2022.1.31更新

 

玉利喜造『増補 養蜂改良説』第五版, 1912(明治45),有隣堂書店
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083965

 

◎注

・これは 前 中 後 のうちの〈後〉です。

・注記は〈前〉をご参照ください。

 
以下本文。
 ↓
 
 外編

私は前二編で養蜂者の心得となるべき要領をすでに書いたので、今日の我が国の養蜂の状況については前編の知識で充分であると考える。しかしこれを試みようと思うと、実地にのぞんで躊躇することが多いだろう。あるいは、本当にこれが正しいのかと疑う【百六頁】点が少なくない。これをもって、私は実地で経験したことを記述して養蜂改良家の参考に提供しようと考える。これはいささか蛇足に似ているとはいえ、機に臨んで事を行うのは実地の話を聞くことに及ぶものはないからである。
養蜂試験は昨二十一年から始め、本年は第二年目である。私は先年米国に留学して養蜂の学問と実地の管理方法は充分修得したとはいえ、本邦在来の蜂種については未だに経験がなく、我が養蜂に関して改良説を唱えるのも未経験のことであるので、これを実地で試みてその結果をあげ、後にこれを世に公にしようと決定し、ここに試験に着手することになった。此の試験はなるたけ秘密にして、他に示すことを好まない。なぜならば、私の改良法に関する学理および管理法は、新奇であり【百七頁】人が感動するものが多いので、新奇を好む人の人情により未熟にも私の説を見聞きして、これを実地で試み、またはこれを唱道して他の失敗をして、後日改良の妨害をなることを恐るからである。なので本年になって我が蜂種の性質をつまびらかにし、かつ期待していたように蜂蜜を採収する目的が立ったので、ここに改良説を唱えるにいたった。

 二十一年の結果

昨二十一年二月、甲州から二個の種巣を得た。此の二個はともに六つ割の酒樽で営んでいるものであり、途中は人夫を雇って運搬させた。駒場に着くとすぐに、雨覆いがある適宜な場所ががなかったため、四月中旬に新しく養蜂場を設けるまでは彼所此所と前後三回位地を転換した。なぜなら、巣樽のムシロ【百八頁】が緩んで雨水が侵入する恐れがあったからである。三月下旬、暖気を催して蜂が起動したのか、此の頃は食物を与えて二群ともに飼養した。ときどき玻璃障内(ガラス障子の内?)にあるとき、甲乙ともに飼養器と巣門の間隙から蜂がおびただしく散飛して、玻璃障(?)に触れて斃死したこともある。これは玻璃障(?)を閉じて蜂の出入りを自由にさせたことによって起こった失策である。ただ、蜂の出入りを自由にしなければ、全群が飛散するおそれがあったからである。此の時、考えるにもし蜂が巣門を出入りするものとするなら、玻璃障(?)を充分に開くか、もしくは玻璃障(?)のようなものがないところで飼養し、彼らの外遊を自由にすべきであった。その後わけあってこれを製茶室に移し、連字窓(木・竹などの細い材を一定の間隔を置いて取り付けた窓)を開き、蜂の外遊を自由にした。その巣門はわずかに働き蜂が出入りするだけの間隙を与えた。これは、蜂王をとどめてその飛散を予【百九頁】防するものである。なぜならば、しばしば蜂を騒乱させたり位地を変えたりして、蜂が不安穏になるために、飛散しようと考えることを恐れるからである。四月初旬の頃、一日温暖で乙巣の蜂が非常に出遊したが、此の時蜂王がともに飛散したかもしれない。この後、乙巣の蜂が大幅に減り、作業を停止したかのようであった。これに反して、甲巣は日に日に活発に労働し、四月二十四日に甲巣(すなわち樽)を開いて点検したところ、小虫がさかんに生育していた。なので例によって巣脾を切り取り、巣脾框に入れて径二、三分の篠竹で厳狭(?)し、巣箱に入れて、ようやく蜂王を捕えて一方の翅を半分切断し、残りの蜂群とともに改良巣箱内に移した。その後の蜂の労働は順当であり、ますます繁殖する勢いである。なので追々巣礎を装附した巣脾框を加入させた。しかし乙箱は蜂の【百十頁】出入りが非常に少なく、軽く、先の蜂群飛雄のときに王もともに飛散してしまったと察せられる。五月初旬にこれを開いて見たところ、まったく虚空でわずかに二、三十匹の働き蜂が残るのみであった。よって、本年は一個の種巣で飼養し、なるたけ多く分封させることを希望するものである。
五月中旬、すでに十一枚の巣脾を入れ、蜂は大変よく労働している。六月初旬、信州よりひとつの蜂王を得たので、新たに一巣箱を出して甲箱から四枚の巣脾およびこれに附着する働き蜂を此れに移し、蜂王は王籠の中に入れて巣脾の間に挟み、三日間、働き蜂になれさせ、しかる後これを放った。これを乙箱とする。此の際、誤って蜂王の胸部を指端で圧っしてしまったが、別に死ぬようなことはなかった。この後八日がたち、乙巣の門前で【百十一頁】此の蜂王が死んでいた。なので蜂箱を開いて見ると、最も活発な新蜂王が豪然と這行していた。そこで詳しく点検すると、なお他に三個の王台があり、すでに破壊されていた。これは、先に甲箱から移した巣脾に王台があることに気づかず、このようになったものである。蜂王が斃れたのは、此の新蜂王の蟄殺にあったことを知った。これより前、六月十一日に甲箱にできた王台二個を切り取り、これを金網箱に入れて甲箱内に置き、数日、すなわち十六日にこれを点検したところ、籠中の両王台ともに王が出て、一つは死に、一つは活発であった。なので三枚の巣脾と此の蜂王は丙箱に移し、なお残りの巣脾を点検すると、老蜂王のほかに一匹の新蜂王がいた。此の新蜂王を甲箱に残し、老蜂王は同じく甲箱から三枚の巣脾をわけてこれを丁箱に移した。これは【百十二頁】みな人工分巣のやり方による。これで四個の蜂群となった。そのうち三箱は未妊の蜂王である。翌十七日、養蜂場を巡視すると、丁箱の門前に昨日移した老蜂王が斃れているのを見つけた。その箱を開いて見ると、新蜂王がいる。すなわちこれが刺殺にかかったことを知った。なお、他に王台の破壊されたものがある。これは私の不注意によって起ったことで、これで四箱とも新蜂王の所領となった。しかし私は四箱の活発な新蜂王を得てずいぶん満足した。これから二、三日を経て、四箱の蜂王はみな失踪した。ただし巣内には働き蜂がなお残っているので、私は蜂王が後尾のため外出したのであり、決して飛遁したのではないと確信した。しかし二、三日たってもなお帰らず、そのうちまた新蜂王が出たものもあるが、此の新蜂王もまた続いて失踪【百十三頁】してしまった。これは実に意想外の結果である。その後はみなしばらく無蜂王の巣となり、ついに働き蜂が産卵するようになった。しかしなお蜂群は滅びないものがあるので、七月初旬に信州から二個の蜂王を得て、これを放人したが、最早や盛暑となり草花もにわかに減り、加えて蜂数が多くはなかったので、蜂王が産卵することはなかった。その中、甲蜂は日に三、四個産んだが、乙はまったく産まない。そのためついに働き蜂の刺殺にあってしまった。ここにおいて甲群一箱が残ったが、種々の害敵が自由に巣内に出入りし、ほとんど困難な境遇にいたった。蜂数が減るにしたがい黒蟻も入り、蜜を奪収するだけでなく、蜂を争闘してこれを殺し、ことに地蜂のごときは蟻蛆を房内から引き出して、【百十四頁】そうすると相撃の間に蜜蜂も戦死し、数が減ってもはや救済することができない状態になってしまった。九月上旬から人工飼養を行い、中旬には秋蕎麦のよい時期になったが、このような状態であるので外に出て花蜜を集める蜂はなく、わずかに四十余の働き蜂を残していた。此の時二、三の働き蜂は繁殖したが、ついに熊蜂の侵入を受け、巣脾を食い破り蜜蜂を追い出して乱暴が最もはなはだしくなった。此の時からにわかに蜂数が減り、わずかに十余匹にいたる。十月中旬、寒冷のため蜂王はついに斃死した。ただしこの蜂王は翅を切断しているので、このような困厄にあっても巣内に留まっていたものである。このように、昨年の試験ははじめはよく繁殖したが、中頃に未妊の蜂王の失踪により、続いて蜂王を入れたが草花が欠乏したため、すなわち飢饉のために蜂群は繁殖せず、ついに不結果を呈したもので【百十五頁】ある。蜂王一匹ではなくみなことごとく失踪したのは、実に怪訝であるといっても、私は未妊蜂王が交接のため外出したため此の変異が起こったのだと信じる。なぜならば他の働き蜂は巣内に留在していたからである。その原因を考えると、当校内および近傍には先年来数万の雀群が繁殖し、蜂王が出遊した頃には巣を構え、雛を生育する真っ最中であったので、蜂王が雀に捕らえられてしまったのだろう。または、養蜂場に黒蟻が多く、蜂王が帰巣するさい地上に落ち、黒蟻に捕らえられたのだろうか。未だ明らかにすることができない。よって私の養蜂教師である米国「ミチガン」農学校教授「コックス」氏に問い合わせたところ、蜂王の失踪は疑いなく交接のため出遊したときに起ったものである、貴問のように雀や黒蟻もその害敵であるといえど、甲乙の巣箱が接近していたので蜂王が帰路に迷【百十六頁】って他の巣に入ったため、殺害されたということもある、君は巣箱を接近していなかったか、との返事を得た。しかし私の配置した両巣の距離はおよそ三、四間(≒5.5〜7m強)あり、該国(?)で配置したもの、あるいはへだたっているため、巣箱の近接についてはいまだに私の疑団を解くことはできていない。

 二十二年の結果

本年の養蜂行事はいまだにまったく集結していないが、すでにその七分を経過し、重要な業務はおおむね結了したので、その試験の成績を報告する。昨年の結果は前述のようにすべての種蜂を失ったので、本年は更に甲州に注文して二月十五日に二箱を得た。今回の分はみな箱で各々四貫五百目(≒17kg)内外の重量がある。昨年は増殖を優先したが、本年は甲箱を【百十七頁】おもに採蜜の試験に使い、乙箱で自然分封の状況を研究しようと取り決めた。三月初旬の暖日には蜂は梅花に集い、中旬には杉花から花粉を盛んに集めている。三月下旬には追々アブラナの花が開き、蜂はこれに集まる。四月六日、蜂がいよいよ強壮となったので、甲箱を開いてこれを転換巣箱に移し、同時に蜂王の翅を切断した。しかし乙箱はそのまま固定巣箱にある。四月十八日、この頃は菜の花の真っ盛りであり、甲箱は蜜がすでに充溢している。此の頃は木苺があり、二十日に蜂蜜を得るために甲箱に継箱を載せた。此の時すでに二、三の雄蜂が出生しているのを見た。そのため蜂王の生育に着手するのが近いと知った。翌二十一日、これを点検して王台の礎を発見したが、いまだに産卵はない。二十四日になっても産卵せず。これより前に三週ほど、ほとん【百十八頁】ど毎日降雨があったため、蜂の労働を妨げ、貯蜜も過半を消費した。二十七日、なお二個の王台が増築された。しかし未だに産卵はない。
五月一日、両三日前から雄蜂が乙巣の門を出入りしているのを見た。三日午前十一時になり、第一の分封が行われた。それが蠢団になるのを待ち、これをザルに移し、転換巣箱に封礎を装附した框を三、四枚入れ、ザルの中の蠢団をその巣門前にひっくり返し、蜂群が残らず巣箱内に移るのをうかがい、巣門を閉鎖した。此の巣箱を丙箱とする。四日、甲箱を点検して王台に産卵してあるのを見つける。五日、丙箱の門を開く。八日、甲箱の産卵した王台が消滅していた。丙箱を点検するとすでに巣房を造営して産卵しているのを見つける。十日、甲箱に二個の王台が新築される。しかしいまだに産卵していない。十一日、丙【百十九頁】箱の蜂王がいよいよ産卵し、かつ第二分封の群蜂をこれに合同するつもりなので、万一にも蜂が飛散しないように、本日丙箱の蜂王を捕えてその翅を切断した。今朝から乙箱、すなわち固定巣箱内に一種の鳴響を聞く。これは第一分封から九日目であり、第二分封の前兆とする。もっとも、前日は雨天でこれを聴かなかったため、あるいは本日分封するかもしれない。よって、十二時頃までその動静を注視した。しかし、ついに分封しなかった。翌十二日、丙箱を巡見すると、巣門の外に匍匐(ほふく)している衆蜂がいる。怪しんで近づきそれを点検すると、巣門の前面地上に十余の働き蜂が団結している。なので、これを巣門のところに移そうと仔細に点検すると、その中に蜂王がいた。思うに、昨日翅を切られたのを不満に思い、ここで飛散しようと試み、このように地上に落ちたものであろう。此の蜂王は巣【百二十頁】に帰った後はよく繁殖した。此の日、予期のように午前十二時二十分前に乙箱から第二の分封が起った。今回は蜂が高く飛翔し、少し荒いため撒水を二、三回行い、ほどなく蠢団をつくった。此の蠢団も前回より高く、地上から一丈(≒3m)位の樹の梢に形成した。これは蜂王が未妊で体が軽いためである。私は此の蜂群を最初の蜂群、すなわち丙箱に合同するつもりであるので、今回は蠢団中の蜂王は除去しない。幸いに蠢団をザルに移すに際に蜂王を見つけたため、直にこれを捕えてその片翅を切断し、残りの蠢団をザルに移そうと百方試みるが、蜂群は此れに移らず、なので前に捕えた蜂王の翅を糸で結び、これをザル底に繋いで蜂群を移すと、わずか一分間でことごとくザル中で集団となった。此の蜂群は仮に転換巣箱に入れておき、翌晩に丙蜂に合同【百二十一頁】させた。十三日は夕七時に、丙箱を昨日分封した蜂群を入れておいた箱の上に載せ、蜂王を繋いだ糸の一端を丙箱に通して蜂王を徐々に丙箱内に引き上げ、ついにこれを箱外に引き出した。これは下箱の蜂群を早く丙箱内に移すためである。このように、下箱の外側を二分ほど打ち叩き、丁箱を点検すると、蜂王が登った方はすべて上に移り、他の一方で小団塊を残していた。よって燻煙してこれを丙箱に追い込んだ。翌日丙箱を点検すると変異はなく、ただ働き蜂の多くが死んでいるのを見ただけである。これはおおかた移入を急速に行ったためである。五月十五日、すなわち第二分封後二日がたち、乙箱から第三分封が起った。今回は蜂群の数が少ないと思ったが、ほとんど第二分封の数と等しい。此のように多数の蜂を分離することが【百二十二頁】重なると、本巣の蜂が大いに少なくなり、以降の作業に不利となる。そのため今回の蜂群はすべて本巣に返すため、それが蠢団になるのを待ってこれを点検して蜂王を捕え、直ちにこれを毒殺した。その残りの蠢団はそのまま放任したところ、およそ三十分間たつと蜂王の不在を知ったのか、すごすごと本巣に復帰するものがあった。ついに一時間余が過ぎてことごとく帰来し、一匹の蜂も巣外にいなくなった。十七日十二時三十分頃、乙巣の蜂がまた分封すると知らせるものがあった。なので臨場して点検すると、分封の初期の兆しがある。およそ三十分後に蜂はことごとく巣に収まったが、巣門の前縁で未熟蜂王が斃れているのを見つける。これが騒乱が起った原因ではないだろうか。およそ分封を二、三回行った後は、蜂数が減りかつ一時に数多くの蜂王が【百二十三頁】出て、または王台を打ち砕いて未熟蜂王を引き出す等の騒乱が起こることを免れない。此の日の午後に雄蜂が高く飛翔するのを雀が追迫してしきりについばむ。およそ五分の間に此所彼所から飛翔して何十匹捕まえたかわからない。これは新蜂王が外遊するところを雄蜂が追従したのではないだろうか。此のような状態では、蜂王のように体格が大きく、挙動が遅緩なものはことごとくこの鳥が捕食してしまうだろう。明らかに昨年の蜂王の失踪もこれが原因だろうと確信するに至った。よって、数々の威し銃を発砲して雀を追い、翌日も連続して発砲した。二十八日、乙箱の蜂は先日来にわかに作業を停止して大変静かである。甲箱を点検すると、四個の王台はすでに房蓋ができ、近いうちに蜂王が生まれる兆しがある。三十日、乙箱の蜂がいよいよ作業を休み、かつ巣箱は大変軽くなっているので、去る【百二十四頁】十七、八日頃に雀害にかかったものと察せられる。なのでその巣を開き、まさに出房しようとする甲箱の王台を移して新たに蜂王を与えようと、ついにこの固定巣箱を開く決心をした。これを点検すると王台が十五ほどもでき、六、七個は正順に出房し、四、五個は破壊され、他の四、五個は造営中に放棄されたようである。巣脾はみな大きいが少しも貯蜜がなく、また産卵もされていない。蜂群を点検して、蜂王を発見する。しかし体が小さく、挙動も軽跳である。これは必ず未妊であると確信したので、これを捕えて糸でその翅を繋ぎ、そして巣脾は切り取って例によって巣脾框にはさみ、これを転換巣箱に入れて蜂群もこれに移し、甲箱から王台を切り取ってその框に膠着させた。此の箱は古いものと同じく乙箱と名付け、当【百二十五頁】所から五、六町(≒550〜660m)の農家の庭前に置いた。これは雀害を避けるためである。三十一日、甲箱から三個の王台を切り取って、二個は金網籠に入れて甲箱の巣脾の間に挟み、その一つはなお乙箱に入れた。此の時、昨日繋いで入れておいた蜂王が糸を噛み切ったのを見つけた。これは働き蜂の所業であり、王の縛を解いたものであろう。ただし蜂王は見つけて直に捕えて毒殺した。
六月一日、乙箱に入れておいた王台から午後出房する。甲箱の籠からはいまだ出てこない。三日、甲箱に入れておいた二箱ともに蜂王が出て死んでいるのを見つける。これは昨日出て以来飢えて死んだものであろうか。乙箱の蜂王は大変活発で、前に入れておいた王台も破壊した。七日、甲箱は最初から蜜を採【百二十六頁】収する目的であるので、みだりに分封して蜂群を減らすのは許されない。なので先日来王台を切り取っているのである。これをもって蜂が充満して数日前から分封熱を起こし、近頃は蜂がよく労働しない。本日は蜜を分離して五百五十匁(≒2kg)を得た。乙箱は新蜂王が多少産卵したのを見つける。校外の地に移したため、雀害を免れ交尾ができただろうと喜ばずにいられない。十日、甲箱の蜂蜜を採収してから作業が活発になり、すでに此の頃は蜜が再び充満した。よって十二日、再び分離して六百匁を得た。此の時、蜂王が正順に出た王台があったので、蜂群を点検して新蜂王を見つけた。老蜂王は巣箱の前面の地中で斃れていた。此の変異は一両日前に起こったものであろう。昨年も同様の失策を二回やってしまったので、本年は注意して王台を除去していたが、また此の失策【百二十七頁】があった。既妊の蜂王で翅を切断したものは注意しなければいけない。ただし、新蜂王が外出しても失踪しない場所では少しも心配することはない。此の甲箱は校外の蜜が少ない場所に移した。これは新蜂王であるからである。十八日、甲箱の蜜が充満したので此の日三回目の蜜を分離し、一貫二百六十匁(≒4.7kg)を得た。すなわち、去る七日からわずかに十一日間で、前後あわせて二貫四百匁である。このようにして、貯蜜が迅速であることから転換巣箱の便益である分離器が必要であると知った。二十二日午後、甲箱の蜂が不穏の知らせがあったが、不在で臨場できなかった。 翌日聞いたところによると、働き蜂が巣門外に蠢団して分封するときのようだった。しかし暫時に巣内に収まった。巣箱の前面二尺の高所にクモの網があり、二、三の蜂はこれにかけられ、またその巣箱を開くと、巣脾の【百二十八頁】間にクモが二箇所に網をはっていた。これは大変怪訝である。なぜかというと甲箱の蜂群は数が多く、最も強盛であるからである。此の日、蜂王を見つけることはなかった。察するに、昨日何か変動があったのだろう。二十四日、丙箱の蜂はよく作業して繁殖が盛んである。甲箱内には蜂王がいないため、丙箱から働き蜂の卵房がある巣脾を切り取ってこれを甲箱に移した。これは差し当たり王台がないため、働き蜂の蛆を入れて蜂王に化生させようという目的であるが、此の目的は画餅に帰した。二十八日にこれを点検したところ、働き蜂が産卵を始め、一房中二、三、甚だしいものでは五個の卵を置いている。甲箱はこの通りであり、乙箱は雄蜂を生み出して蜂王の能なし(?)。ただ今日は丙箱のみが適良であり、またほとんど昨年の結果のようである。
【百二十九頁】七月五日、甲箱は無王であるため校内に持ち帰った。七日一時頃、丙箱から分封が起きたと知らせるものがある。臨場するが蜂はすでに鎮静になった後であった。此の丙箱は五月三日の第一分封の一群であり、本年は此れから再び分封するとは思わなかったため、その蓋を開いて見ると数多くの王台があり、あるものは既に蓋があり、あるものは蓋のないものもあった。よって蜂王は無台の巣脾二枚とともに他の巣箱に移し、なお二、三枚の框を加えて新蜂王の刺撃を被らないように注意した。此の箱は古いものに準じて丙箱と名付ける。幸いに無王の甲箱があるので、これに残りの巣脾の一枚を挿入した。此の巣脾に二個の王台があり、すでに蓋をしている。なお残った衆蜂と王台のある巣脾とはそのまま古箱に置き、これを丁箱とした。ただし丙箱の蜂群は少ないため、これを古い位地に置き、丁箱を二、三間【百三十頁】離れた所に置いたところ、此の箱から外出した蜂はみなことごとく古い位地にある丙箱に帰った。こうして五時間ほどがたち、丙箱の蜂数が加わったのを見て、甲箱とともに遠く校外の地に移した。九日、丙箱の蜂は分封熱を発して大変盛んに、また新しく数個の王台を造営したので、これを壊した。乙箱は雄蜂のみが生まれるため、これは望みがない。十二日、丁箱の蜂王が出房した。丙箱を開いてまた造営された王台を壊す。その後、二、三日ごとに点検をして王台を壊す。七月下旬、酷暑の時期になり分封熱は収まり、王台も造られない。十四日、甲箱の蜂王が出房した。それ以来、本月中は甲丁箱の蜂王の動静に注意し、また丙箱の王台も何度か破った。三十日には甲箱に不規則の産卵があった。これは要するに働き蜂のせいであろうと認めた。しかしその後これを点検する【百三十一頁】と、蜂王が存在した。此の頃、乙箱は蜂王が失踪した。これは、雄蜂のみを産むので働き蜂の刺撃にあったのではないだろうか。
八月五日、丁箱の蜂王が産卵を始めた。しかしいまだに雌雄が何であるかを知ることができなかった。甲箱に臨むとその巣門の前椂で大きなヒキガエルがうずくまり、巣門を出入りする蜂を一つひとつ呑食しているのを見つけた。これを捕えて臓腑を剖き、胃の中を点検すると、六十三匹の完全な蜂とほとんどそれと同数の半ば消化したものがあった。その腸の中にもほとんど消化した蜂体の諸局部が大変多く、これを合わせると二百匹余の蜂を呑食したのだろう。蓋を開いて巣脾を点検すると、蜂王はすでに産卵していた。十三日、甲丁二箱とも卵と蜂蛆が多く、すでに蓋のあるものもある。丙箱も大変健全である。ただ酷暑のため作業をやめ、多くが風を送っている。昨今は【百三十二頁】花蜜が最も稀少になる時期だが、みな相応に貯蜜があり、さほど飢饉を感じない。二十五日、甲丁の二巣を点検すると、いよいよ働き蜂が生み出されて盛んに繁殖する景況がある。実に昨年以来の苦心もその効果を呈し、蜂王消失の予防も行われ、これからは専ら採蜜の目的を遂げようと思う(附言 自分は試験のためにかねて米国へイタリア種蜂を注文しておいたところ、去る二十三日に当地に到着したが、蜂はことごとく斃死し、わずか十余匹が残り、かつ巣は蜂蝶が蟄食してしまい、実に残酷であった。しかし蜂は本邦在来種より長く大きく、体格は強剛で、ほとんど我が蜂王のようである)
 
追加
二十三年は蜂群が相応に繁殖したが、春がきて長雨が続き、養蜂に【百三十三頁】困難になった。その最も緊要な時期は喜造が内国勧業博覧会で審査に従事し、多忙の頃であったため、その監察と管理が充分でなく遺憾であった。採蜜はわずか一回で、四百四十匁を得、ついに三箱の蜂王で越年することになった。その間、米国および小笠原島からイタリア種を得たが、甲は蜂群が弱小でついに繁殖するに至らず王は斃死し、乙は蜂群は大きいが後になって蜂王がいないことを発見し、ともに繁殖するに至らなかったのは遺憾の極みであった。
二十四年は気候が適順で八箱に繁殖し、そのうち六箱は蜂王の交尾が完全でよく産卵した。八月盛暑の頃は草花が欠乏し、加えて炎熱が激しかったため、二箱は飛遁した。そのため越年したのは四箱である。採蜜は六月下旬まで二箱で【百三十四頁】行い、甲は三回、乙は二回分離して、合計五貫三百匁を得た。これは蓋のある蜜である故に、その質は良好である。
イタリア種は先年来数々飼養しようとしたが、毎回その目的を達しなかった。しかし善造が去る二十四年に得た蜂群は直に転換巣箱に移し、蜂王も確実でよく産卵し、蜂群が強盛であるので、あるいは此の種から内地で繁殖するようになるのではないだろうか。しかし、あれが我(在来種)に勝るかどうかは、今後数年間、我が在来種と比較試験を経た後でなければ知ることはできない。なので同好者は私の試験の結果を待って飼養しても遅くはないだろう。

蜂蜜の商況

蜂蜜を採収していかなる目的に使用するか、また容易に販路を得るかどうかは今日の市価がおよそいくらぐらいか、過去現在未来の需要は【百三十五頁】いかがか等の商況については、養蜂を試そうとする人が聞きたいと思うところではないだろうか。我が全国における蜂蜜の総計は知るすべがないとはいえ、去る十八、九年の一府十三県の統計は前に記載した通りである。昔と現在の出産額を比較すると、今日は大変衰退したというほかない。その理由を考えると、一つは菜種の栽培が衰え、蜂の飼料が欠乏したことにより、蜂箱の数が減ったことである。もう一つは、漢方医が衰えて煉薬(れんやく/ねりぐすり)を使うことが少なくなり、加えて売薬の規則が厳重になり、印紙を貼って使うのに、煉薬を入れた曲物から夏期はことに内容が流れ出て印紙を汚してしまうと、印紙が無効になってしまう。薬舗の損亡が少なくないため、煉薬製の出高は昔の百分の五に減ったといえる。これが主要な原因であるようである。
【百三十六頁】現在の蜂蜜の主な生産地は紀伊、筑前、伊予、土佐、信濃、上野、岩城、小笠原島である。紀伊はすなわち熊野蜜で、本邦の最上等品である。東京への輸入高はおよそ百貫目にして、常に品が払底していることが多く、価格は東京持ち込みにして一貫目六十銭位で売りさばき、価格は六十五銭から七十五銭、筑前蜜には上下の二品があり、下品はたぶん大阪辺りで諸方の蜜を集めて混和したものであろうという。東京輸入高は二品あわせて一千三百貫位、甲は一貫目につき三十五銭ないし四十銭、乙は三十銭ないし三十五銭であり、売りさばき価格は甲は四十銭ないし四十五銭、乙は三十五銭ないし四十銭、信州甲州産は東京輸入高がおよそ百八十貫目、一貫目につき三十銭ないし三十五銭、売りさばき価格は四十銭ないし四十五銭、奥州産の輸入高はおよそ五百貫目で、一貫目につき三十銭から三十五銭、売りさばき価格【百三十七頁】は三十五銭から四十銭くらい、また大阪まわりと称するものがあり、混和物が最も多い品で、極下等である。一貫目がおよそ二十銭以内である。小笠原島は上等で、価格は熊野と等しい。舶来蜜は一ポンド(=)百二十匁が六十銭である。熊野蜜は色が白く、数年を経ても味が変わらず、冷気にあえば結晶する。筑前の甲は樽の上面が赤色で、底は白色、乙は樽底の結晶が甲よりも少ない。信州甲州は少々赤色を帯び、蜜蝋の臭気もある。奥州まわりは一層下等で、盛暑を越えると酸味を帯び、その色が黒変する。舶来蜜は透明で間々巣蜜のままのものがある。慨すると、熊野産を除いた他、本邦の蜜は質が概ね汚濁、かつ酸味を帯びる。ただし蜜蝋は一貫目につき二円五十銭である。また昨今東京の輸入は、紀伊産の七貫目入りが二十樽、奥州は十貫目入りが百樽、信州は五貫目入りが三十【百三十八頁】樽、伊予は二十貫目入りが六十樽、小笠原島は六貫目入りが六十缶で、ほかに大阪で餅を使って製造する備前白蜜という製品の輸入は、右の五ヶ所よりは多量であるといえる。蜜の相場は土用を過ぎて九十日頃にならなければ立ち難いという。これは蜜が腐敗するからである。しかし純粋な蜜は決して腐敗するものではない。
舶来蜜の輸入額は知りようがないとはいえ、西洋食品店および薬舗でも多少はこれを使う。その価格が一ポンド六十銭とは、安くないこと甚だしいではないか。私の改良法は外国で採収するのと同じ方法である。その価格は舶来品と等しくはないが、熊野と同等の位地を持つのももっともである。将来を考えると、蜜の需要は食用の方で多いので、上等品を製造することが必要【百三十九頁】である。今日においては、良品は常に払底の景況であるので、急に売品が市場にあふれる心配はない。もし余分があれば、これを朝鮮国に向かって輸出する販路をあるだろう。会て(?)蜂蜜に関して著述者の親友である京城在勤の副領事橋口氏へ問い合わせた返事では、(前略)古来因襲の久しい日常の需要はまずことごとく蜂蜜に資するといってもよい。その一升(私たちでいう一升三合)の代価は自(?)二十八銭から三十五銭位、日常需要品では一種の混合物もある。その色は白く、冬季中は凍結してロウソクのようだとはいえ、夏季は溶解して水飴のようである。その良好なものはもっぱら薬品として用いる。甚だ安くはない。此の品は一年中変更することはない云々。去る二十一年、朝鮮公使が駒場へ来臨された際、私の改良法を示したところ、自国の蜂蜜は品質が甚だ劣等で、酸【百四十頁】敗しやすく、その採蜜法の実際のところを一度見て見たいと望まれた。たとえ朝鮮へ輸出しないにしても、これを砂糖の代わりに自家で使用しても、また国家の経済である。近頃は都も田舎もおしなべて砂糖を用いることが盛んである。聞くところによれば、すでに毎人五斤を消費するという。養蜂は砂糖輸入の防御策の中で最も行い易い一方法である。およそ新たに物産を出そうと思えば、一家独立して少量を出すのは販売の便利を欠いており利益が少なく、また一産物とはならない。蜂蜜でも一家で少量のものを出すのは販売に不便利であるので、一村一郡の養蜂家が連合してこれを一ヶ所に集め、問屋に売り込むべきである。従来、東京では蜂蜜を取り扱う薬舗が四軒ある。すなわち、本町三丁目島原吉兵衛、同じく四丁目富屋宇八、本石町三丁目志平作兵衛、瀬戸物町

【ページ数なし】図一〜七
【ページ数なし】(白場)
【ページ数なし】図八〜十一
【ページ数なし】(白場)
【ページ数なし】図十二〜十四
【ページ数なし】(白場)
【ページ数なし】図十五〜十七
【ページ数なし】(白場)
【ページ数なし】図十八〜二十
【ページ数なし】(白場)
【ページ数なし】図二十一
【ページ数なし】(白場)

【百四十一頁】四番地杉村金蔵、これらは今日は盛んに取り扱ってはいないが、品物と価格によってはみな引き受けると言っている。改良蜂蜜のようなものは、直にかけ合って取引する方便が有益だろう。なぜかというと、仲買人が取り扱うものは多くが下等品であるからである。私は第一版で前計のように朝鮮への輸出について唱えたが、去る二十四年、我が蜂蜜が輸出される統計を見ると、次のようになっている。
 香港へ 四四〇斤 三五円
 支那へ 三,〇〇〇斤 一七五円
 朝鮮へ 一三,七五〇斤 一,〇五二円
  合計 一七,一九〇斤 一,二六二円

【奥付】
明治二十二年十二月十四日 第一版発行
明治二十五年七月七日 第二版発行
明治三十九年三月三日 第三版発行
明治四十三年八月九日 第四版発行
明治四十五年五月二十日 第五版印刷
明治四十五年五月二十六日 第五版発行

著作者 玉利喜造
発行権印刷者 東京市京橋区南伝馬町二丁目十三番地 穴山篤太

発行所 東京市京橋区南伝馬町二丁目 振替貯金東京六九六番 有隣堂書店
大取次 東京麻布区麻布本村町 學農社
    東京神田区錦町三丁目 牧畜雑誌社
 
 
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以上です!