佐藤武久のブログ 「日本・モンゴル往来日記」 -144ページ目

花だより コスモス(秋桜)

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2009年9月6日(日)記

花だより コスモス(秋桜)

花だより アマランサス

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2009年9月6日(日)記

花だより アマランサス

背丈は2メートルを越えていますが花はまだ咲いていません。

羅漢果の成長記録-7 天まで届け!

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2009年9月6日(日)記

羅漢果の成長記録-7 天まで届け!

古い羅漢果の弦は杉の枝を伝って天を目指して伸びています。
実生の今年の苗に較べ、弦も太く葉も大きくキュウリの葉に似ています。

棚田の復元-6 刈入れ時期

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2009年9月6日(日)記

棚田の復元-6 刈入れ時期

出穂から40日というのが目安だそうです。
今年の夏は日照時間が少なかったのでそれより2,3日長くなるようです。
出穂が8月7日なので9月20日頃から稲刈りとなるでしょう。
もちろん、手刈りです。

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(3)」

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「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(3)」
---叔父清次郎のこと---

 東京に出て叔父は夜学に通いながら電設工事の仕事を始めました。田舎の鶏鳥小屋とかわらないような小さな掘っ立て小屋に「佐藤清次郎」という表札が掲げられました。「表札だけは日本一大きい」と写真の裏にメモ書きがあり、それだけが叔父の自慢でした。
 時々、父への近況を伝える手紙に、私に宛てて、「後楽園球場に工事仕事に行って志村アナウンサーを見た」とか書かれていると、当時野球少年だった私はそのことを得意になって友達に吹聴しました。

 それから何年たったか、30歳を半ば過ぎた頃かもしれませんが、叔父は北区の東十条に新しい家を構え、図書館で働いていた東京育ちの女性を嫁さんにもらいました。
 中学三年の修学旅行で東京に行ったとき、叔父はオートバイに乗って宿泊先の旅館を訪ねてきました。引率の先生に挨拶した後、叔父は私を連れ出しました。オートバイの後座席に座って振り落とされないように叔父の腰にしがみついて東京の街を走りました。オートバイの加速の感じも初めての体験だったので、怖いようでもあり、また、痛快でもありました。



 叔父の新しい家は、玄関前に直径50センチもあろうかと思われる大きな欅の木があり、二階の窓近くまで新緑を拡げていました。私の田舎の旅館よりも立派に見える二階建ての新しい家でした。

 その家の二階にある部屋に案内されて、お嫁さんと最初の対面をしました。お嫁さんは、生まれて間もない赤ん坊をおんぶしていて「ようこそ、いらっしゃい」とさわやかな東京弁で挨拶をしました。当時、この上もなく内気だった私は(前にも書いたように、今でもそうですが)口をもごもごさせるだけで、ろくな挨拶もできませんでした。東京の女性は、田舎の女性と違って、まぶしく輝いているように思われました。
 その時、うな重をご馳走になりました。東京にはこんなに美味しい物があるのかと驚嘆しました。


 田舎に帰ってから、百科事典で、「カッコウは自分では巣を作らず、他の鳥が作った巣にこっそり卵を産み、みよけた雛は、周りにある卵を足で蹴り落として、巣を乗っ取ってしまう」というような内容の記事を見つけました。
 数年に一回、やはり東京にいる父の妹が田舎に墓参りに来たような時に、私は叔母にその話をしました。
 「カッコウは巣を作らないのに、清次郎は自分の巣を作った。清次郎は偉いんだね」と言って笑いました。私が叔父に対する敬意を間接的に表現していると好意的に解釈してくれたのでした。私は、そこまで慮って言ったのではなかったけれども、無意識のうちにそう感じていたのかもしれないと気づかされました。


(つづく)

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(2)」

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「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(2)」
---叔父清次郎のこと---

(写真3:バイカル湖畔でロシア人の子供たちと遊ぶ 2002年7月)

 叔父の私へのお土産は、シベリアで買ってきた革靴でした。革靴の紐穴は、左足が八列で、右足 が七列というようなちぐはぐのものでした。その時は、そそっかしい叔父が、間違えて買ってき たものと思っていましたが、後にモンゴルに来てみて、それはごく普通のことだと理解できまし た。実に、五十年もたって真相が判明したというわけです。


 それでも、当時は革の靴などめずらしい時代で、藁ぞうりで学校に通う子供がいっぱい居ました 。古いタイヤで再生したゴム長靴が五十人のクラスで抽選で二人に支給されるという時代でした。私も運良くその抽選に当たりました。ゴム独特の強い匂いは今でも懐かしく思い出します。


 その革の靴は、普段の通学に使った記憶はありません。そんなことをしたら、クラスメートの注 目の的になり、当時、極度に内気だった(今でもそうですが)私には、耐えられなかったことで しょう。多分、修学旅行とか、遠足とか、結婚式とか、なにか特別の日にだけ履いて行ったった のだろうと思います。

 その年の初冬まで、叔父は父の農作業の手伝いをしながら、今後の身の振り方を思案していまし た。出征前に、神田の古本屋で買って、自分の署名だけして手付かずの受験参考書がいっぱい残 っていて、時間のあるときにはそれを勉強していました。


 「英文之解釈」は当時有名だった小野圭次郎氏の書いたものだったので、私が高校に入ってから大いに役に立ちました。 けれども、「日本の歴史」は、縄文式時代というものがなく、神代の時代から始まっているので大いに戸惑いました。

 叔父はよく大きな声で歌を歌いました。すべて、シベリア、ロシア、ブルガリアなどの歌だったり、インターナショナルの歌だったりしました。「豊かなるバイカル」とこ「ここは遠きブルガリア」とか「シベリアよわれらの大地と青春」と 言った歌詞を私もいつのまにか覚えてしまっていました。後に、ダークダックスというグループが、このようなロシア民謡を歌ってブームを作った時代が ありました。

 叔父は気分が良い時には私になぞなぞを賭けました。「八百屋に菜っ葉を買いに行ったが売り切れてなかった。次に酒屋に酒を買いに行ったがこれも 売り切れてなかった。それなーんだ」といった類の他愛のないもので、答えは「なさけない」で した。
 しかし、当時の私としては、とても良くできた謎々だと思い、学校の教室や学校の帰り道でその 謎々を友達に出して、正しく答えられないのを知って得意になっていました。

 その年の刈り入れも終わって一段落した初冬の頃、叔父は東京に出ることになりました。「東洋におけるスイスの如く・・・」と言うのが叔父が自分の夢を語るときの口癖でした。当時の私には理解できなかったけれども、社会主義の良い所と資本主義の良い所を組み合わせた叔父の考えていた自由で平等な理想社会(ユートピア)のことだったと思います。

 東京に行く前の晩、横座でささやかな送別の宴がもようされました。横座の神棚に明々とろうそくが点され、一升枡には当時のお金でいくらだったかは知りませんが、私の父が工面して集めた軍資金が盛られていました。
 子供ながらも、その時の雰囲気に一種異様な悲壮感というか緊張感を感じ取ることができました。私は、貯めていた小遣いを全部叔父に差し出しました。十円玉が数個という程度のものだったと思います。それでも、叔父は私から押し戴くようにして、それを受け取ると恭しく神棚の枡に入れて、神妙な面持ちで柏手を打ちました。私は、一人前に扱ってもらったことがうれしく得意でした。                      

(つづく)

「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(1)」

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「ゴルバチョフ夫妻と並んで撮った写真(1)」---叔父清次郎のこと---

この写真はゴルバチョフがライサ夫人同伴で日本を訪れた1995年(平成7年)2月3日に東京の新高輪プリンスホテルで開かれた歓迎パーティの席で撮影されたものです。
(写真1:叔父清次郎とゴルバチョフ夫妻)
この写真の説明をする前に、私の叔父清次郎のことを少し語らなければなりません。
叔父清次郎は、父よりも10歳も歳の離れた弟で、父と違い体も小柄で、子供の頃は病弱だったそうです。幼児期にはこの子は育たないかもしれないと思っていたと亡くなった私の祖母が言っていたのを覚えています。

(写真2:右端が叔父清次郎、中央父重雄、左叔母キク)

二十歳の年に出征しましたが、その時の挨拶の声もひ弱げで頼りないものだったそうです。
終戦になってもすぐには帰国できませんでした。シベリアに抑留されていたためです。
祖父の兄弟たちの中には、捕虜になったことについて、影で悪口を言うものもいました。
「俘虜となるよりも死して辱めを受けず」というような考えが大勢を占めていた時代ですから、仕方のないことだったかも知れません。
私が小学校の1年生になった年の昭和24年(1949年)に叔父は舞鶴港に復員して来ました。新潟の実家の庭には、村人が詰めかけ、叔父はその人達の前で挨拶をしました。
挨拶というよりも、演説かアジテーションのような強い口調のものでした。 そのときの声は私の父と同じように良く通るものでした。 村人は、あまりの変貌振りに驚いた様子でした。 叔父の演説の内容は、小学の1年生だった私には少しも理解できませんでしたが、私の家の庭に大勢の村人が集まっているのが誇らしく思われて、縁側の柱にしがみついてその様子を眺めていました。 叔父の演説は、熱気を帯びて延々と続き、いつ終わるとも知れない勢いでした。祖父が堪り兼ねて止めに入り、長い帰国の挨拶は終わりました。 季節は春の遅い頃だったようで、叔父は馬の毛が詰まった分厚いコートを着て、ロシアの帽子をかぶっていました。帰るときバイカル湖で顔を洗ってきたと言っていました。 後に、私がバイカル湖に行って見たいと思うようになったのは、このときの叔父の話の影響かもしれません。

   (つづく)

青汁のレシピ

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2009年8月31日記

青汁のレシピ

7月の初めに播いたコラード(写真3)とケール(写真4)が収穫時期に入りました。
生葉を摘んで青汁を作ってみました。

コラードの生葉 100g
牛乳      100cc
蜂蜜      少々
オリーブ油   5cc

以上をミキサーで攪拌


参考資料:タキイ種苗 野菜前線
http://www.takii.co.jp/CGI/tsk/shohin/shohin.cgi?breed_seq=00000090&hinmoku_cd=ACA&area_cd=5&daigi_flg=0

花だより ひまわり(向日葵)

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2009年8月8日(土)記

花だより ひまわり(向日葵)

同じ大輪種であっても種をまく時期や移植の時期によって幹の太さが違う。
しかし、大きい幹も小さい幹も花の咲く時期には相応の花を咲かせている。
それにしても、こう雨の日ばかりでは、向日葵もかわいそう。

西瓜の子供

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2009年8月8日(土)記

西瓜の子供

最初になった実はみな狸に食べられて、今はこんな小さい実が成っています。