効率化の牙城にて(その12)-業務の急展開と「牡丹鍋」の宴 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

198610月、電算オンライン課に新人男子3名が配属された。1名はシステム(OS)チーム、残り2名が運用管理チームに配属された。2名のうち1名はスケジューラー・チームのSKの下、もう1名はプロセス・チームに配属された。残念ながら私の直下に新人は来なかった。

 

OSチームに配属された新人は、関西の国立大の経済学部卒だったが情報処理論が専攻で第1種情報処理技術者資格を保有していた。また、卒論ではデパートの婦人服売り場のバイトで得たデータを分析して「女性の下着の色と年齢の相関関係」について論じたと聞いた。安田火災にも少しずつ毛色が違った人材が入社するようになっていた。

 

運用管理チームに配属された2名は、最初の後輩であり可愛がりもしたし鍛えもした。当初は2人とも(私がそうであったように)想定外のミスをしでかした。だが、運用管理チーム自体が若返り雰囲気も楽しくなっていった。「新計上システム」という言葉のプレッシャーが日々強くなる中、飲み会の頻度も増えていった。

 

1986年末、同期の「いいとも会」(何処かで記載する予定)のOYが帰省中の広島から小倉に遊びに来た。私の自宅に一泊して市内を観光して帰っていった。後で振り返れば、この頃が嵐の前の静けさのように、最も穏やかな時期だったのかも知れない。

 

 

1986年のレコード大賞は、中森明菜が「DESIRE-情熱-」で2年連続で受賞した。だが、この曲の歌詞にあるような「♪♪…… まっさかさまに堕ちて DESIRE 炎のように燃えて DESIRE ……♪♪」みたいな業務の急展開が、翌1987年から始まることになった。

 

 

 

最初は1987年1月中旬に発生した精算システムの大トラブルだった。トラブルの内容は詳しくは知らない。アプリケーション(プログラム)の問題だと聞いた。このトラブル対応のため、他のアプリ担当課から応援人員(プログラマ・プランナー)が精算課に送り込まれた。

 

我々電算オンライン課では、精算課がプログラムの開発や修正ができるようにTSO端末の利用時間の延長を行い、プログラムテスト用のデータ媒体(ディスク・テープ)を割り当て提供した。また、夜間のシステムやデータ媒体のトラブルの対応のため、システムチームおよび運用管理チームの男性が24時間体制で待機するシフト体制を組むなどの支援を行った。

 

土・日の勤務が多くなり、私服のまま月曜の朝を迎え、次のシフトの社員が出社するのを待って帰宅することもあった。帰り道にコンビニなどで食べ物を調達して寮に帰り急いで食べて眠る。起きたら午後4時くらいまでにまた出社する、のような異常な勤務状況が続いた。

 

上司の指示で、栄養ドリンク(グロンサン)を買い出しに行き、精算課に差し入れたこともあった。また、朝まで勤務したある日曜日の午後、寮で寝ていると館内放送に叩き起こされたことがあった。

 

その館内放送とは「只今、〇〇内務部長から、現在、関前寮にいる内務部の社員で手が空いている者は、急ぎ事務本部に行って請求書の発送を手伝うよう指示が発せられました。該当者は対応をお願いします。」というものだった。窓から眺めていると、駐車場で洗車していた若い社員が、突然洗車をやめてそのまま事務本部に向かって車をスタートさせるのが見えた。滑稽でもあったが、まさに「緊急事態宣言」の発令だった。

 

そのトラブルの最中、データ媒体に関して精算課の課員と打合せを持った。彼ら全員が毎日2~3時間の睡眠で勤務している状況だった。その時の会話だが ……、まるで酔っぱらいと話しているようだった。全員が頭が回っておらず言葉もしどろもどろだった。「これじゃぁダメだ!」と感じた。

 

精算のトラブルは、19872月に入ると少しずつ落ち着いてゆき、電算オンライン課の特別なシフトも解除された。トラブルが終息したのは3月に入ってからではなかったか。

 

 

19872月、高校時代の「四人組」の全員が東京・神奈川にいたため旅行を企画した。行き先は埼玉県の秩父だった。秩父で猪鍋(ぼたん鍋)をつつきながら飲んで騒ぐのが目的だった。

 

待合わせはJR三鷹駅北口に朝10時頃だったと記憶している。車で三鷹駅に着くと既にSが待っていた。直ぐにYが来た。それから30分近く待ったがRが来ない。携帯の無い当時、公衆電話からRの寮に電話を掛けた。Rは横浜の新日鐵(現・日本製鉄㈱)の独身寮に居た。電話は繋がったがRは寝起きだった。

 

Rに「とりあえず3人で先に車で行くから、電車などで直接旅館に来い!」と告げ、車をスタートさせた。高校時代のRを思い起せばこんなことはよくある話だった。まあ、彼女とのデートであればこうはならなかっただろうが ……。

 

東京から秩父へのドライブは楽しかった。三鷹駅から五日市街道を経由して国道299号に入り秩父へと向かったはずである。東京にもこんな田舎があるんだ!と思った。夕刻旅館に着き、暫くしてRも合流した。

 

猪鍋も美味かったしよく飲んで騒いだ。Sがその時の写真を後で送ってくれたが、まるで修学旅行のノリで騒いでいた。高校の修学旅行(1975年)から干支がちょうど一回りしていた。