2022.1.31更新
◎明治時代の養蜂ハンドブック
図書館でおもしろい本を見つけたので紹介します。
農山漁村文化協会が1983年に発行した『明治農書全集 第9巻』(田島弥平ほか著、吉武成美編/初出は1896〈明治29〉年)です。
輸出品の花形として明治政府を支えた生糸、新技術が導入されたばかりの養蜂、そして内陸部の大切なタンパク源である淡水養殖(鯉魚)に関する実務書が復刻され、注と解説が付されています。
出典:農山漁村文化協会『明治農書全集 第9巻』トビラと「蜜蜂」の項
「養蜂」は42ページほどの小冊子で、セイヨウミツバチを用いた養蜂について書かれています。
これを書いたのは青柳浩次郎氏という大養蜂家で、「蜂狂」と呼ばれるほどミツバチに熱中した人とのこと。
ミツバチの性質から巣脾の性質、分封(分蜂)をはじめとする生活サイクル、巣箱を置く環境、巣箱の構造、採蜜およびミツロウの作り方に加え、2つの弱小群を1つにまとめる方法や、巣箱の運搬方法(小包!)、ミツバチの病気などについて言及しています。
◎現代と変わらない方法
内容を見ると、現在の養蜂とほぼ変らないことに驚きます。
基本事項である「蜜が貯まれば採る」「蜜源が少ないときは給餌をする」「分封をコントロールする」は、今の養蜂と同じ。セイヨウミツバチの性質や生態についても、現在耳にする内容と遜色ないようです。
養蜂は、古代から近代(ラングストロス氏による巣枠式巣箱の開発)まで1000年以上同じ方法だったと聞きますが、近代から現代にかけてもほぼ変わっていないようです。
考えてみれば、やるとことは原則として数10センチ四方の「家」を用意して「環境を整備」するだけ。食事も繁殖も放っておけば勝手にやってくれる養蜂は、他の家畜に比べてまったく手間がかかりません。
本文は、研究熱心さと近代養蜂普及への熱意が伝わってくる文章です。
当時の大仰(に見える)な文章が面白かったので、いくつか抜き出してみます。
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・余は蜂蜜飼養の利益あるを知る。またわが邦養蜂術のはなはだ拙なるを知る。(p373)
・蜜蜂を養うがごときは最もよき副業にして(p377)
・農家の副産物としてこの上もなきよき仕事になりとす。(p378)
・王台中の卵孵化するときは働き蜂は多くの濃厚にして白色なる食物、すなわち一種特別の調合物をもってこれを養う。(p380-381/=ローヤルゼリーですね)
・人為をもって働き蜂房の卵を王台の中に移し入るるも、同じく蜂王となりて生出するは余のしばしば観察するところなり(p381)
・巣箱を赤、青、黄等いろいろの色に塗り分け、同じき色相接近せざるよう配置し、蜂をしてよくおのが巣を弁識せしむるようなすときは、なおよほど接近するもよしとす。(p387)
・わが邦従来の蜜蜂の巣箱なるものは酒の明き樽、あるいはみかん箱などを用い、または新たに蜜蜂巣箱なるものを製するも、ただに粗き板に打ち付けて粗末なる箱を製するに過ぎざりし。(p387-388)
・巣箱を製する木材は臭気少なくして外気に感じやすからざるものを選むべし。すなわち杉材等をよろしとす。(p391)
・蜂怒りて来るも決してにぐるべからず、掃うべからず。蜂来りて多く手または顔に止まるも、不愉快の念を起こすべからず。蜂の自然に任するときは蜂は螫すことなくして去るものなり。すなわち蜂をして人の躰をもって木か石かのごとく思わしめ、おのれを害するものにあらずとの観念を抱かしむるなり。(p392)
・巣椢を取り出し、巣の中を検査するときは最も注意して蜂を圧死せしむることなきようすべし。(p392/今と同じ!)
・蜂群の女王を失いたるときは大いに悲哀の状を呈し(p394/めちゃくちゃ悲しそう)
・從来わが国蜂蜜を採取する法は、一年一回秋季蜂の全群を殺して巣脾を悉皆取り去るか、あるいは全巣脾の三分の一くらいを取りて余をもって冬季の食料に供す。(p395)
・蜂群の弱小なるは大いに不利益なるものなれば、養蜂家はつとめて蜂群をして盛んならしむべし。(p399/これも同じ)
・イタリア蜂は遠慮なく日本蜂の巣箱に侵入して蜜を横奪するに至り、日本蜂はとうていイタリア蜂を防ぎ得ざるなり。(p402/切実)
・小包郵便にて蜂を運搬するは早春にあらざれば失敗すること多し。(p403/これ、今も郵送してる人いた気がする)
・なかんずく最も大害をなすものはとち虫とす。(p406/=スムシのこと。その通りだよ…)
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※漢字は本文ママ。
長くなりましたが、雰囲気が伝わったと思います。
蜂に刺されないためには自分を木や石だと思わせること、点検するときはミツバチを圧死させないよう気をつけること、スムシ被害の大変さなど、今読んでも納得してしまいます。
また、当時はミツバチに関する正しい知識を持たない人も一定数いたようで、ミツバチの吸蜜は植物に悪影響を与えることはなく、むしろ受粉を促すよい存在であることも述べられています(p408)。面白いですねー。
ひとつわからなかったのは、ここでは分蜂の際に老いた女王蜂が新しく生まれた女王蜂に負けて外に出て行く、と書かれていることです。
古い女王蜂が出て行くことはよく聞きますが、それは新女王と戦って負けた結果なのか、もともとそういう性質なのか、どちらなのでしょうか?
◎岐阜が近代養蜂の中心地へ
青柳氏は自ら実験を繰り返し、箱根に養蜂場を開いて事業化に乗り出しますが、有力な蜜源が乏しかったこと、養蜂に不可欠な器具の政策に無関心だったため、うまくいかなかったようです(p415)。
一方で岐阜では渡辺寛(渡辺養蜂場の創業者)を中心に養蜂が始められ、種子レンゲの本場だったことから予想外の成功をおさめたそうです。それを機に岐阜県が養蜂のメッカとなっていきました。
◎旧式養蜂から近代養蜂へ
解題(解説)をみると、政府の動きとして、
明治10(1877)年:
勧農局農業試験場(現在の新宿御苑)で養蜂試験。
アメリカからイタリアン種を輸入してニホンミツバチと比較。
明治16(1883)年:
文部省が百科全書の一冊として『蜜蜂編』(坪井為春訳)を出版。
それを受けて、市政としては、
明治22(1889)年:
アメリカ留学で刺激を受けた玉利喜蔵(のちに農学博士)が『養蜂改良説』を著す。
アメリカの技術をニホンミツバチに応用することを狙う。
明治29(1896)年:
近代養蜂に特化した本書が出版される。
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…という動きがあったようです(p414-415)。
玉利氏の著作は農村青年の養蜂熱を大いに鼓舞しましたが、ニホンミツバチを採用したものだったので採蜜成績はあまり上がらなかったとのこと(p416)。
それに対し、自ら実験を繰り返し実践した青柳氏は、種蜂をヨーロッパ産に切り替えました(p415)。この本は語句が平易な上に説明も簡潔でわかりやすいため、当時の養蜂チャレンジャーたちにさぞ重宝されたことだろうと思います。
ちなみに、明治9(1876)年版の『蜂蜜一覧』(「教草」シリーズの1つ)では、出雲で継箱式の養蜂が行われていたことが書かれているそうで(p412)、明治初期には独自に発達した旧式養蜂が行われていたことが伺われます。明治期の養蜂は他の産業と同様、西洋の近代的な知見がいっきに日本に流入し、試行錯誤されていった時代なんですねー。それに携わっていた人たちはめちゃくちゃ面白かっただろうな。
◎旧式養蜂が改良され、現代に復活
解題を担当している渡辺孝氏のプロフィールは記載されていませんが、おそらく渡辺養蜂場(岐阜市・明治33年創業)の2代目の方かと思われます。
彼は解題で、江戸時代には高度な発達をみせていた日本の伝統的養蜂技術が棄て去られ、近代養蜂のみに焦点が当たっていることを残念がっています(p412-413)。
とはいえ、現在は伝統的な巣箱を改良した重箱式巣箱が各地でつくられ、ニホンミツバチを活用した趣味養蜂が盛んに行われています。健康志向や環境保全をきっかけに、原点回帰している状況かもしれません。
◎余談:ニホンミツバチに巣枠式を採用しようとして失敗した理由は?
今でもニホンミツバチを巣枠式巣箱でできないか試行錯誤されていますし、それが難しいというのもよく聞きます。明治時代にニホンミツバチに巣枠式を採用しようとした際、どんな実験をして、どううまくいかなかったのかなぁと思い探してみたところ、ありました!『養蜂改良説』という本です。
【参考資料】
・農山漁村文化協会, 1983『明治農書全集 第9巻』「蜜蜂」pp.369-419