無門関第29則 非風非幡(風に非ず、幡に非ず) | 岐鑑の悟りブログ

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無門関第29則 非風非幡(風に非ず、幡に非ず)


本文

六祖(慧能)は、ある時法座を告げる刹幡(せっぱん)が上がっている所で二人の僧が討論しており、一人は『幡が動いている』と言い、 もう一人は『風が吹いているからだ』とお互いが言い張り決着がつかないのを見て言った、『風が動くものでもなく、また幡が動くものでもない。 お前らの心が動いているのみだ』。 これを聞いた二人の僧はゾッとした。


刹幡: 寺で説法をする印として揚げる幡


解釈

この則、公案としは簡単な方ですね。 これが無門関の落とし穴です。 無門関より碧巌録の公案の方が難しいと言う概念は捨てるべきです。 この簡単なやりとりは哲学的にも科学的にも深い境域と境地に入る討論です。 この則、六祖の言うように『心が動いているのみだ』として簡単に終われるのでしょうか。 無門和尚は『風が動くのでも、幡が動くのでもない。 ましてや心が動くものでもない(*1)』と書いています。 また、『頌』には『不学話堕(*2)』とあり『自分の述べた言葉自体が破綻を露呈する』と書かれてあります。 こう書かれては、では言葉では駄目なら、じゃあどうすれば良いのかと言う素朴な疑問が起こりますね。 

(*1: 『不是風動、不是幡動、不是心動』。 下記の後書き参照。)

(*2: 『不学話堕』。 話す事自体が無知になる。)


この則は、私の先月の帰国で賢島のホテルの窓から英虞湾を見た時の風と波と同じですね。 『風と幡』また『風と波』の因果関係をどのように『観る』のが正しいのでしょうか。 


私の先生(*)が教えてくれた最初のレッスンは、部屋の中の何でもいいから、その物を決めたらそれを暫く見続けなさいと言われた事でした。 さらに、その見ている中で実際に『何が動いているのか』と言うのが彼女の質問でした。 彼女はインド生まれの人ですが、何とも禅的な事を言うんだなぁとその時思いました。

(*: 私の先生は疾病にて2回も死に損なっており、9歳頃には強姦に襲われ、15歳で家を出て、その後一人で世界中を旅回っており、インドでは多数のグルに指示を受けて、荒修行としては南アフリカのジャングルの中にて、土の中に頭以外は体全体を二日間埋められて彼女の精神力を試しています。 アメリカではスピリチュアル指導者として知られており、マイケルジャクソンの生前には彼にも精神的な教えを教授していました。 一般が今でも知らない隠れたガールフレンドでした。 彼女は私と同じくアリゾナにいます。) 


しばらくして、先生が『分かったか』と質問しましたので公案に出てくる名のない僧のように私は『分かりません』と答えました。 それでこの則の六祖のように、彼女は親切にも半分の答えとして『貴方の思考が動いているだけでしょ』と覚らせてくれました。 部屋の中の一切の物は動いていないのに、自分の意識だけが見ている物に対してああだこうだと思考が走り回って落ち着きがない、集中しているようで集中していない。 これが我々が普通に幡また波を『見る(*)』と言う事です。 ですから『どちらが動いているのか』と言う単純な討論になってしまいます。 

(*: 見る者が観られていると覚り転身する。 この意識が出れば、見る者と観られている者とが融合している自分を悟る、両鏡、相交わる。)


それでは『風が動いている』としましょう。 これは当たり前のような答えですね。 現象としては正しいのですが、『どうして動いている』を追求すると空気があるから風がある、でもどうして空気が動くのかと言うと温度の差がある、ではどうして温度の差があるかと言うと太陽があるから、太陽があるからとは宇宙があるからとなって果てしない追求になってしまいます。 


『幡自体が動いている』として、それは絶対に不可能だと思っても、特に現代科学、素粒子力学ではその不可能性を絶対肯定出来ません。 動く確率が少なくともある事を科学上また方程式上否定出来ないからです。  特に科学ではパラダイムシフトが起こり、例えばニュートンの万有引力の方程式からアインシュタインの特殊相対性理論となり『現実(*))』の見方が時代によって変わって行きます。 今では重力、電磁相互作用、強い相互作用、弱い相互作用のまったく違った作用を統一しようとする『大統一理論』が現在科学の最先端になっていて超弦理論などが提案されています。 

(*: 『現在』と言う時間が現実なのでしょうか。 それとも『時間』自体が幻想なのでしょうか。 色々と科学的また哲学的な理論が生まれて来ます。)


この『大統一理論』は精神性では『一如』の『一の如く』と言ってよいのではと私は思います。 全てを『一』に帰化させる。 ですから『風が動く』と『幡が動く』と言う思考を『一つ』にした処。 風と幡、風と波の因果関係が無くなった処。 風とか幡とか波などの思考を無くした処。 答えとしては『どちらでもない(neither)』処です(*)。

(*: 鈴木大拙、『無心』から。 『心があり、情があり、意があると思いますが、そのもとを、もう少し推し進めてみると、やはり木や石などを木たらしめ石たらしめるところの、何か無意識的なものに突き当たるのです。 そこに絶対的受動性と言うようなところがある』。)


そう言う『処』では『心』は動かないのです。 無門和尚の言う『不是心動』です。 この境地は『涼風颯颯(さつさつ)たり』で爽やかであり、鈴木大拙の好んだ言葉の『浄躶躶(じょうらら)、赤灑灑(しゃくしゃしゃ)(*)』であり、我々が最初から持っている本来の『心』を『観』て体得して行く。 こうなって来ると『融通無礙(ゆうずうむげ)』として何に対してもハードルとか障害がなく自由に伸び伸びとなり揺るぎない『本来の自分(本来の面目)』を体得出来る。 私としてはこう言う事を『不動』としています。 

(*: 浄躶躶、赤灑灑。 きれいさっぱり洗い流し何もない本来の心)


六祖(慧能)和尚は、私の先生と同じく親切な人ですね。 初心者はここから始めなさいと『お前らの心が動いているのじゃ』とうながしています。 読者の皆様も初心者であればここから始めてくださいませ。

合掌


後書き

この則では心が動かないですが、無門関第30則と33則にある『即心』と『非心』はどう言う事でしょうか。 この二つは矛盾しているように思われますが。 そして『非心』であれば最初から心が動くとか動かないと言う教えの必要性はないと思われますが。 また『無心』とはどう言う事なのでしょうか。 付け足して、『無心』を『心無心』とした場合は如何に、です。 無門関第30則と33則に続く。


鈴木大拙 『無心』から

『実際のところは、いくら研究を進めても今日に至っても、なお身体というものがあるのか、心というものがあるのか、その本当のところが、十分に解決がつかないのです。 ある人は身体だけだ、身体から心が出て来るのだと言う。 ある人はそれと全く反対なことを言う。 またある人はどっちでもないと言う』。