悟りとは その109 『愛と死』
文学者と科学者が討論している
文学者が話しを始めた
『科学はいつも間違っている』
『科学は問題を解決する事はない』
『何故なら、一つ解決するたびに十個の問題がさらに生じるからだ』
『そうだろう』
科学者は答えた
『それは認めます』
『科学と言うものは、一つの発見で問題が解決されたその直後に無知と言う円周が得られた知識より広がるのです』
『切りがない事ですが、それだから面白いんです』
『また、我々には全てを解決する意思はないです』
『提示された問題を一つ一つ、観察と方程式の両方の道理が合えばよいのです』
文学者は言った
『方程式の右と左が合えばいいと言ったところだね』
『では、君は神の存在を認めているのか聞きたい』
科学者が言った
『それは、私は科学者だから神が現象として現れれば科学的に研究するまでで、もし意識的なものであれば、精神医学的に研究するのが正しいでしょうが、私はその分野のものではないので答えは分からないだろうと思います』
文学者が言った
『私が今聞いたのは、君の心の事で科学的見解を聞きたかったのではない』
『君は神を信じているのかね』
科学者が少し困ったような顔をして答えた
『先ほどもお伝えしたように、科学の発見により無知が広まるのです』
『科学者として神を探求しても無知が広まるばかりですから、私は無知である以上信じると言う事には関わりを持たないのです』
科学者はさらに言った
『あえて、私の信仰は何だと聞かれれば、それは確率だと言うしかないでしょう』
『科学的に言えば蓋然性(がいぜんせい)です』
『例えば明日、太陽が99.99%以上の確率で上がって朝になればそれでよいのです』
文学者が言った
『死は100%確実なものだ』
『それが君の信仰かね』
科学者が言った
『いや、信仰と言うよりは事実ですね』
『しかし、先ほど申し上げたように、確率と言っても残りの0.01%は不確定でこれを無明と言っても良いと思います』
『我々は死に対しては無明ですので、科学的に100%証明出来ません』
『実際に死とは何でしょうか』
『確実な定義があるかどうかです』
文学者が言った
『少し哲学的になって来たな』
『私も年を取って来たので死に付いてよく考えるようになった』
『私はよく思うのだが、死と言う実体が君の言うように100%に近い確率で存在するから我々は死を経験するのか、それとも我々には死と言うものがあると思って幻想的に感じているからだろうか、どちらだろう』
『また、我々の人生はすでに決まっているのだろうか、それとも自由な意識が導いているのだろうか、どちらだろう』
科学者が言った
『難しいですが、でも同じような事が愛にも言えますね』
文学者が言った
『あぁそうだな』
『愛の定義は難しいが、愛を知れば死も知れると言ったところだ』
科学者が言った
『そうですね』
『愛と言う科学ではとうてい定義付けられない抽象的なものが分かれば、死と言う確率性の高いものが分かる』
『我々は生きては愛を学び、死によってそれを満していると思います』
『しかし、死んだと言っても愛の終わりではない』
文学者が言った
『そう、そうだよ君』
『私も同じ考えだ』
『愛は始めからあるんだ』
『何も探すものではない』
科学者が言った
『我々の居るこの世界は、時間を含めて四次元の世界で、我々は時間と空間に作用されますが、愛はそうではなくもっと自由ですね』
『愛は時間と空間を超えたところにあり、さっき言った確率性としては存在していないですね』
文学者が言った
『君、愛が確率性ではないのであれば、死の確率性も虚証になるではないのか』
科学者が言った
『もし死も四次元を超えているようなものであれば、そう言う道理になりますね』
『そうすると死が虚証で死が無いと言うのであれば、生も虚証と言う事になります』
『死が無く、生も無い』
『そんな世界があるのでしょうか』
文学者がしばらく考えて言った
『そうだな、私には分からないが多分愛が教えてくれると信じる事にしよう』
科学者が言った
『そうですね、私も愛を信じる事にしましょう』
二人の目の中には、もう他界した妻達の思い出が湧き出ていた
自分にとって愛とは何であったか
また
これからも
死ぬまでに
愛を満たす事が出来るのであろうか
色々な感情が走り
彼らの目からは
一粒の涙が
流れていた
後書き
無門関第29則 『非風非幡』