碧巌録第13則 巴陵(はりょう)の銀椀裏(ぎんわんり) | 岐鑑の悟りブログ

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碧巌録第13則 巴陵(はりょう)の銀椀裏(ぎんわんり)


本文

僧、巴陵(はりょう)に問う、

『如何なるか是れ提婆宗(だいばしゅう)』。

巴陵云く、

『銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る(銀椀裏雪盛)』。


提婆宗(だいばしゅう): 迦那提婆 (KanandevaまたはAryadeva)が説いた論理仏教の一派で、『空』の思想を究める。


解釈

『銀椀裏雪盛』と言う字は掛け軸にもよく書かれていると思われます。 銀と銀が混じり合い何か涼しいような気持ちになります。 


銀のお椀に銀の雪を盛り付けをするとは奇才また芸術的で面白い発想ですね。 白いキャンバスに白色を塗り付けるのと同じで現代アート的です。また一休さんの『闇の夜に泣かぬカラスの声聞けば』と同じく何も見えない闇の世界を銀世界に置き換えています。 または、白紙に筆に墨ではなく、白色の絵の具で書いて余白とは何ぞやと聞いているとも受け止められます。 


上記に少し簡単に説明しましたが、提婆宗(だいばしゅう)は『空』の思想ですから、僧の質問の裏には『空』とは一体何ですかと聞いています。そうすると、『空』ですから『禅の真髄は如何に』と聞いていると解釈出来ます。 『空』とか『無』とかは日本の文化になっていますので、日本人だったら何回もこれらの言葉を聞いたり出会ったりしています。 


しかし、本当の『空』とか『無』とは何でしょうか。 『無』に付いては先の文章で触れておりますが、鈴木大拙が訴える『無心』が『心無心』になった処の本当の『無心』、即ち『真心』です。 『空』も同じく『真空』になった処です。 『空』と言うと我々は即座に『色即是空、空即是色』を思い出しますが、この二つが一つになった処。 道元の言う『心身脱落、脱落心身』の二つが混ぜ合わさって一つになった処です。 『色即是空』と言う銀椀に『空即是色』と言う雪を付け足したら何になるのかです。 


これらの二つが溶け合った処で、『銀椀』がすでに銀椀でなくなった処、『雪』もすでに雪ではなくなった処での世界は何ぞやと巴陵和尚が答えています。 この僧、賢く心が深いですね。 そうでないと和尚がこのようには答えていなかったかもしれません。 


お椀を見る我々が、見えなくなった雪と共に自分自身と言うものを消滅した処、『真無』であり『真空』な処です。 先の『悟りとは その110涙』の所で書いた一如としての『永遠』とは如何にです。


一般の我々が存在していると思っている世界には善人が居たり殺人者が居たり、友達が居たり憎い人が居たり、天使を想像しては悪魔も想像してみたり、健康があり病気があり、幸福があり不幸があり、さまざまものが入れ混じっていますが、これらを『何故』と追求していのが所謂る衆生の世界で『苦』の始まりです。 ですから、もし貴方様が感情的に苦に陥っていると思うのであれば、感情から解脱出来るような生活に持っていかねばなりません。 また、死に付いて悩んでいるのであれば、時間外の世界で死も生まれも初めから無い処はあるのかと詰めていく事をしなければ苦からは解脱できません。 『苦』から解脱するには如何にです。 


余談ですが、仏にも敵に近い人がいました。 提婆達多(Devadatta/ダイバダッタ)です。 釈迦の弟子でしが釈迦の敵対者になり色々な事を犯した人です。 このような人は身近にもいますし、どの時代にもいますね。 では、仏はこの敵対者と敵対心をどのように受け止めたのでしょうか。 まず、仏は自分と言うものが『何』であるかを弁えており、分別の世界には居ません。 無分別の世界からダイバダッタを見ており、彼も含め、全ての人達は自分と『同じ(一如)』としています。 ですからダイバダッタの行いも慈悲の目から見ており、同じ人間として良く彼の事も理解しており、彼の行いに対して分別をしなく一切の葛藤から解脱している『真心』を持って見つめています。 我々だとここの所で『悪行は悪行でしょう』と言いたい所ですが、仏はダイバダッタが何をしようと無分別の『安心(あんじん)(*1)』の世界に居ますのでなびかないし不動です。 この則では、このような人をこう書いています、『如何なるか是れ道、明眼の人井(いど)に落つ』として全てが抜けています。 貴方様の心に永遠の安心(あんじん)を置きたいのあれば、井戸に落ちてみてください(『空』になる)。 ここで重要な事は、仏が物事を回避したり無視しているのではなく、智慧があるから無分別の世界から『こう言う事です(*2)』と今経験している自分を観ており聡明であり『真の慈悲』となっている事です。 

(*1: 『安心』とは『慈悲』と同じです。 我々が慈悲自体になってこの世の中を見つめている。 これが『永遠』です。)

(*2: 仏の『芥子(けし)の実の話』を読んでみてください。)


さて、対立する二極間を如何にして一つにするのでしょうか。 例えば、上記の仏のように如何にして嫌いな人を貴方様の思考の中から消せるのでしょうか。 前にも書きましたが『我々はこの世界に居るのだが、この世界の者ではない(*1)』を思い出してください。 我々の本体(本来の面目)と言うものは仏のようにもっと高いレベルのものです。 貴方様が心から迷いと煩悩から救われたいと願っているのであれば、まずは般若心経が唱えているようにこの世界を否定して、では何だと想い、この則の名のない僧のように何時は『如何なるか是れ提婆宗』として『如何なるか是れ「私(真心)」』と聞けるようなレベルに達して戴き、この『銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る』の答えを出してみてください。 『空』の真心とは『安心(あんじん)』であり『永遠(*2)』の世界にあります(*3)。 

(*1: 『私は私の感情ではなく、思考でもなく、体でもない』。

(*2: 無限はまだ時間内ですが永遠は時間外です。 永遠は時間の始まる前から有り、時間が終わった後でも存在するもので時間に作用されません。)

(*3: 『空』とはなにもからっぽになると言うだけの事ではありません。 それよりもっと奥が深いです。)


合掌


後書き

雪は溶けて消える(無常)が、お椀は残る(常住)と言う事ではなく、お椀と雪の両方が消滅した自分、その自分と言う心が消滅した処の『真心』で、無常も常住もない処の『永遠』です。