続・英語の散歩道(その42)-ネイティブチェックと「絶叫マシーン」の通訳 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

その他2011年に行ったのは、元・NOVA講師のジェームスとネイティブチェックの委託契約を締結したこと、またUさんが住友金属工業㈱で知り合った女性通訳者2名をS社のフリーランス翻・通訳者として登録したことなどである。自分なりに少しずつS社の翻・通訳の人材の補強を開始していた。

 

 

ネイティブチェックについてはサン・フレアやサイマルなど大手翻訳会社ではすべての翻訳製品について行っているが、S社ではあくまでもオプションであり、依頼主が希望する場合のみ実施していた。それ一つをとっても品質管理が杜撰だった。

 

まあ、日鉄エンジニアリングや日鉄プラント設計など「身内」からの依頼は、兎も角も「納期」が最優先であり翻訳品質が二の次になっていたことも事実だった。

 

我々が納期ギリギリでどうにか納品した成果物を顧客サイドでチェック・修正して使用するケースも多く品質について「ぬるま湯」的な体質が沁みついていた。顧客にそれなりの英語力があったこともこの体質を助長していた。

 

 

2011年12月の翻訳・通訳の忘年会には、私が幹事を担当し主たる登録翻・通訳者を招待した。時期はクリスマス直前の金曜日、場所は西小倉の「食楽庵 ふる川」、ふぐの専門店だった。このとき初めてUさんが連れてきた女性通訳者2名と顔を合わせた。

 

 

 

このうちの一人が安田火災・北九州支店での勤務経験があり少し話をした。短大卒で安田火災に入社、北九州支店で営業事務を担当した後に退職、一念発起してカナダに留学して英語を勉強し通訳者となっていた。九大・大学院で比較社会文化学の修士まで取得していた。

 

彼女は営業店時代に事務本部でのオンライン研修の経験があるなど共通点も多く話が合った。「それにしても安田火災はすごい会社でしたねぇ ……」が我々二人の結論だった。

 

残念ながら、彼女がS社の通訳の仕事をすることはあまりなかった。アメリカの何処かの州に渡ったと聞いてからもう7~8年になる。

 

 

なお、もうお一人の女性通訳者MBさんとは、以後も長い付き合いになった。記憶に残っているのは既に閉園したスペースワールドの通訳である。通訳の相手方はドイツのメーカーだった。絶叫マシーンの車両の営業だという。「通訳は英語で構わない」というのでたまたま空いていた彼女を割り当てた。

 

 

翻訳日当日の午後12:00過ぎ。スペースワールド近くのホテルで、仲介の商社およびドイツ人の営業マンに彼女を紹介して引き渡した。通訳作業を終えた16:00過ぎに彼女をスペースワールドまで迎えに行った。

 

通訳自体は技術的にさほど難しいものではなかったようだが、彼女に「絶叫マシーンに乗った?」と尋ねると「もちろん!乗りましたよ!」との答えが返ってきた。

 

さらに「乗っている間も通訳したの!?」と尋ねると「できるわけないでしょ!」という答えが返ってきた。まあ当然と言えば当然の答えだった。

 

実は、彼女は絶叫マシーンが嫌いではなかったようで事なきを得たが、別の通訳者であればどうなっていたかわからない。例えば70代男性のUさんを割り当てていたら果たしてどうなっていたことやら …… !?

 

 

 

1980年代後半「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」という番組があった。その中で爺さん連中をジェットコースターに乗せて反応を楽しむという悪趣味な企画があったが、そんなことを思い出していた。

 

 

 

まあ通訳業務とは、概してそのようなリスクを孕んでいるものである。