碧巌録第41則 『趙州の大死底の人』 | 岐鑑の悟りブログ

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碧巌録第41則 『趙州の大死底の人』


本則

趙州、投子に問う、

『大死底の人、却って活する時如何』。


投子云く、

『夜行を許さず、明に投じて須(すべか)らく到るべし』。


大死底の人: 死にきった人、大死一番(死ぬ覚悟で奮起する。 執着心を全て打ち切る。)

明に投じて須らく到るべし(不許夜行、投明須到): 夜中に行くことは禁ずる。 しかし、夜明けには到着してなければならない』。


解釈

ちょっと読むだけでは一見トンチのような問答ですね。 そして、トンチと言えば一休さんですね。 で、一休さんと言えば有名な彼の悟りの句です。 ですから、この則の説明はこの句の解釈から始めます。 


闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の親ぞ恋しき』。


直訳すると、闇の黒と烏の黒の真っ黒な中にいて、その中に鳴かない烏がいる、だがその声を聞いたらまだ生まれてもいない親が恋しく思ったと言う句ですが、さてどうでしょうか。


最初の出足は分かり易いのではと思います。 黒に黒で何も見えない、また鳴いてもいない声が聞こえたと言う事は、一休さんは五感を超えた処に居ると言っています。 五感を超えた処に辿り着いたら『生まれてもいない』と言う事を悟った。 大概の人が理解に苦しむのは『生まれぬ先』です。 『そんな事はありえない』などと思考が走り発想が出ません。 これは経験をしないと分からない事だからです。 また、経験しても言葉に出せない領域です。 先の文章に書きました『色即是空』と『空即是色』の二つが一つに成った処です。 これらは言葉として書けても説明は出来ません。 私の言う『永遠(*1)』の領域です。 この世界は時間と空間が有りません。 ですから『生まれぬ先』とは時間が始まる前の事です。 そして、一休さんは時間の始まる前からあったものを発見した、それが『父』だったと言っています。 この『父』とは禅で言う『本来の面目』で、自分が誰ではなく『何だ』が分かったと一休さんは伝えています。 自分の真の本質とか真の実体(*2)を悟れったのです。 私が前から書いている『我々はこの世界に居るのだが、この世界の者ではない』を悟れたのです。

(*1: 私の前の文章を読んでみてください。)

(*2: 英語ではentityです。)


再度書きます。 悟りの世界には時間と空間が有りません。 『自分』と言うものも有りません。 ただ『一如』があるだけです。 本当に簡単な事なのです。 


本題に入ります。 時間が無いと空間が無いと覚れば、投子和尚の言う『夜行を許さず、明に投じて須(すべか)らく到るべし』も分かり易いのではないでしょうか。 


この則の問答は普通の僧と和尚ではなく、二人の悟った和尚の問答ですので、この則の趣旨は少し他の則とは違います。 趙州和尚があえて聞きます。 『死にきった人として全ての執着心を無くした人の生き様とはどうようなものなのか』と投子和尚を試すような言葉をぶつけるます。 趙州和尚は投子和尚の悟りの深さを伺っているようにも思われます(*)。 この質問に対して投子和尚が素早く『夜中に行くことは禁ずる。 しかし、夜明けには到着してなければならない』と答えます。 この答え色々と解釈出来ます。 『寄り道をするのではない』とか『迷いなどの無明から早く抜け出せ』とか『即心即仏だ』とかです。

(*: 験主問。)


二人の悟っている和尚の問答であれば、解釈する時に重要な事は、趙州和尚が言っている『大死底の人』とは趙州和尚であり投子和尚でもあります。 お互いが『一如』の悟りの世界に居て言葉を交わしている、その奥には『私と貴方は同じですよ』と二人とも言っている事にあり、この事を伝えるのがこの則の趣旨です。 


ですから、趙州和尚の言葉の中にすでに答えがあり、投子和尚の返事の言葉の中に質問が含まれています。 この則では、趙州和尚の聞いている言葉の『活』がすでに投子和尚の答えになっており、投子和尚の答えの『須(すべか)らく』が趙州和尚に対しての質問になっています。  趙州の言う『活』する処とは投子和尚『須らく到る』です。 投子和尚の『須(すべか)らく』は趙州和尚に対して『すでにお前さんも分かっておるだろうが』です。 このような問答を『問は答処に在り、答は問処に在り: 問在答処、答在問処』と言っています。


しかし、これだけではまだ読者の方々には理解しにくいと思います。 この則の『頌』の始めにこのような言葉が書かれてあります。 『活中に眼有ればまた死に同じ(活中有眼帰還同死)』で生の根底に徹すれば大死と同じとあり、また『両(ふたつ)ながら相い知らず(両不相知)』ともあり、活も死も無いと書かれてあります(*)。 

(*: この則の評唱のところには、『死人を殺し尽くして、はじめて活人を見、死人を活(いか)し尽くして、はじめて死人を見る』と書かれてあります。)


『大抵死の人』とは『両(ふたつ)ながら相い知らず(両不相知)』の世界の人です。 よって、時間を超越しており『生まれぬ先』の人です。 ですから、この則の二人の悟った和尚の問答は、このように解釈します。 


趙州和尚云く、『生まれぬ先の父になるとは、如何に』。

投子和尚云く、『時間を許さず、正せば(須く)明(悟り)の世界があるのみ』。


合掌