2022.1.31更新

 

玉利喜造『増補 養蜂改良説』第五版, 1912(明治45),有隣堂書店
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1083965

 

◎注

・このページは、上記の書籍の現代語訳版 前 中 後 のうちの〈前〉です。

 制限文字数を超えてしまったので3つに分けました。

・読みやすさ重視で適宜(原本にはない)太字や改行を設けています。

・不明な箇所は(?)となっています。

・グレーの【】内は原本のページです。確認する際の参考にどうぞ。

・素人の現代語訳ですので、計画的にご利用ください。参考程度にとどめ、原本をご確認いただくことをお勧めします。

・間違いがあれば修正しますので、ご一報いただけると嬉しいです。

・リンク先の原本には、「はしがき」として誤って別の書籍データが挟み込まれています。これは国会図書館に連絡し、書誌情報「電子化時の注記」で対処していただきました。

 
以下本文。
 ↓
 
【表紙】
農学博士 米国理学士 玉利喜造著〔第五版〕
増補 養蜂改良説
発行所 有隣堂書店

【表2】(白紙)
【トビラ】増補 養蜂改良説
【トビラ裏】(白紙)
 
【一頁】養蜂改良説再販自序
我が国で殖産上着手されているものの状況を考えるとき、たいていの人は新奇なものに走って一時的に盛況を現すが、数年たたずに衰退し跡形もなくなるものが多い。この書も初版が終了してこの度再販を出すにあたり、喜憂入り交じるものがある。世にこの書の必要を感じる人がいるのは、農業副産物の利益を挙げようと試みる人が増加したからだろうが、同時にまたあるいは、新奇に走っていないといえるだろうか。どういうことかというと、養蜂改良というのは、新規の事であり、その説がまた以前と趣の異なるからである。私はこの書を好事者の【二頁】ために著したわけではない。現に改良説という。従来飼養するものが方法を改めれば、それでこの書の目的は達せられる。去る2月中ば、衛生局養蜂試験の報告に依れば、適8,325グラム、不適405,000グラムであるという。その量数は大変多いわけではないが、良否の割合でいうと我が蜂蜜の品質は劣悪であることを証明するに足りる。察するに、日本薬局方によって厳密に我が蜂蜜を検査すると、概ね不合格となってしまう。養蜂改良が避けられないことはすでにこのとおりである。私はここに言葉を付け加えることをしない。もし新しく養蜂を試みようとするものがあれば、その結果を五、六年後に期待することを求める。

明治25年6月 喜造謹白

【三頁】養蜂改良説自序

総じて農業はその性質として急激に進歩するものではない。思いがけない利益を得て暴富をもたらす類は農業の方術ではない。思うに農業が改良進歩するのは、ただ農家が着実に業を行い一厘一毫(ごう)の小さい利を積み加えることにあるのみである。そもそも我が国のような最小規模の農業を維持して収利を計るには、農家の余業として種々の副産物を出す道を講ずることである。養蜂はそのひとつである。これをもって、私はここに自分の講義録中の養蜂篇を添削し、なお東京農林学校において行った養蜂試験の成績を付記して、小冊子を【四頁】編集し、これを世に公にしたい。言葉は大変簡単であるが、その要領はおよそ論了しているといって差し支えない。もしこの書でいささかでも我が農家に補益があれば幸甚である。

明治22年10月 著者誌

(以降8ページにわたり「はしがき」として別書籍のページが差し込まれている)

【ページ数なし】
目次:
 總論
上編
 蜜蜂
 種類
 蜂の三性
 養蜂の原料及生産物
 蜂巣
 分封
下編
 養蜂管理
 種巣
【ページ数なし】
 巣搜索
 巣箱
 巣礎
 養蜂場
 蜂群を改良巣箱へ移す事
 夏期管理及分封分巣
 蜂蜜採收及び製蝋法
 冬期管理法
 蜂の害敵及病
 蜜蜂の好む重要の植物
 外編
 廿一二年の結果
 蜂蜜の商況

【一頁】
増補 養蜂改良説
農学博士 米国理学士 玉利喜造著

総論

蜜蜂の利用は太古の人もよく知っていた。おそらくサトウキビのような植物から甘味の液汁を採取する方法を発見する前、またはそれらの植物が生長しない諸国においては、もっぱら蜂蜜を今日の砂糖の代用としていた。現に万国への交通の道が開けた朝鮮でも、現在国内で消費する甘味原料の十分の九は蜂蜜であり、砂糖はわずか一分であるという。そのように、古代または未開国人の食物中、甘味を付添するのは一に蜂蜜であり、蜂蜜のことは西教の典籍中にも散見でき、すでに紀元前【二頁】ギリシャの大学者「アリストートル」がこの飼養法を説き、ローマでは「ウイルギル」氏がこの研究にもっとも心力を尽くした。しかしその最も有益な試験観察を遂げて養蜂に大功徳を与えたのはわずか百年前であり、盲人「フランシスヒューバー」をもって養蜂術の大家とする。ただし十七世紀の中頃、オランダ人「スワムメルダム」という者が一般昆虫の学をおこし、蜂の歴史も著した。ヒューバー氏は盲目ながらも妻および家僕両人の助力を得て最も精細な研究を遂げ、今日にいたるまでなお正確とするものが多い。その後、昆虫学者、博物学者が輩出して蜜蜂のことを研究し、また多少なり養蜂術を催進したが、近来養蜂の生理および応用法に最大の新知識を与えた該業を盛んにしたのは、日爾曼(ゲルマン?)の【三頁】僧「サーゾン」氏とアメリカ人「ラングストルス」氏である。甲(前者)はもっぱら学術研究であり、その顕著な発見は蜂王が雌雄卵を産むことについての生理である。乙(後者)は実地応用上の新発明であり、従来の固定巣箱に代わる転換巣箱である。このため蜜蜂の管理が容易になり収蜜の量が多くなり、加えて業に従事する者が多くなり、近来養蜂上の新発明が相次ぎ、今日に至っては彼我実際上おそらく養蜂業のように徑底(?)はなはだしいものはないだろう。
我が国でも従来蜜蜂を飼養するものがあり、多少の蜂蜜を収穫するが、飼養者はこれによって利益を得ることはわずかも考えてない。明治十八年の調査によれば、東京、九州、四国、中国等の一府十三県で飼養される巣箱の数は三【四頁】万八百六十五個、その蜜量は九万九千七百三斤、同十九年は三万六千九百五十一個であり、一斤の値は四、五銭から二十二銭となっている。欧米諸国においても養蜂業は古くから我が国よりも盛んであり、多少は改良法を用いるといっても、各国の中で最も盛んでまた新規の改良法によって飼養するのはアメリカ合衆国に勝るものはないだろう。八年前の統計によれば、巣箱の数は三百万個であり、蜜は二億万斤(1斤≒600g)、その値は三千万ドルだという。ならばすなわち一個六十六斤(≒39.6kg)をもって平均とする。これを我が国の一箱三斤(≒1.8kg)を平均とするものに比べれば、差異は実にはなはだしい。我が国の従来の飼養法によれば、最も上等なものといっても毎年平均十斤以上を収穫するものはない。だが蜜群の強盛なものに至っては、一日に十余斤を貯蓄するものは珍しくない。昨年、【五頁】カリフォルニア州の大養蜂家の収蜜は平均八十余斤であり、少し注意をすれば百余斤が得られ、今までには一箱から三百余斤を得たものもあると聞く。私が養蜂の教師とする「ミシガン」農学校の教授「コック」氏は一箱から七十五ドルを得ることもあり、五年前は十五箱から純益二百ドルを得て、1876年は一箱平均二十四ドル四セントを得た。その有名な養蜂家「ヅーリットル」氏は、五年間五十箱で純益六千ドルを得、「カッテン、ヘザリングストン」は一年に一万ドルを収め、「ハーピソン」氏は年々鉄道荷車で十一両の蜜を出し、カリフォルニア州の南部五都からは年々二千二百四十万斤の蜜を算出するという。
このようにアメリカ養蜂の盛んで利益が多いのは、気候および蜂の種類にもよる。また鋤鍬の入らない土地が広くあり、草花【六頁】が富んでいるからではあるが、主な理由はどのような飼養法が行われているかによるといわざるを得ない。該国で一年数百斤を得る蜜群も、我が国の従来の飼養法をもってすれば、わずかに十余斤が得られるに過ぎないことは明らかである。仮に我が国には降雨が頻繁で耕地が広く草花が少ないといっても、従来すでにこれを飼養する地方があり、すぐにこれを改良すれば以前より四、五倍の収量となり、その質もよくなるであろう。私はアメリカのような、一家で数百箱を飼養し、遠くからこれを望めばあたかも墓地のような盛観あるようにはせずとも、少なくない樹林山野を負う村落で農家に一、二箱を飼養するのは実に容易である。その山間僻地では、今日産物がないことにみなが苦しんでいる。これらの僻地では自然の花木に富むため、あるいは【七頁】数百箱を飼養できる。そんな地方こそ養蜂に最も適応するだろう。私は我が小農の利益を増す種々の副産物を付加すべきだと信じる。すなわち養蜂のようなものはその一つであり、はじめ種巣箱にわずかな資金を投じれば以後の管理は容易であり、また労力も少なくてすむ。アメリカでは養蜂を婦人の職業とし、今日は婦人の大養蜂家も少なくない。
養蜂を始めようとするものは、どんな気候地位その他の事情があり適応しないのではないかと迷うことがあるだろう。しかし我が国ではただ相応の花木さえあれば南は琉球から北は北海道でこれを飼養することができる。その詳細については、この後述べるところである。養蜂家はまず第一に蜜蜂の学理情性等に詳しくなることが最も緊要である。

【八頁】
 上編
  蜜蜂


蜜蜂は昆虫学分類によれば膜翅類の蜂族で、自らで蜜蜂一種を形成している。この膜翅類にはアリ等もあり、舌が長く甘味が好きで喜び強堅な顎および薄い膜状の四翅を持つことが特徴である。蜂族は頭部が広く感覚髭は「く」字に曲がり、オスは十三節、メスは十二節からなる。顎はとくに強く、刻歯があり、舌および両側の副顎は長いが使用しないときは口の中に収まっており見ることができない。六脚の中前四脚は肱の端に距(けづめ?)があるが、蜜蜂のみこれが欠けている。後足の膝は広く外面が少し凹んでいるのが常である。これはすなわち花粉を塡充するところで、名付けて花粉嚢という。もとより「ボムブルビー」と称する蜂では【九頁】花粉を貯える必要がないため、蜜蜂のオスと同じようにこれは不要である。化生は完全で、卵からウジとなり、蛹となり、ついに蜂となる。そのウジは無足で萎縮し首尾両端は巻曲し、完全に他の老長者の保育によって生長する。この族にあるものは大変多く、蜂の類はみなこれに属すといっても、我らがいつも蜂だと呼んているものの中にはハエの族に入るものも多い。名付けて偽装という。すなわち蜂族に擬態して他の悪者から逃げるための自然淘汰の理に他ならない。ただし蜂は四翅であり、ハエ族は二翅であるため容易に区別ができる。
蜜蜂は後足に距(けづめ?)がなく、働き蜂は花粉嚢の裏面に短毛が数列ある。雄蜂は両複眼が相接するが、メスすなわち女王および働き蜂は異なる。これらすべての解説は後に各別に論じるため、ここでは略して【十頁】まずは普通の人が飼養する種類をあげる。その区別は学者の所説がまちまちで、あるいは同一種、あるいは異種となっており、また変種とするものもある。今日欧米人が飼養する種類を Apis Mellifica(アピス メリフヒカ)といい、これにその有名な伊多利亜(イタリア)種A.Ligustica(アピス リガスチカ)、埃及(エジプト)種 A.Easciata(アピス フアシアタ)、日耳曼(ゲルマン)種などを含み、他にも印度(インド)および亜細亜(アジア)の南島に生息する種類3種をあげるものがある。その中、中錫倫(セイロン)、ボルニオなどの諸島にある最大種はまったく別種とすべきかどうだろうか、今日の研究においてはみなすべて同一種になるかもしれない。しかし変種(すなわち種類)があるのは明らかである。

 類

日耳曼(ゲルマン)種 黒種ともいう。働き蜂は黒褐色で蜂王と雄蜂は暗色、蜂王の下腹は銅色または褐色である。最も古くから人が知る【十一頁】種類であり「ウイルギル」氏はこれを黄金蜂と呼んだ。性急で騒がしく怒りやすく、しかしよく作業をして白色の巣を造営する。

伊多利亜(イタリア)種 働き蜂の体は黒く、濃黄色が三条あること、舌の長いことが特徴である。蜂王は腹が黄色く尾は黒色を帯びている。性格は温柔でよく働き、黒種よりも蜜を盛んに蓄える。しかし巣は白くはなく、オスは不同で黄色の輪または斑点がある。腹は概ね黄色である。この種は最も有名であり、アメリカにおいても概ねこれを飼養している。この蜂の長い舌は花蜜を吸収するのに便利で、加えて作業が活発であるので貯蜜も盛んである。朝または春は早くから労働し、夕または秋は遅くまで休業し、外敵をよく防禦して他を犯すこともしない。【十二頁】蜂王は産卵が盛んで、蜂群中にこれを見いだすことも容易である。性質が温和であることは、最も貴うべき性能である。

西利亜(シリア?)および西彼利亜(シベリア?) どちらもイタリア種に似ている。後者は前者から出てイタリア種は後者から出たため、この二種はよく似ているのだともいわれる。ただシベリア(?)種は腹一体が黄色で、後胸に褐色の半月形がある。イタリア種よりも活発で、蜂王を産むことが多いが怒りやすい。シリア(?)種は蜂王の体が黒と黄が交互に色篠になっており美しい。働き蜂の初生が黒色なのは体がまだ伸長するからか。後が黄色で下尾に至る。外敵をよく防ぎ、蜂王の生育が盛んである。ときに一巣に50余の蜂王卵を産むため、蜂王を生育して利益を得ようとするものは、この両種を飼養する。
【十三頁】
加厄阿羅(カーニオラン) オーストリアの西南部から出て、性格が温柔で有名である。黒色である。通常はゲルマン種を黒蜂というが的を得ていない。外にエジプト槓(?)「ダルマテア」種など七、八種があるが、未だに一般的に飼養するに至っていない。また、同じ巣箱の蜂群中にも体の大小および色の濃淡があり、これらを説明するときには大いに注意しなければいけない。

日本種 本邦のミツバチはそれ自体で一種となっている。しかし諸書を参照すると諸国の蜜蜂はみな同一種というわけではないようだ。私はこれらの種類について研究したいと欲しているがいまだにその機会がない。種類を論ずるものがいうことには、雲州には「ヤマミツバチ」「クマミツバチ」の二種があり、鋭性(神経質?)で養いづらいという。通常人が養うものは山野に生息しているものを持ち帰ったものが多い。性鋭で【十四頁】養い難いというのであれば、通常種とは別であろう。薩州で産するものは性格がいたって温和で、同州日置郡で産するものは茶褐色、豊後竹田近辺の種類は腹に黄色と黒色の横條があり、信州木曽で産するものは全身が灰黄色である。これを「ヘボ」という。また、黄斑紋のあるものもあり「トラバチ」という、云々。「ヘボ」は地蜂である。私は信州甲州で産するものを研究し、これを私が普通の種類であるという。この種類は雄蜂蜂王は人の目撃がまれであり、あえて論じない。その働き蜂ははじめは灰黄色だが、十分蜜をふくむと体輪が長く伸び、黄條を出すことが多い。この黄條は体輪の前半が黄色であるが蜜をふくまないときはまた短く縮むため、ほとんど前体輪がおおわれた蜂が老成すれば、灰黄色が変わって黒灰色または茶褐色となり、黄條も黄白色となる。だがこの蜂は十分に蜜をふくんだときは褐色がほとんど【十五頁】最初に戻る。これをもって察すると、前記の茶褐色の黄色と黒色との横條、また灰黄色も、みな同一種ではないだろうか。ただ、黄斑紋はあるいはまったく別種かもしれない。我が国の蜂種は性格が極めて温和で、よく労働する。しかし採集が細かく行き届いていないため、大群を形成することはでないようである。ゆえに第一分封として出た蜂群は再び分封熱を起こすことがある。イタリア種に比べれば少し腹が灰色で、最後の体輪まで淡い黄色の横條がある。

 蜂の三性

健全な蜂群には必ず3異性の蜂がいる。3異性とは、蜂王、雄蜂、働き蜂のことをいう。先哲「アリストートル」氏のような太古の人物もよく知るところである。本邦の支那でも蜂に王があるといっている。蜂王は数万の蜂群中で唯一の母蜂である。そのため英語では【十六頁】これを女王蜂という。雄蜂は季節により二、三匹ないし数百、千匹がいる。一般にこれを蜂将または黒蜂と呼ぶ。働き蜂は雌蜂だが卵を産まず、常に花粉および蜜の採集と巣脾の造営、稚蜂の養育などの諸労働に従事している。ゆえに、俗に細工人杯(?)と呼ぶ最も数が多く一巣内に数万を数えるこれらの蜂は、第一、二、三図のように体貌が異なり、動作はみな全く特別である。養蜂を試そうとするものの多くはその性質をしっかり知得しなければ、十分な成功を期待することは難しい。そのため、この三種の蜂について詳説し、一般の蜜蜂の生理は省略する。

蜂王は雌蜂であるので、十分に発育した卵から生まれたもので、一度オスと交わった後は常に巣内にいて産卵を専門とする。第一図のように外貌体格がまったく異なり、全体に大きく黒褐色で光沢を帯び、体の長さはおよそ【十七頁】7分3厘弱で、尻は細長く、翅は短く腹の第4節にわずかに達しているのが特徴である。頭部は働き蜂のように大きく複眼も相矩れて(?)おり、雄蜂のように大きくはない。また頂上で接することはない。そのため三個の単眼はほとんど頭の頂上にある。
 
 
(?)は曲がりみだりに刺して攻撃したりはせず、王族の争闘でだけ使われる。後脚は大きいといっても花粉嚢はなく、毛茸(もうじょう)もない。この長い腹の中はほとんどまったく卵巣で充たされている。卵巣は左右両房からできており、ふたつが出合う箇所から少し下に雄の精子を受納する受精器がある。第八図「ロ」のようになっている。一度交合してから四、五年の間は産卵するだけの精子を貯える。その数は一説に二億五千万という。この受精器は筋肉質からなっており、張縮随意で、まさに産卵の際に卵巣より出た卵はこの精子と出合えば雌蜂卵となり、出合えないものは雄蜂卵となると「ザーゾン」氏の発見であり、理学進歩の今日において動物の雌雄を産む理由は未だ明らかにすることはできていないが、蜂においてだけは「ザーゾン」の説をもって明確にすることができた。氏の説を証明するには、雄蜂と交合していない蜂王または老長して精子の尽きた蜂王などはみな雄蜂卵のみを産することで知り得ることができる。ある事情で働き蜂が卵を産んだ場合もまた雄蜂のみか、あるいは飼育法によって生まれるものであるという説もある。雄蜂房の卵を雌蜂房に移した場合もやはり雄蜂が生まれることからも知ることができる。
 
 
蜂王は雌蜂であるので、交合が完全な卵から生まれたものである。その巣房は他の巣房のように横向きではなく、特別に【十八頁】容大は落花生の実のようなものが巣脾の下の縁につくられる。これを王台という。その口はおおむね下を向いているが、ときには斜め向きになる。この台に蓋がつく前は識別し難い。蜂王は台内の一隅に卵を置き、三日たてば孵化して小虫となる。この小虫、すなわち蜂蛆は白色で旋曲している。働き蜂はつねに王台を護衛し、小虫が孵化すると濃厚白色の資料で王子を養う。英語ではこれを王家の舐物とよぶ一種特別な調和物であり、働き蜂卵の小虫もこれで養われると蜂王に変化する。この食物は大変潤沢で、小虫はまるで食物の中に浮いているようである。このように養育して五日すると、働き蜂は台の口に蓋をする。このときになると容易に識別することができる。台内の虫は糸を吐いて繭をつくり、一日で蛹になりこの前後三日は休息して【十九頁】稚蜂に変わり、なおここに五日間はとどまり、房台を破って出る。出房の一、二日前に台が汚れるため知ることができる。そのためはじめ卵を産んでから出生するのは16日目である。これを雄蜂では24日、働き蜂では21日かかるのに比べると、発育は大変迅速であるといえる。蜂王が巣房を破って出てから三、四日ないし24日以内に、天気が晴朗の日の早朝に巣外に出て飛遊し、雄蜂と交わる。もし天気が悪ければ、数日の間が委縮が猶予される。外出の初日に雄蜂を交わることができなければ、その後交尾ができるまで毎日外出する。このときもし蜂王の尻端に白色糸状のものが付着していたなら、これは雄蜂の生殖器であり、交接したしるしとする。その後は決して巣外に出ることはなく、もっぱら産卵に従事する。産卵は交接後一、二日を経てはじまり、最初【二十一頁】は雄蜂卵のみであるが、一、二日後には働き蜂卵を産む。もし交接の後しばらく産卵しない後で産む場合は、みな雄蜂である。これは蜂王が交接して精子を孕有するが、しばらく産まないせいで受精嚢の機能が正常でなくなったためである。また、久しく交接できないと最終的に蜂王は雄蜂だけを産むようになる。これらの事実から推測すると「ザーゾン」説が明確であることの証拠である。交接後に産む雄蜂は体が小さい。これは働き蜂の巣房に産むためである。翌春ははじめ働き蜂のみを産む。よく産む蜂王は一日二、三千個の卵を産み、五年間生息するので蜂王は一生で百万の卵を産むことになる。ただし種類や事情によっても多少はある。花蜜がゆたかで多く、働き蜂が活発なときは最も盛んであるが、盛夏で花蜜が欠乏するとき、貯蜜が【二十二頁】すでに充溢なとき、蜂群が稠密なときは完全に産卵を中止することがある。蜂王が老衰して精子が尽きた場合は雄蜂卵を多く産む。働き蜂がたとえ蜂王を擁護し推尊するといっても、このような蜂王がいて雄蜂が増殖する場合は、日を期して全巣が絶滅してしまう。そのため働き蜂卵がまだある中で働き蜂は蜂王を刺撃し、死体を巣の外に棄て、孵化して第三日目くらいの働き蜂卵の小虫を擁立し、その周囲の房を破壊拡張してそこにひとつの王台を築き、該当の小虫を王の舐め物をもちいて養う。その場合は定期にいたって一個の新王が後継となりその巣はまた繁昌する。
蜂王が雌雄卵を産むのは、そうさせる事情があるからである。すなわち、働き蜂が必要であれば働き蜂を産み、雄蜂が必要であれば雄蜂を産む。花蜜が多く蜂群が多くなければ盛んに働き蜂を【二十三頁】産み、すでに繁昌していれば分封に適しているため蜂王を産む。しかしたとえば蜂王が生まれても交わる雄蜂がなければ蜂王は意味をなさない。そのため蜂王が出る前に数多の雄蜂を産む。すなわち分封前には巣門を出入りする黒蜂が必ずいることで知ることができる。前述したように蜂群が充溢して分封することがわかれば、分封を促すこともまた遅延させることも人が管理することができる。一般に、蜂王は衆蜂に号令して働き蜂は常に蜂王を護衛すると伝えられるが、みな根拠がなく取るに足らないことだとはいっても、蜂王は巣内唯一の蜂であり蜂群の盛衰はすべて彼にかかっている。そのため彼ら全巣の安寧幸福をはかるには、蜂王を愛護するのは無論であり、また蜂王も自ら行動に気をつける性質を備え、挙動は緩慢で大事をとって体腹を引いて歩いているようである。しかしひとたび【二十四頁】変異が起これば神経質となり、身を隠匿しようとすることに必死で、すぐに衆蜂が隠蔽してしまう。まだ交接していない稚蜂王は神経性が一層ひどく、挙動がかえって急騒になり、衆蜂が団塊をつくるがその外面を狂奔して過ごすこともある。しかし蜂王でその徳をなくし、蜂群を繁栄させないきざしがあれば、前述のように蟄殺の害を免れることはない。

雄蜂 5月から9月頃までは二、三百ないし数千匹いる。必要に応じて存在するので、場合によって多少がある。冬月はまったく存在しないのが普通である。花鏡に、蜂将が生きて冬を過ぎると蜂族はみな空になるとある。確かに雄蜂は単に交接のためだけに出産されたものであるので、その用が達成されれば無用の素餐家(そさんか)である。それに加え、体格は大きく貯蔵の食物を盛んに消費(?)するので、初秋になると【二十五頁】働き蜂はみなこれを刺殺する。そのため、初秋に雄蜂の多くが巣前で死んでいるのを見るのは、巣内の秩序が整然としており、蜂巣群が繁栄しているよい証拠であるとする。ただし、貯蜜が多い時は二、三の雄蜂が越年することもある。思うに、たかだが三、四匹の王蜂と交接するためにこのように多数の雄蜂が出るというのは、飛遊の際に鳥など警敵の害があるため、その準備だと知るべきである。
第三図は雄蜂である。体は大きくて短く、五分内外(≒1.5cm)で尻は丸く、鉄漿(てつかね)色のようである。飛ぶときは一種鋭小(?)のおもむきがあるが、体が重いためである。舌、副舌、第二顎は蜂王のように働き蜂よりも短く、顎もまた発育していない歯を持ち、働き蜂より重鈍にみえる。眼は大きく飛び出しており、頂上では両眼が接している。単眼はその下にあり、第五図の通りである。
 
 
後脚は(第七図)少し外に曲がり、蜂王のように【二十六頁】花粉嚢を持たず、針はなく、雄性の生殖器を収めている。この雄蜂は精子の入っていない卵や働き蜂の産んだ卵から生まれたものである。雄の卵房は二分くらいで、働き蜂よりも大きい。房蓋を閉鎖する前は5日半養育され、およそ産卵から出房まで24日が必要である。この雄蜂房の蓋は粗く凸が多いことは働き蜂房より突出している。その下に鈍円錐型の蓋があり、真ん中に微細な穴があって空気が出入りするようになっている。雄蜂の生存期を確実に知ることはできないが、おそらく働き蜂の刺撃をもって終わるのであろう。この刺撃は初秋の頃に盛んになるが、飢饉の際は盛夏に行われることもある。そして雄蜂がもし蜂王と交わった場合は、生殖器が脱去して死ぬ。
 

働き蜂 蜂群中で最も数が多く、ひとつの巣に一万五千ないし四万匹【二十七頁】がいる。最も小さく、長さは五分ほどである。房を出た当初は淡色で後に暗褐色となる。ただし多く蜜を含んだものは体輪が伸長して六分になり、帯黄色の体輪がよくあらわれる。この働き蜂は雌のよく発育していないもので、不完全な卵巣と精子嚢を持つ。そのため、事情によっては産卵することもある。それは蜂王を失くした際にやむを得ず起こりうることであり、一時は蜂群が鎮静するが、その卵はみな雄蜂であるので、日を経ずに絶滅する。働き蜂の産卵は必ず一房中二個以上、五、六個が置かれる。このときに蜂を点検すれば、働蜃(?)の後部に卵を挟出するものが見つかるはずである。これはすなわち偽蜂王である。昔は働き蜂を中性と考えていたが、前述のような事情、また蜂王に育てられることを考えると決して中性ではない。【二十八頁】働き蜂の口部は小さく尖っており大変強健で、舌は長くその端に吸い口があり、蜜を吸うのに便利になっている。舌根に連続して二対の腺があり、ひとつは頭に、ひとつは顎に拡がるとともに津液(しんえき)を分泌するもので、巣脾の造営には蝋にまぜて用いられる。また蜜を銜えて胃中で糖化する効能があるのだろうという。食道の一部に拡がるものは蜜を貯えるところであり、名付けて蜜嚢という。顎は最も強健で、歯は鋭利である。これで蝋を練り、物を切り、巣を造営する際に最も必要になるものである。第二図は働き蜂であり、第四図は働き蜂の頭を示す。
 
 
その複眼は蜂王と等しく接してはおらず、翅は雄蜂のように長く体の後端に達しており、強靭である。後脚の股脛に花粉嚢があり、第六図の「イ」の通りである。その周辺に毛が生えており、より容量を大きくさせている。蓋(壺?)の裏面には数行の毛列があり「ロ」の通りである。
 
 
花粉【二十九頁】ははじめ口から採集し、前脚でそれを蓋(壺?)に詰める。働き蜂の前脚と股脛の間には凸部があり、これを被る矩状のものがある。これはおそらく管の形状を持つ花から花粉を掻き集める際に必要なのであろう。他に働き蜂に特有なものは強直な針(?)である。この針(?)は中剣と両側の鞘からできている。おそらく、剣は単に刺撃を行い左右の両ざやに続いて挟入するすると初めて針毒を伝えて苦痛を感じるものであろう。蜂の腹内を割いて見ると、針(?)に連続した小さい嚢がある。これが毒を蓄えるところであり、毒嚢という。毒嚢の口は針(?)鞘と連なっており剣には口がない。この鞘の先端に数多くの鉤があり、その根に覆いがある。刺撃の際に鞘を挟入して初めて開いて毒を伝える。
働き蜂は蜂王の完全な卵から生まれる。卵は3日で孵化し【三十頁】巻縮した小虫が五日間養われて房蓋が閉鎖される。房の蓋は花粉と蝋からできており、色が濃く微細な小さな孔がある。そのため蜜房の蓋よりも壊れやすい。小虫が食物に飽きて糸を吐き、繭をつくる様子は蚕のようだといっても、この糸は房の内面に付着しており簡単に知ることはできない。年を経た巣脾が濃い色になるのは、この繭が数回にわたり積層するためである。そのため年を経るにともなって巣脾は強硬となる利点がある。三日で蛹化し、都合21日で房外に出る。はじめは暗灰色をしており、数日間は巣外に出ることはなく、もっぱら巣内の諸工事に従事する。しかし老長の働き蜂がいないときは巣外の職業につく。働き蜂の生存期は一定しないとはいえ、決して一年以上生きるものはいない。その秋の末に生まれたものは翌年まで生活しておよそ七、八ヶ月にわたるものもある。しかし【三十一頁】春期に生まれたものは三ヶ月くらいである。なお、夏期最も多忙なときは、わずかに三、四十日生存する。蜂王を失ったときは工事を停止するため、最も長く生存する。
働き蜂の職業には、巣脾の造営、小虫の養育、花粉花蜜の採集などであり、蝋を分泌する、前述したように若い蜂はおよそ二週間程度巣内にいて、各種の職務に従事し、老長したものは外役に服し、外敵を防ぎ雄蜂および不用の蜂王を殺す。ただし、以前は働き蜂がおのおのその職分を守って働いているものと信じられており、「ヒューバー」氏でも、製蝋、花粉探集、養育者の三種に区別し、我が国では門衛、蜂王、護衛その他種々の職に就くと、まったく別の種類のように論じられたが、決してそのように判然と分業を守っているわけではない。
【三十二頁】第九図「イ」は働き蜂卵の順次成長する形状を示す。「ロ」は蜂王房、すなわち台であり、すでに十分発達したものである。ただし、台の位置は実際にはこのようにはならない。ただここには房内にあるときの形状を示すのみである。
 

 養蜂の原料および生産物

蜜蜂の巣脾を造営して繁殖生存すると、必ず四種の物質を探集もしくは分泌する。四種とは、花粉、花蜜、樹脂および蝋である。

花粉 草木の花につき、その雄しべから採集する。もっぱら蜂蛆、すなわち小虫の飼養に使われるため、西洋養蜂家は一名がこれを蜂のパンとよぶ。もし花粉の供給が不十分であると、黴菌を集める。花粉の欠乏を知ったならば、麦粉を盆に盛って近傍に置けば、働き蜂がこれを【三十三頁】採取して稚蜂の養育にあてる。蜂が花粉を集めるには、まず口に喞(そそ)いで顆粒とし、両脚を伝って後足の外部にある花粉嚢に詰めて巣に還る。この蜂は後足を房内に入れてたがいに摩擦し、花粉の荷をおろす。そして去るとまたすぐ別の蜂がこれを塡充した働き蜂がくる。房は働き蜂房をこれにあてる。花粉は黄色が普通だが、ときに白色や黒褐色のものが運ばれることがある。蜜蜂は他の虫と異なり、同時に異種の花について採集はしない。なるたけ同一の花か、または必ず同種類の花から採集し、かりに同種の花といってもその色が異なると容易にはつかない。この花粉は大変高く盛り上げて塡充して蓋をするため、他と区別がしやすい。ときには一房内に花粉と蜜をつめることもある。これは一見して知ることができる。この花粉は蜜と調和【三十四頁】して蜂蛆を養い、窒素物を供給するために緊要である。生長した後にももちろんこれを食べ、損なった筋肉を補う。
蜂が花に群集するのを見て花に害があるのではと疑う人がいるが、これは学理の実際を知らない徒の妄想であり、花虫類を謝絶しては子実の登熟は皆無になるであろう。ただし甲虫には花を害するものがある。だが蜂、ことに蜜蜂は害がないだけではなくかえって作物果物の登穣を助ける大きな功績がある。
ドイツ「リュッケンドンフ」府の大養蜂家「ソオべ」氏の計算によれば、「サキソン」国には一万七千の巣箱があり、一個から毎日一万匹の蜂が出遊すると一億七千万匹となり、毎匹が四回ずつ出れば六千八百億回である。毎回五十花を訪れるとすると、三兆四千億花である。その十分の一で花粉の交合がまったくないとしても【三十五頁】三千四百億花である。五千花の交合をドイツの貨幣一「ペニヒ」に値すると、蜂のために得るのは六千八百万「ペニヒ」、すなわち六十八万「マルク」、一箱から十二円内外となるといえる。

蜜 養蜂家の第一の主眼は蜂蜜である。これは花蜜が発酵して酸性に変わったものである。ことに草木の花についてこれを集めるが、何種に限らずおよそ甘味を持つものには蜂は喜んで蜜を吸う。そのため、一定確実な成分をあげることはできない。およそ花蜜は百分中にショ糖十二ないし十五分と、「メルローズ」糖十分を含み、あとは水分と少しの窒素物を含む。しかし蜂蜜はショ糖の「グルコース」に変化し、「メルローズ」おまた変化したものから成っているようである。この変化は蜂が分泌する津液によっておこるようである。蜂は一度花蜜を嚥下して蜜嚢【三十六頁】に蓄え、巣に帰ってこれを蜜房内に吐出し、または他の蜂に与える。一説には、甲が蜂蜜を採取し、帰ってこれを乙に与え、乙はこれを蜜房内に納める。このようにして蜜は蜂房内にあって発酵し、十分に水分を蒸発させて濃厚になる。それが適度になると蜂がきてその蓋を閉鎖する。蓋は白色で主に蝋からできており、およそ華氏70度以下(摂氏21度)では蜜は白色の結晶体に変わる。これを砂蜜という。ただし蜜房内にあって蓋があるときはそうはならない。蜜の結晶したものは純粋な質の微(?)とする。しかし純粋なものを零度以下にし、それでも結晶しないものがある。花蜜がない場合には、働き蜂は他の巣の蜜を盗み、またはアブラムシなどが分泌する甘味の液を吸収する。そして蜂王は花蜜の饒多なときによく産卵【三十七頁】するが、貯蜜が充溢すればまた産卵を停止する。

蜂膠(プロポリス) 巣脾を固着し諸所の孔や隙間を塞ぎ、不潔なものを覆ってその悪臭を防遏(ぼうあつ)したりするのに用いられる。すなわち赤蜂の全巣から垂れる黒色の膠質がこれである。多くは植物の新芽や樹膠から摂られるが、ときとしては新しい洋膠道具につくのでそこから得られる。

蝋 養蜂家の第二産物である。蜂の下腹関節の間から分泌される。第十図のように不正な五角形であり、薄い鱗状となっている。だが利用しない場合は相屑て(?)粒状となっており、白砂のようである。この蝋鱗を左右四枚、すなわち八枚を分泌する。これを見分けることは誰にでも容易である。蜂は爪を使って自分の蝋鱗を掻き取り、口に含んで津液を加え、練りならしてから巣脾を造営する。「ヘス」氏の分析によれば、蝋は酸素7,50、炭素7,930、水素【三十八頁】13,20からなる。これらの成分を考え、また諸学者の試験においても、蝋は糖分より化生したことは疑いない。教授「コック」氏は砂糖で養っても同じように蝋を分泌することを実験した。およそ蜜20斤につき、蝋1斤がつくられるのが普通である。蝋の市価は大変高価である。蝋は巣脾を造構して蜜房の蓋となり、花粉とまぜて各巣房の蓋および台をつくるのに用いられる。
 

 蜂巣

人家で養うときには箱の中に造営させる。普通はこれに巣箱という。昔は堂といい、房と称したが、私はこれを蜂巣と呼び、その外囲の箱を巣箱と呼ぶ。巣は数多くの巣脾からなる。巣脾とは厚さ一寸余であり、両面は各種の小房からなる。脾臓に似ているためこの名がついたといえる。俗に孔が多いものを蜂の巣【三十九頁】のようだというが、このことである。この巣脾は巣箱の天井から縦に垂れ下がり、両面に小房があるため普通に人が目にするの赤蜂や地蜂などの巣、下方に向かい、かつ一面に小房があるものとはだいぶ趣が異なる。数枚を造営する地蜂などは二階三階というように層積するが、蜜蜂の巣脾は一枚ずつ順番に垂れる。巣脾の方向は、数多くの固定巣箱を開いて調べたところ、巣門に面しあるいは左右両壁に面して一定の規則はないようである。
巣房は正形の六角であり、その工事はもっとも絶妙である。なぜならば巣房の壁は厚さがわずか一「インチ」(八分強)の百八十分の一であるので大変軟弱であるはずだが、そうでないのは巣房が六角形であるからである。これだけではなく、六角形は最も【四十頁】蜂体に適応しており、最小の面積と物質に必要な経済的で便利な造構であり、これに勝るものはない。六角形が堅牢で経済的である理由を述べるために第十一図を見てほしい。その黒線は前面の房であり、点線は後面の房を示す。このとき各房の底は三角錐状となる。その三面は菱形で、交わる錐の先端は房の中心となっている。この中心に相対する後側の房底は、三角錐の基本となる。反対に、六角形の房が連なるときは六面の壁は六房と接する。甲の房の二壁、乙・丙の二巣と接すれば、乙と丙の二房の間には必ず一壁がある。すなわち、この三壁三方から相合することで堅固な柱となる。そのため房ごとに六つの柱を持つことになる。房底はどうかというと、その中心は少し窪み、そこに後面の房の柱がある。壁が三方に分かれているため、底は三房に連なり、壁は【四十一頁】六房に接する。底の窪みは、一方の高まりの一部であり、前後六壁が交互おたがいに利益がある最も学理に合う妙霊の造構であることを知るべきである。
 
 
第十二図の「イ」「イ◯」は台であり、「イ◯」は少し異常であるが、「イ」は十分に成就したものとひとつも異ならない。下部に数多くの小房があり、その小さなものは働き蜂の房であり、大きいものは雄蜂の房である。ともに五分の一程度は実物よりも大きい。働き蜂房は径がおよそ一分五厘、深さが四分くらい、雄蜂房は径が二分で深さは四分強であるので、雄蜂房を五個造る場合は一房が必ず不正形のものがある。蜜および花粉房は別に設けるのではない。ときに便宜にともない、働き蜂・雄蜂の空き房に塡充する。
 

【四十二頁】
 分封

毎年八十八夜から六、七月に蜂群が繁殖すると、蜂王はこの後の危害を慮って自分の一部分の働き蜂を引率して古巣を出て、他に新殖民を行う。これを分封という。俗に子別れといえるものである。初めの分封は旧蜂王が自分から位をゆずるものであるので譲位というべきではないだろうか。その順序を述べるために、一陽来復(よくないことが続いた後にいいことが巡ってくること)に春がきて働き蜂が外役に従事し始めれば、蜂王はしきりに働き蜂を産み、もっぱら蜂群の強盛を図る。これらの働き蜂が出生して狭いと感じるようになると、雄蜂を産む。働き蜂が雄蜂房を造営するとこれに産卵するのか、もしくは蜂王が雄蜂房の必要を促すかはわからないが、これに続々と雄蜂が出生する。あれ(働き蜂?)は速やかに王台を造営し、台は【四十三頁】雄蜂に出生によって催促されるようにも思える。雄蜂のみを産む蜂王を入れるときは、続いて台を築造する。台は十三、四個前後造るが、これに産卵するのは八、九個である。「サーブリア」種などは一時に五十ないし百余の台を造るという。蜂王は日を差えて(?)これらの台内の一隅へ卵を産む。卵を産む様子はよほど鄭重で、一説に他の卵を産むより二、三倍の時間を要するという。最初に生んだものが孵化して三、四日になる頃、蜂王は続々と新王が出ることを恐れ、これを未発のまま滅亡させようと試すが、働き蜂によって遮られ、以前と異なる虐待を受けるため、失意しついに自らの位をゆずることを決心するようである。蜂群には唯一の王がおり、もし新しく蜂王が出ることがあれば、二王は必ず【四十四頁】争闘して一方は倒れることになる。そうならなければ自ら巣を逃れる。若蜂王は最も活発であるのに反し、旧蜂王は体が重く挙動が遅々としているので、両者の争闘は必ず旧蜂王に不利となる。そのため前もって新王を出生することを悟り、あわてふためいてそれを撲滅しようと図るのである。しかし働き蜂は常に厳重に王宮を守衛し、王の反逆を制することによってはじめて譲位の念を起こす。ただし、このとき働き蜂と雄蜂は分封をさかんに促す。
晴天の朝、いつもと変わって蜂の出入りが多くないとき、午前十一時から午後一時までの間に蜂群がにわかに騒がしくなりはじめ、巣外に突出する。あたかも火急の事変が起こったかのように衆蜂が乱れ飛ぶが、わずかに巣箱の周辺数尺の範囲にとどまる。しかし多くは巣門の外に群がって集まり、ただ騒ぐだけである。このとき、なお一層火急に【四十五頁】突出するのものを見るべきである。それは蜂王が出ようとする合図である。蜂王は衆蜂が出て八分ほどして後から出るのが決まりである。蜂王が出て近傍の木の枝で休息すると、衆蜂はすぐにこれに集塊し始め、静かになる。しかし巣門の外で逡巡し集まっていた若蜂は巣内へ戻る。その発初から沈静するまでは三十分内外である。衆蜂が乱れ飛んだ後、集団をなしても蜂王が出ない場合は、衆蜂は再び旧巣に帰る。分封の際、「ポンプ」のようなもので空中に噴水を飛ばすとうまく鎮静して速やかに団結する。この方法は従来本邦・外国ともに行ってきた。第一の分封は孕んだ蜂王であるので空中高く飛ぶことはないが、第二以下の分封は蜂王の体が軽く活発であるので、水を飛ばすことが必要である。
【四十六頁】第一分封の後、八、九日たって巣内に一種の鳴響がおこる。朝夕の衆蜂が鎮静であるとき、耳を巣箱に接するとおよそ一分ごとに「ビ・ビーンー」というような異なる響きが聞こえる。そういうときは翌日必ず第二の分封が発生する。第二分封後、二、三日して第三分封がおこり、翌日また第四分封がある。一個の蜂巣から第四分封まで起こることは本邦ではまれだが、外国では第七、八回の分封が起こることもある。第四分封の頃には数多くの蜂王が一時に出房して互いに相打ち、かつ若蜂王でまだ巣内にいるものは台を破って未熟なまま引き出し、これを殺すなど巣内は一番の殺戮の時期となる。ついに優勝者の独り占めになると、彼らのいわゆる天下泰平の代となるに違いない。大群は第三、四の分封が起こって蜂の数が大いに少なくなってしまう頃に【四十七頁】なると、十分に王台を守衛することができなくなる。そのため蜂王は随意に王台を破壊し、他の王族を滅亡させて鎮静させる。蜂王で正しい順序で台を出たものは台の蓋を開くが、破壊されたものは台の下、または横に穴があく。
集塊した蜂群は三、四時がたつとほかに引っ越し、最終的に適した場所を選んでそこに新殖民を図る。あるいは分封前に働き蜂はあらかじめ適した場所を探索するという。これは事実に近い。なぜなら分封の頃は諸所の隅に蜂の巣を探す様子があるからである。分封を起こす理由は、前述した通りであるので、数々蜜を採収したりあるいは巣を広げるなど、分封を遅滞させる方法である。それに反し、巣を狭溢にしてこみあわせ、熱気をおこすのは分封を促す。分封の気、すなわち分封熱が起こる【四十八頁】ときは、ほとんど隔日で王台を壊し、続いて王台を造る熱気は大変なものである。分封熱とは、働き蜂が諸工事を停止して腹にいっぱい蜜をため、ほとんど透明になる。もしこのとき分封しようとしなければ、三、四日ごとに王台を壊すべきである。多分に蜂王が欲しいと思うなら、なるたけ速やかに分蜂熱を促して王台が蓋をするのを待ち、これを他に写すか、もしくは切り取って鉄網の小籠に入れて巣脾の間に置く。そうすれば他の蜂王に殺害されることはない。あるいは、冬月に思いがけなく分封するときがある。これは飢餓のためか、鼠害などにあったときに起こる。本邦の蜜蜂では、八十八夜の頃に分封した七月初旬に、第一分封の蜂群から第二分封熱を発することがある。俗にこれを孫別れという。これは西洋種では聞かないことであり、最終的に本邦種は大群にはならずに【四十九頁】耐えられるのはこのためであろう。
【五十頁】(白場)
【五十一頁】
 下編
  養蜂管理


上編では蜜蜂の性質および歴史に関して大要を述べた。養蜂者たるものはよくその学理情性を知らないため、実地の管理上で無用の労費が必要になるだけでなく、往々にして失敗をしてかえって被害を受けることがある。蜂は靈虫(?)である。人がこれに向かって一事を加えれば、必ずそれに応じて一事をなす。蜂の勤惰盛衰は管理者の所置によって、立ろ(?)に顕著である。私がひそかに察するところでは、従来我が国で行われてきた諸々の方法を西洋諸国の慣行法と比べると、経験が長いため左程の径庭(けいてい/へだたり)なく、往々にして大いにそれに勝るものがあることを発見した。なので独【五十二頁】(?)、養蜂のことに関しては管理の方法がまったく異なるために収蜜の量に大差があることは、太古から野生の穀菜を収めるのと、今の世で精農の上での収穫と(比べるようなものだと)いうべきか。これは最終的に、蜂の性質を研究して学理を応用していることによる。世の実業家で此の書を読み、彼我の養蜂、蜂の管理法について悟るところがあれば、学理の実業に必要なのは啻(ただ)養蜂だけにとどまらないことを知るべきである。以下述べる所は、実地養蜂の管理心得であり、学理を応用するものにほかならない。

種巣

養蜂を始めようとするものは、まず種巣を求める必要がある。西洋でほめたたえられるイタリア種はもとより良いが、養蜂初心のものは十分な効益を感じないだろう。もし手近に【五十三頁】これを求めようとするならば、先年、武田昌二氏が米国から得た原種が小笠原島にあるので、該島から得るよりよい手段はない。しかし私の経験によれば、我が在来種も毎年四、五貫目位を得るのは容易であろうと信じる。従来二、三箱を飼養するものは、分封の際に代金を使わず一、二群を分与する。しかし第二分封以下の蜂群は蜂王が未妊であるので、およそ三十日位は其の地に置き、すでに交尾した蜂王が卵を産み、働き蜂は花粉を集めるのを観察し、かつ途中で運搬の間に食料に供するだけの蜜を蓄えた後に送るべきである。道路が不便な国柄であれば、なるたけ近傍から求めるのがよい。おおむね山間の村落に入って探索すれば、意外なところに飼養するものがあるだろう。九州諸地・長門・甲斐・信濃・熊野あたりは今、飼養者が多い。これらの地方においては、山中古木の洞内に自然結【五十四頁】巣したものがある。これを取ることもできる。その方法は次章で述べるとしよう。このような山野の地においては、従来酒の空樽を諸所の木の枝にかけ、自然とこれに入って巣を営むものを持ち帰って家で飼養する。およそ巣箱を運搬するのは夏月が良便である。何故ならば、冬期は蜂が蟄居しており痛みやすく、かつ巣脾がもろく壊れ易いからである。従来の固定巣箱であれば、一分目(≒3mm)以下の金網で巣門を張り、改良巣箱すなわち転換巣箱であれば蓋底板ともに螺旋釘で固定し、巣脾框(巣脾の枠)にも釘を差して動かないように注意し、もし貯蜜が乏しければ食物をつくって巣内に入れて置く。このように注意し、途中の汽車・汽船の外では運搬人にも注意させるべきである。

  山中蜂巣を探索すること

【五十五頁】蜜蜂の五官は大変鋭敏であり、本草でも薬舗が蜜の真偽を鑑別する際、これを煎じてどこかから蜂が飛んでこればそれが真であると判断すべきである、とあるように、嗅官も非常に鋭敏である。よって、山中で蜂巣を探す前に、その山中に蜜蜂が生息するか否かを知るために、蜂蝋を焼蒸する。蜂がもし生息していれば、二、三匹は来て必ず周囲を飛翔する。蜜蝋の匂いを嗅いで蜂が集まることは、私も巣礎をつくるために蜜蝋を溶かすとき、数々実験した。そうしていよいよ蜂が生息していることがわかれば、近傍の草花につき、蜜蜂が花粉もしくは花蜜を採集しているのを検分する。蜂は採収が充分になると自分の巣をさして一直線に飛び去るものである。これを蜂線という。西洋で山中の蜂巣を探知するのは、この蜂線というものによる。すなわち、甲所で蜂線【五十六頁】を見たら、その位地の異なるところで乙の蜂線を得、続いて丙丁の三、四線を得て、その各線がだいたい相合するところ、すなわち集点となるところに蜂巣があると知るべきでる。既に蜜巣の所在を探知し、もし木の洞内にあれば、初めはその入り口から煙を入れて燻す。山猟を業とする輩は砲煙を一発放入し、しばらくその口を閉鎖して充分に蜂を燻酔させた後、木を伐り、または一部を切り開いて蜂群を箱または樽に移し、その巣脾をも採収する。砲煙を放入するのは、蜂の恐惶が非常にはげしいからである。養蜂家は燻煙器(第十三図)一個を調整するのが便利であるので、此の器を使って煙を吹き込むのは大変よい。もし調べ難いときは、木の腐朽したもの、または木綿切れのボロに火をつけ、巣門のところでこれを燻煙し、扇で煙を巣内に入れる。このように燻すときは、【五十七頁】蜂は燻酔して針刺することを忘れるものである。もし巣脾が必要ないならば、その木を打ちたたき、蜂群を巣門の外に逐(お)い出す。ただし、これは大変時間を要する。蜂を樽または箱に移すには、充分に口を開き、蠢団上を掩(おお)って逆さまにし、養蚕の掃立(はきとり)に使う羽根を使って、蠢塊の下部から蜂を箱中に逐い込む。私は茶摘みザルを使うのが軽便であると考える。ザルに入った後はこれを風呂敷の上に伏せ、その端を結んで持ち帰る。巣脾はなるたけ損じないよう、丁寧に取り扱わなければならない。岩石の間で巣を営んでいるものは、同じように崩壊させてはならない。