T課長は厳しい方だった。トラブルなどに対していい加減な対応をすると容赦なかった。それは課員に対してだけではなく、アプリ担当課のプログラマやプランナー、関連会社のオペレータ、IBM、日立、CANONのCEやSEに対しても同様だった。
当時、関連会社の㈱安田計算センター(YKC)システム一課がホスト・コンピュータのオペレーションを担当しており、Sという声だけ大きいユニークな課長がいた。彼は我々親会社の若手に対してもまるで自分の部下のような横柄な言葉づかいで接しており、我々も仕方なくそれを甘受していた。
だが、T課長が赴任されて以来、オペレーション・ミスなどがあればT課長はSを容赦なく怒鳴り上げた。Sは震えあがった。我々に対する態度もだんだんしおらしくなっていった。私にはそれが実に小気味よく感じられた。
私も勉強不足や杜撰な対応などでよくT課長に怒鳴られた。悩みの多い日々が続いた。大学時代の親友Hと旅行に行ったとき「課長!それについては …… が原因で …… 云々」と私が寝言を言ったらしく、翌朝「〇〇!お前仕事は大丈夫かぁ?」とHから心配されたこともあった。
そんな悩める日々、T課長にある質問をした。実に稚拙だが「課長!仕事とは何処まですればいいものなのでしょうか?!」と。課長は「〇〇ちゃんの気が済むまですりゃあいいよ!」と答えられた。響きは優しいが厳しい言葉だった。「〇〇ちゃん」と呼ばれたことがせめてもの救いだった。
目から鱗が落ちた。自分が今までベストを尽くしていなかったことに気が付いた。担当業務を「何も自分がわざわざするほどの仕事じゃない」とバカにしていた。そんな態度は一朝一夕で変わるものではなかったが、担当業務の意味(情報システム全体の中での役割)は何か?を考えるようなった。少しずつだがT課長の信頼を得るようになっていった。1986年の夏を過ぎる頃までの半年余りが最も苦しい時期だった。
1986年3月、気晴らしに車を買い替えた。新車は日産の「シルビア」で白とシルバーのツートーンカラーでリトラクタブルライトを備えたもので土・日はあちこち一人旅(ドライブ)をするようになった。最初の遠乗りは山梨県の昇仙峡だった。
この1986年という年はデータ媒体やオフライン機器の世代交代が相次いだ。磁気ディスク装置は3350型から3380型へと進化しMSSは廃止された。ブロックサイズ(BLKSIZE)が19069から47476バイトに拡大された。
磁気テープ媒体についても3480型カートリッジテープが導入された。当面は夜間日次ジョブで使用する運用で、JCLではUNIT=CTAPEと指定するようになった。
トラブルが多かった乾式COMは廃止して外注化した。外注先のR社にはフィルムの品質が高い湿式COMを採用させた。外注化の主担当は私でT課長にサポートしていただいた。この外注化の最初の納品時にトラブルが発生した。品質ではなく事務的な問題だった。
T課長は「初回からなんちゅうことや!」と激怒し、直ぐに担当者を呼べと私に命じた。暫くしてR社から事務担当者の女性が来社した。清楚な感じの綺麗な人だった。彼女は「全て私の責任です!」と只管我々に謝罪した。
このときのT課長の反応が不思議だった。担当者を怒鳴り上げるかと思いきや、課長は一言「まぁ~間違いは誰にでもあるからなぁ~」とだけにこやかに言い、それ以上彼女を追及しなかった。その時「課長もやっぱただの男やなぁ~!」と思った。
1986年後半、トラブルの元凶だった媒体や機器が世代交代により姿を消してゆく中、私が管理すべき対象や範囲が明確になってきた。トラブルに忙殺された時期は終わり「これなら何とかなる!」と心に余裕ができた。T課長のご指導のもと、自分に厳しくなってはいたが、同時にシステム運用業務に微かな自信が持てるようになっていた。
1986年11月。愛車のシルビアで京都まで行った。往路は中央高速、復路は東名高速を利用した。11月後半の3連休、京都は紅葉狩りのシーズンで混雑していた。 天気も好く往路は楽しかった。名古屋あたりから「尾張小牧」ナンバーでマナーの悪い車が多くなった。大阪の「泉」ナンバーのようなものかと思った。
朝、東京を出て夕方には京都に着いた。文学部・大学院に進学していた友人Mの下宿に泊まれれば ……と思っていたが事前に連絡はしていなかった。当時、土日が休めるかさえ直前まで見えなかった。彼の下宿に電話したものの ……、案の定つかまらなかった。仕方なく、よく行った一乗寺のパチンコ屋に車を泊めて炉端焼き「京八」で飲むことにした。
「京八」のマスター、ママさんとは約3年半ぶりだった。お元気な声を聞くことができ、会社のこと仕事のことなどを話した。マスター、ママさんから「○○ちゃん!早よう京都支店に転勤にならはって交際費をうちでたくさん使こうてよ!」と言われた。結局、その夜はパチンコ店の駐車場でシルビアの中で寝た。車に毛布だけは積んでいた。
翌朝、友人Mに連絡が取れた。特に観光地に行くわけでもなく、学生街をぶらぶらし大学の中を歩いたり、よく通った喫茶店に顔を出したりした。
Mに「麻雀したいねぇ~?」と言うとMは面子を探し始めた。Mの文学部大学院の友人一人が見つかった。もう一人がなかなか見つからなかった。午後3時頃 ……、部屋の外にあるMの下宿の電話が鳴った。Mが驚いた顔をして戻ってきた。
Mが私に言った。「○○!電話誰からやったと思う ……?なんとKOやでっ!」と言った。私は「えっ!」と驚いた。KOは経済学部から三井物産に進んだ友人で麻雀仲間でもあった。KOは本山ゼミのOB会で京都に来ていた。千載一遇の面子の自模り方だった。場所は吉田神社そばの雀荘「イワタケ」になった。
Mについては「英語の散歩道(その28)-京洛の友たち①」に、KOについては「英語の散歩道(その31)-京洛の友たち④」に記載している。
なお、雀荘「イワタケ」は以下の記事によると閉店したらしい。私が在学中、京大の学園祭「11月祭」のパンフに「イワタケ」の広告が掲載されていた。その広告のキャッチコピーが記憶に残っている。「授業が済んだら ……、イワタケ!」。何とも嫌味な文言だった。
https://125th.kyoto-u.ac.jp/spot/2/77/
この時の麻雀の結果は定かでないが、混一色系の三倍満を聴牌ったものの感情的にリーチを掛けてしまい和了できなかった記憶がある。その日、KOと私はMの下宿に泊めてもらいKOは翌日新幹線で、私は車で東京に戻った。帰りの東名高速は東京に近づくにつれて渋滞し地獄を見た。寮に帰り着いたのは午前様だった。
時期は1986年11月22日(土)から24日(月)。若き日の無計画な上洛だった。