しかないです。 では『一如』とは如何にと聞かれても言葉では到底表す事が出来ず、ですから道元の言う様に坐禅をしてみろと言うしかなくなります。 


付け足しに、あえて般若心経からの言葉を借りて説明します。 般若心経での一番大事な言葉は、最初の『般若波羅蜜多時』の『時』と最後の『娑婆訶』です。 『時』は今、この一時、この瞬間と言うものです、 『般若波羅蜜多』だけでは格が落ち意味合いが崩れます。 『今』貴方様が般若心経を読もうとするまさに『その時』です。 すでに貴方様の心は決まっており読もうとする意識がある『その時』に般若心経の全てがすでに貴方様で貴方様がすでに般若心経自体である事です。 


そして貴方様にギャテーギャテーの心が起こった時、最後の『娑婆訶(Svaha)』とは岸の向こう側に辿り着いて、生まれて初めてこの世の中の真実が理解出来た賞賛であり『悟り(Bodhi)』です。 


これが禅とか仏教の精神である『死』です。 般若心経が唱える『無老死』が経験出来た。 どの様な事が起こっても常に『色即是空』と『空即是色』のどん真ん中にいて揺るぎなくただ『一如』である事。 


般若心経が唱えるように我々の生きていると思っている世界は全てが虚証です。 これを見破るのは貴方様自身です。 願わくば確実たる『安心(あんじん)』を経験して戴ける様心から願っておるしだいです。


合掌。