効率化の牙城にて(その11)-三つの懸念と「メトロポリスの片隅で」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

ちょうど今頃の季節に詠んだのではないかと思われる歌が百人一首にある。

 

No.87 「村雨の露もまだひぬ槇の葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮れ」(寂蓮法師)

 

「村雨」とは「しきりに強く降って来る雨」のことで「驟雨、白雨、繁雨」とも呼ばれるようである。何となく歯切れが良くて子どもの頃は好きな歌だったが ……、意味はさほどスカッとしたものではない。

 

(現代語訳)

にわか雨が通り過ぎた秋の夕暮れ。その露がまだ乾いてもいないのに槇の葉にはもう霧が立ちのぼっている。

 

この歌は、淡々と移りかわる秋景色を見つめながら時の流れの儚さを詠んだものである。やはり今の季節にぴったりだ。

 

(英訳)

An autumn eve:

See the valley mists arise among the fir leaves.

That still hold the dripping wet of the chill day's sudden showers.

(Quoted from University of Virginia Library Japanese Text Initiative)

 

 

閑話休題……。安田火災の頃のアルバムを見ていた。19869月下旬の課内旅行の写真に目がとまった。そこにはT課長の下で一緒に働いた上司や同僚たちの懐かしい姿が写っていた。場所は群馬県の「伊香保温泉」、私は薄めの青いセーターを着ていたが季節的には少し早く思えた。

 

この旅行の幹事は新内一課からの同期のNMだった。彼は上に対してもはっきりとものを言う優秀な男だったが、その後40代後半に自ら命を断ったと聞いた。電算オンライン課勤務時は随分助けてもらった。この場を借りてお礼申し上げるとともにご冥福をお祈りしたい。

 

 

アルバムの次の写真は「十和田湖」だった。システム部の同期、OAの披露宴に出席するため青森県・八戸に行く前々日・前日と同期3名で十和田湖畔に泊ったときの写真である。時期は10月上旬。奥入瀬渓谷を歩いたり遊覧船に乗ったり、また湖畔で食べた鮎の塩焼きが絶品だった。それにしてもこの写真、湖に浮かぶ島を背景に全員がなかなかの好青年に写っている。カメラマンが上手かったのか、私含めて被写体が良かったのか ……?

 

八戸では結婚式の引出物として当時「重たいもの」が好まれたようである。それに加えて、同期(新郎)のお父上が陶器関係のお仕事をされていた。この帰途、行楽帰りで満員の東北新幹線の中、旅行鞄・礼服と引出物の重たい「壺(?)」を抱え往生した記憶が残っている。

 

1986年の後半、公的なもの私的なものを含め結構あちこち足をのばしているが、会社の先輩や同期などの結婚ラッシュがこの頃から始まったのもその理由かも知れない。

 

 

そんな1986年の下旬、いくつかの懸念が私の心に生じていた。その一つ目は、現行のCANONの漢字プリンターの老朽化が進んでいたがソフトウェアの互換性がある後継機種が無かったこと、これにどう対応したらよいかという懸念。

 

二つ目は、社内の何処からか「新計上システム」という巨大な規模のシステムの開発が囁かれ始めており、それに自分が対応できるのかという漠然とした不安。また開発の主役でないからか「面倒臭いなぁ~」という傍観者的な感情。

 

そして三つ目。これが最大の懸案だったが、現在の情報システム業務に携わって3年半が経過し、損害保険の本業から全く離れてしまったこと。そんな自分が果たして今後も「営業第一主義」の安田火災という損害保険会社の中を泳いでいけるのか、という懸念だった。

 

 

第一の懸念、「CANONの漢字プリンターの後継機」については、会社の漢字(帳票)システム全体について部長席スタッフも検討を重ねており、日立の漢字プリンターが導入されることがほぼ決まっていた。CANONの漢字コードはJISコードだったが日立の漢字コードはKEISコード、また日立の漢字システムはHPF(Hitachi Print Facilities)と呼ばれていた。

 

KEISコードはJISコードに16進数(ヘキサ)の”8080“加算したもので、例えばJISコードのブランク”2121”であれば”8080“を加算して”A1A1”となる。まあ、これは簡単な変換だったが、現行のCANONのソフトFGLで作成された全てのフォーム(帳票)を、日立の新しいソフトで作り直す(移行する)という大きな負荷の作業が予想された。また、アプリの帳票作成システム自体をHPF仕様に変更する必要もあった。

 

本件の部長席の担当者は大学の先輩でもあったが「もうシステムの移行はやりたくないなぁ~」が正直な気持ちだった。

 

第二の懸念、「新計上システムへの対応」については、課内の「システムチーム+新運用チーム」が主として担当しており、彼らの指示に従って現行の運用を再検討・改訂したりしていたが、何となく「下働きしている」感があった。まあ、お世話になった先輩方が構成されたチームなので仕方のないところもあったが、面倒な作業が降りてくる(依頼される)こともあり、次第に「システムチーム+新運用チーム」を「目の上の瘤」のように感じることが多くなっていった。

 

第三の懸念については、当時の会社の人事システムに「専門職制度」があるわけでもなく簡単に答えが出せるものではなかったが、この懸念はそれ以降もずっと私の心の中で燻り続けることになった。

 

 

松任谷由実のアルバム「DADIDA」は19851130日発売だが、よく聴きいたのは1986年の後半以降からからだった。

 

アルバムの5曲目。「メトロポリスの片隅で」はシングル・ガールが主役だが、当時、何となく自分に重ね合わせてよく聴いていた。果たして何を夢見ていたのか ……?