無門関第30則 『即心即仏』と無門関第33則 『非心非仏』 | 岐鑑の悟りブログ

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無門関第30則 『即心即仏』と無門関第33則 『非心非仏』


無門関第30則 『即心即仏』

本文

大梅(だいばい)が馬祖和尚に問う。

『如何なるか是れ仏』。

馬祖云く、『即心即仏』。


次の無門和尚の文章は省略して、最後の言葉を書きます。 

『…即心即仏と説くを見て、耳をおおうて便ち走らん』。


無門関第33則 『非心非仏』

本文

僧が馬祖和尚に問う。

『如何なるか是れ仏』。 

馬祖云く、『非心非仏』。


無門和尚云く、

『もしここの処を見得出来れば参学は終わりなり』。


解釈

これらの二則は短文で馬祖和尚が出て来て答えています。 簡単で分かりやすいと思いきや、特に先に書いた無門関第29則の無門和尚の『心が動くものでもない(不是心動)』と矛盾しているようで理解に困ります。 ここら辺が無門関を甘くみてはいけない処ですね。 29則では『心が動くものでもない』と書いておいて、ここでは『心が仏』だと書き、次の則では『心でも仏でもない』と書いているので、これら三則を理解するには難しいと思われます。 特にこれら二則は同じ質問が馬祖和尚に対して出されており、和尚側はそれらに対して二つ違う答えを出しています。 これらをどう纏めれば良いのでしょうか。


禅的に言えば、『即心即仏』も『非心非仏』も誰もが納得する答えだと思います。 しかし、やはり『禅』ですからこれらの答えの奥深い処があると感じ取れます。 私は、ここでは『即』と『非”』の違いは何だと言う解釈はしません。 先の『風』と『幡』のような討論になりかねないからです。


とにかく禅や仏教では、『仏』とか『心』とか『無』とか『空』とかよく言われたり書かれてある事は皆様もご存知のところです。 ですが、これらは手に取ったり目で見たりして、『これだ』として絶対肯定出来るものではありません(愛もそうですが)。 例えば『心』とは何処にあるのでしょうか。 頭脳の中、身体の中なのか、でもこれはどれを追求しても誰もが分からない事です。 しかし、我々の意識内または心の中では何かモヤモヤしたものがあり、分からないようだが、何かうっすらと感じられるものが有る。 我々の身近なものでその表れが強いのは愛だと思います。 愛は抽象的で個人的にその定義と言うか意味が違っていますが、それでも何か愛と言うものを感じ持っている。 では、これを『心』と言うのでしょうか。 さらに進んで、趙州の無の『無』とはいったい何でしょうか。 また達磨の『不識(知らん)』とは何を意味するのでしょうか。 一休さんの『暗闇に泣かぬカラスの声』とは何の声でしょうか。 


この無門関の二則は、簡単なようで本来は禅の真髄とは何ぞやと聞いています(*)。 ですから無門関は第一則からみくびっては落とし穴にはまるので気を付けなければなりません。 

(*: 『もしここの処を見得出来れば参学は終わりなり』。)


では『真髄』とは何でしょうか。 これは第一に言葉では表せない処に在ります。 よって、『仏』だとか『心』だとかの言葉を捨てるべきです。 ここで『捨てる』とは『取り付かれない』と言う事です。 『仏とは何ぞや』と思っている内はまだ駆け出しの雲水です。 般若心経が唱えるようにまずは全てを無として捨ててみる、そして、それではどうなるのか、何が残るのか、何も残らないのか、無として言葉では表せない体験とはどうのようなものなのか、これらを追求してください。   


鈴木大拙は『無心』の本の中で『心非心』と『心無心』言う言葉を使って導いています。 『心は心にあらず、だからこれ心なり』で、『そうでないから、そうだ』と言った処です。 ですが、この『これ心なり』で肯定された『心』と『心は心にあらず』の『心』とはまったく違ったものです。 『これ心なり』の『心』とは心は心ではないと知った(悟った)『心』で開けております。 大拙の言う『無心』としての『心(心無心)』です。 


この『無心』は見たり聞いたいしての五感と意識(六識)が働いても、それらに囚われないから却って『無心』自体を知覚して、この『無心の知覚』は無心である故『有心』ではなく、そのままとして、『ただ』知覚している境地にての『無心』であり、対立が無く、無罣礙(むけいげ)であるから生とか死とかの概念は寂滅されているのです。


ですから趙州の『無』は『寂滅』であり、達磨の『不識(知らん)』は『無罣礙(むけいげ)』であり、一休さんの『カラスの声』は先に書いた雲門和尚の『是れ第幾機(だいいくき)ぞ』と私は解釈いたします。 


さて、ここまで書いて来ましたが上記だけではまだ不十分です、が後は皆様方次第ですのでご了承してくださいませ。 『寂滅』とは道元の『身心脱落、脱落身心』と同じですが、これらは言葉上の事で、『では何だ』とは説明不可能です。 この『寂滅』または『脱落』の中に全てがあります。 『無心』はそれに入る前の『心』です。 入ると、この『心』も寂滅しますのでもう説明出来ません。 しかし、これを体得すると『真心と言う真の無心』となります。 こうなるとただ坐禅するのみです。 白隠の『寂滅現前するゆえに』て悟ってみてください。 


『如何なるか是れ仏』と聞かれた時、私としては倶胝和尚のように無言で『指、一本』を挙げる事でしょう。 


合掌


後書き

我々の心の中の奥深くには人間である以上言葉では表せない『何か』があります。 この『何か』を時々でもよいですから清い気持ちで保っていただき生活する事が我々一般人が悟れる近道です。