続・英語の散歩道(その37)-「工業英検」への挑戦 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

翻訳の師匠のGさんは、日鉄プラント設計㈱(NPD⇒2021年4月日鉄エンジニアリング㈱に吸収・合併)の若手エンジニアに対して「技術英語」の講習・指導を行っていた。

 

講習は原則週一回で若手エンジニアたちからは「G先生」と呼ばれていた。この講習の最終ターゲットとされていたのが「工業英検2級」(現・技術英語能力検定)だった。

 

講習担当部門の一員として「工業英検2級」を取得する必要があると判断し「受験したい」旨、Gさんに話をした。TQE金融・経済の再受験も考えていたが「工業英検」を優先した。

 

いずれは講師を担当することになるだろうし「落ちる」わけにはいかなかった。Gさんの面子を潰すことになるからである。

 

 

当時の「工業英検2級」は古風な試験だった。英文和訳の他はテクニカル・ライティングが中心で英文の結合・書き換え、和文英訳などが課された。また「辞書を2冊まで持ち込み可」という試験だった。これは科学・技術分野の語彙が多岐にわたることが理由で、高専や大学理科系の英語試験に近いものだった。

 

 

辞書は本試験で定評の高い語彙が豊富な「グランド コンサイス英和辞典」と「グランド コンサイス和英辞典」を会社費用で購入してもらった。これらの辞書2冊を持ち込むだけでもリュックが必要になった。

 

それよりも一番大変だったのは「手書き」で英文を書くことだった。パソコンばかりで手書きなど全く慣れていなかった。またこの時知ったのが、いわゆる「ゆとり教育」により中学校・高校で筆記体を教えなくなったことだった。文科省もバカな政策をとったものだと思った。

 

そんなことは気にせず、とにかく筆記体の手書きをGW返上でひたすら練習することになった。

 

 

かくして2011年5月29日(日)。「工業英検2級」を受験した。試験会場は博多駅・博多口の朝日ビルだった。手ごたえは「楽勝!!」だった。翻訳経験者にとって辞書が使える試験で怖いものなど無かった。

 

 

翌2011年5月30日(月)。会社に着くとGさんやUさんに「工業英検どうだった!?」と聞かれた。「悪意がある採点官でない限り絶対大丈夫です!」と答えておいた。

 

 

それから1か月後の2011年6月29日(水)。「工業英検2級」の合格通知を受け取った。これで工業・技術英語の登竜門を通過した。第一分野の「法務・契約書」、第二分野の「金融・経済」に加えて第三の分野として「工業・技術」を専門とする下準備ができつつあった。