効率化の牙城にて(その7)-「トラブルウォーズ」の中で | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1984年は慌ただしく暮れた。記憶が確かならば大蔵省(現・財務省)に出向していた大学時代の親友Hと新幹線で一緒に帰省したはずである。新幹線のホームまで彼の同僚の女性が見送りに来た。帰省中の暮れ、小倉でHと映画「ゴジラ」を観た。なお、本件については以下の記事に少し記載している。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12700063292.html

 

舞い上がった気持ちのまま年末・年始を終え1985年が始まった。だが、この1985年、私にとってまさに「試練の年」となった。

 

 

データ管理チームが担当する業務は、テープやディスクなどデータ媒体の管理だけではなくオンラインやオフラインのプリンターなどの管理があった。これが実にストレスの多い仕事だった。

 

当時、コンピュータ・システムのアウトプットと言えば帳票だった。帳票に出力される数字等に不具合があれば、ユーザー(営業店など)は当然に事務本部にクレームをつけてくる。不具合にはアプリのプログラム誤りが原因の場合もあったし、文字化けなどプリンターのハードウェアの障害もあった。このハードウェアトラブルの対応が実に鬱陶しかった。

 

当時のIBMのオンラインプリンターは3211という機種だった。それが10台ほどあり障害が多発していた。IBMCE(カスタマー・エンジニア)のスラグの交換ミスにより誤った印字が出力されるトラブルも起こった。

 

オフラインではCANON社の漢字プリンターが2台、CSC社のラインプリンターが2台、さらにCANON社のCOMComputer Output Microfilm)があった。乾式のCOMは導入されたばかりだったが、オペレーションが面倒なうえ撮影されたフィルムも決して鮮明なものではなかった。毎日のようにトラブルが発生していた。

 

CANONの漢字プリンター(NIP)では、保険証券などの漢字帳票を出力していた。漢字帳票といっても、当時はIBMホストで作成するプリントデータはEBCDICコード(半角英数・記号)のみで、保険証券の書式のみに漢字を出力していた。

 

この書式を作成する言語はFGLForm Generation Language)というCANONのソフトウェアで、IBMホストでFGLを編集・コンパイルしてロード・モジュールを作成し、そのロード・モジュールをプリントデータと連結(concatenate)してテープに出力し、NIPのテープ装置で読ませて漢字帳票を出力する仕組みだった。

 

また、保険証券については積立保険など長期間保管されるものもあるため証券表面にラミネート・フィルムを貼る加工を施していた。この処理からトラブルが生じた。

 

保険証券は顧客に送付されると箪笥や抽斗(ひきだし)などに保管されることが多い。箪笥には防虫剤としてパラゾールやナフタリンなどが入れられるが、このパラゾールやナフタリンとNIPのトナー、ラミネート・フィルムの接着剤が化学反応を起こした。この化学反応により証券上のトナーの印字が溶ける(滲む)という障害が発生した。これには往生した。

 

本社のシステム開発室が音頭をとり事務本部にCANONのトナー部門、ラミネーターの製造元の日本オフィスラミネーター、またラミネート・フィルムの接着剤メーカーを集合させ数回にわたりトラブル対応会議が行われた。

 

会議では、化学変化(化学式)の話が中心だったが、私はもとより、安田火災サイドでこの話の内容が理解できる者は殆どいなかった。様々な実験を試みながら、結局、接着剤の種類を変更することでとりあえずの決着をみた。

 

 

19854月、当時の営業畑出身のM課長が千葉支店の次長に栄転され、事務管理部(総合システム部)生え抜きのH課長が課長に昇格・就任された。課内のプロセス(PROCESS)システムを構築された方である。我々の業務の内容を理解していただけるのは有難いことだが、その一方で管理も厳しくなっていった。

 

1985年に入ってからデータ媒体のトラブル、プリンターの印字のトラブル、COMNIPのトラブルの対応に日々追われるようになった。毎日帰りは夜中、トラブル発生に備えて順番でポケットベルを持たされるなど寮に帰っても心が休まらなかった。完全に自分のキャパシティを超えていた。

 

 

年末に勇気を出して彼女に告白したものの、その後のフォローが全くできていなかった。愛情を育んでいく物理的な時間も精神的な余裕も無かった。まあ、この部門に配属されなければ彼女に会えなかったわけだし、これも宿命かなと思った。

 

 

当時よく観ていたテレビドラマに「スクールウォーズ」がある。主演の山下真司の妻役で岡田奈々が出ていた。私が好きな女優(アイドル)だった。

 

この主題歌の麻倉未稀の「ヒーロー」は、ボニー・タイラーの原曲を含めて、以後私が何らかの戦いに挑むときのテーマソングとなっていった。

 

当時の私は「スクールウォーズ」ならぬ「トラブルウォーズ」の中で日々格闘を続けていた。