新・英語の散歩道(その19)-「日本の思想」を読む③-「神道」と「実感思考」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

丸山真男の「日本の思想」に関して、本Articleでは日本の「固有信仰」である「神道」「実感信仰」について整理し、同書についての記述を完結させる。

 

「神道」については本居宣長と荻生徂徠の二人の考え方が紹介されている。

 

本居宣長は儒仏以前の「神道」の思考と感覚を学問的に復元しようと試みた。それに対して荻生徂徠は、神道のイデオロギー(教義)について、神道には人格神にせよ非人格神にせよ、究極の絶対者というものは存在しない、すなわち開祖も経典も存在しないと指摘した。

 

……「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めて来た。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、先に述べた日本の思想的「伝統」を集約的に表現していることはいまでもなかろう。(p.23)

 

これに対し、宣長はこの不存在を認めざるを得なくなり、終には開き直り、あらゆるイデオロギーは虚偽なのだ、すなわちあらゆるイデオロギーの拒否を導き出した。

 

丸山は、この宣長のイデオロギーの拒否により、国学特有の非論理的、感覚的な思考様式が、徳川時代の一国学の範囲を超えて、明治以降の日本人の思考様式を束縛したと考えた。

 

 

丸山は、その束縛の例として日本の近代文学を挙げている。

 

日本の近代文学は、「いえ」的同化と「官僚的機構化」という日本の「近代」を推進した二つの巨大な力に挟撃されながら自我のリアリティを掴もうとする懸命な模索から出発した。(p.59)

 

丸山は、この束縛の与件として、

①感覚的な語彙が多い反面、論理的な語彙が乏しい日本語の言葉としての特徴

②日本語の特徴にも関連して「心持」を極度に洗練された文体で形象化する日本文学の伝統

③合理主義や自然科学の精神を前提に持たない日本のリアリズムの性質など

④日本の文学者が官僚制の階梯から脱落者や家・郷土からの遁走者のような「余計者」として認識されたという事情

を挙げている。

 

丸山は、この国学的思考様式やその日本文学への影響により、日本的思考は、荻生徂徠的な合理主義(「理論思考」)の芽が摘まれ、魑魅魍魎の世界へはまり込んで行ったとしている。また、このような日本的思考の特徴を「実感思考」と名付けた。

 

この「実感思考」の同時代の第一人者として、丸山は暗に小林秀雄に言及している。ここで小林秀雄が出てきた。

 

 

 

「日本の思想」は結局のところ「日本には厳密な意味での思想といえるようなものは存在しなかった」と結論付けている。それを、何故存在しなかったかと言うと ………… について、神道に始まって、徳川時代の国学(本居宣長と荻生徂徠)、明治以降の日本文学、さらに小林秀雄へ至るまで歴史的かつ論理的に説明している。従って、同書の中で言及されている様々な思想家や学者の文献や思想に対する深い知識無くして、結局同書の内容を真に理解することはできない。以上が本書を読み切った私の感想・結論である。