新・英語の散歩道(その17)-「英文解釈難問集」に挑戦-キャンディーズ「わな」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

英文解釈関連の本はあまり持っていない。①「英文をいかに読むか」(朱牟田夏雄著・文建書房1959年)、②「英文解釈難問集」(学生社編集部編・学生社1978年)くらいである。いずれも受験で使ったわけではなくしっかり読んではいない。

 

 

 

 

昨晩②をボーっと眺めていて結構難しい問題が掲載されていることを知った。とくに難しい問題には*、さらに難度の高い問題には**を付しているという。

 

 

**の付された問題の和訳に以下のとおり挑戦してみたい。

 

 

(問題)

In a society devoted wholly to labor, leisure would be thought of as merely rest or spare time: if there is continuous leisure, it becomes idleness or distraction. Idleness and distraction are reactions against the unpleasantness or dullness of labor: they make up for the time wasted on work by wasting time in other ways. A life divided only between dull work and distracted play is not life but essentially a mere waiting for death, and war comes to such a society as deliverance, because it relieves the strain of waiting. It is generally realized that idleness and distraction are very close to the kind of boredom that expresses itself in smashing things, and hence there is a widespread feeling, which is at least a century old, that mass education is needed simply to keep people out of mischief. This is not a very inspiring philosophy of education, nor one at all likely to effect it purpose. (京都大学・1978年以前)

 

 

(拙・英文和訳)

人々が全面的に労働に専念する社会では、余暇は単なる休息または空き時間とみなされる。継続的な余暇があれば、それは怠惰または気晴らしとなる。怠惰と気晴らしは、労働の不愉快さや鬱陶しさ対する反応である。怠惰と気晴らしは仕事で浪費された時間を、他の方法で同じように浪費することにより埋め合わせる。鬱陶しい仕事と気晴らしのための遊びにのみ分割された人生は本当の人生ではない。それは実質的には単に死を待っているだけのことに過ぎない、戦争はそんな社会に「救出」として訪れる。何故なら戦争は待つことに対する緊張感を和らげるからだ。怠惰と気晴らしは、物を破壊することにより表現されるある種の退屈さに非常に近いことが一般的に理解されている。そしてそれ故、少なくとも1世紀も前から、人々にそうした悪さをさせないように大衆教育が必要であるという考え方が広まっている。この考え方は、決して人々を鼓舞するような教育の原理でもなければ、教育の目的を達成するようなものでもない。

 

※和訳がとくに難しいだろうと感じたところに下線を付した。

 

まあ、辞書なしに受験の緊張感・短時間の中で上記のような文を和訳するのだから大したものだ。頑張れ!受験生!