効率化の牙城にて(その8)-テンプバックと「ミ・アモーレ」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

この1985年という年、入社4年目でもあり業務に追われながらも様々なことがあった。今思えば時代が変わろうとしていた年だった。

 

1985年の初頭頃か、新内一課の同期Nの結婚披露宴の二次会に参加した。場所は横浜の馬車道だった。このNという男、新内一課で「風俗営業部長」とも呼ばれており二次会には多くの同期が参加した。その参加者全員(私を含めて)がNの独身時代の悪行の数々について新婦、新婦の友人、その他親族の前で暴露した。

 

二次会の終了後初夜(?)を迎えるまでNは修羅場を経験したと聞いた。2~3年ほど前、Nご夫婦が今も円満であると知り一安心はしたものの ……、以後もあれほどまでに悲惨な祝宴に参加したことは無かった。

 

 

この年の春先からSPMS関連のトラブルが多発するようになった。当時COBOLプログラムをコンパイルするとTEMP1.LOADLIBという区分データセット(PDS)に目的モジュール(Object Module)が作成されていた。プログラム数の激増に伴い、このTEMP1.LOADLIBの容量がどんどん増えてゆき、毎日凝縮(コンデンス=condense)作業が必要になった。

 

コンデンスは、TEMP1.LOADLIBを、①IEBCOPYでアンロード(UNLOAD)⇒②IEHPROGMで削除(SCRATCH)⇒③IEFBR14でアロケーション(ALLOCATION)⇒④再びIEBCOPYでリロード(RELOAD)という手順で行われており、このジョブをテンプバック(TEMPBACK)と呼んでいた。このコンデンスによりTEMP1.LOADLIB内の無駄な領域が無くなることで空き領域が拡張された。

 

このTEMPBACKのアンロードの最中にTEMP1.LOADLIBを更新した(プログラムをコンパイルした)(やから)がいたようでTEMP1.LOADLIBのディレクトリ(登録簿)のチェーンが破壊されるトラブルが発生した。

 

恐らくアプリのジョブがABENDして、担当者がTSOを立ち上げて急ぎでプログラムを修正しコンパイル・連係編集(LINKEDIT)してジョブをリラン(RERUN)しようとしたものと思われた。これによりTEMPBACKABENDしたが、問題はTEMP1.LOADLIBにアクセスができなくなったことだった。

 

トラブルの発生が午後9:00過ぎだったので私はまだ会社におり、TEMPBACKトラブルの連絡がオペレータから入った。このまま放置すれば、翌朝からのプログラム開発作業に重大な支障を来すことが予想された。もちろん犯人は突きとめなければならないが、それよりもまずはリカバリーだった。

 

この日は、運よく課内のシステムチームの先輩方が残っておられリカバリー方法について指示していただいたが、JCLやユーティリティの恐ろしさを思い知った。結局、リカバリー作業は午前3:00くらいまで掛かった。

 

この頃TEMP1.LOADLIB内の目的モジュール数は28,000程度でTEMPBACKに相当の時間がかかっていた。SPMSシステム自体が開発プログラム数の激増に対応できなくなっており抜本的な改善が求められていた。

 

以後、SPMSに何度かマイナーな改善を実施したが、結局新計上システムの開発の時期(1987年~)に我がSPMS(Source Program Maintenance System)は、PLUSSProgram Level Up Support System)と呼ばれる新システムにリプレースされることになった。

 

 

様々なトラブルとの格闘が続いていたこの年の夏、1985812日と聞いて思い出す方もいるだろう。御巣鷹(おすたか)の尾根の日航ジャンボ機の墜落事故である。この事故で総合システム部の部長代理が殉職された。出張のための搭乗でキャンセル待ちだったと聞いた。後日社葬が行われたが、以後、東京⇔大阪間の出張には原則新幹線を利用するルールとなった。

 

この1985812日は何となく記憶がある。当日、TEMPBACKの変更のため帰りが遅くなることが見えていたので、19:00頃に事務本部近くのロイヤルホストで夕食をとっていた。そこに関連会社の仕事仲間が来て「部長代理が乗られた便が墜落したらしい」ことを聞かされ急ぎ職場に戻った。私のような平社員が直接お話をすることは殆どなかったが穏やかな雰囲気の方だった。

 

 

1985922日。外為の世界では有名な「プラザ合意」だが、以後急速に円高が進行することになった。当時の私は全く無関心でいることができたが「最高学府の経済学部を卒業して金融機関に勤務していながら ……」の発想が何処かで頭をもたげ始めていた。

 

それよりは19851016日。阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝を達成した。狂喜した阪神ファンがカーネル・サンダース像を道頓堀川に投げ込んだり自ら飛び込んだりした。周りに熱狂的な阪神ファンが多かったせいか、私も「にわか阪神ファン」になってしまった。決して彼らには歓迎されなかったが ……。

 

 

198510月、生え抜きのH課長がたった半年で部長席に異動し、T課長が新たに就任された。T課長も元々総合システム部の出身だったが、別名「喧嘩〇〇〇」とも呼ばれた気性の激しい方だった。また、アプリより電算オンライン課(旧・企画第一課)の業務に詳しい方で厳しくご指導いただき、また評価してもいただいた。このT課長の御代が私の安田火災の会社生活の中で最も印象深い時期となった。

 

 

198512月。大方の予想通り中森明菜の「ミ・アモーレ」がレコード大賞を受賞した。私にとって強烈な一年が異国の夜の街に暮れていった。