効率化の牙城にて(その5)-「10月革命」と迫るクリスマス | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

「新運用チーム」発足直後の1984年の春先、そのメンバーの一人、プロセスチームのチーフが異動になった。郵政省(現・総務省)への出向で、情報通信関連の業務に携わるとのことだった。出向期間は3年と聞いた。

 

これに伴い、後任に住公システム課から4年目のYHさんが電算課に異動になり新運用を担当することになった。アプリケーション担当課の経験があるメンバーの投入は新運用を検討するうえで大きな意味があった。

 

以後、このYHさんには業務・プライベートを含め様々な面で相談に乗ってもらい、喧嘩もしながら、私が安田火災を退職するまでお世話になった。YHさん、直属の上司のSYさん、またその後運用管理チームに配属された後輩たちとはよく飲みに行った。

 

19844月、電算課とオンライン課が統合されて「電算オンライン課」が発足した。これにより、オンライン課の新内一課の同期のNMが加わり1982年組は課内で3名になった。また、19844月付けで新人女子2名、6月付で新人男子1名が電算オンライン課に配属された。

 

電算オンライン課の発足後も、運用管理チーム内での2代目(1981年入社の2名)と我々3代目(1982年入社のSKと私)間の反駁は続いていた。結局、19849月、当時のM課長が我々当事者4名に個別に事情聴取(面談)を行うことになった。

 

その面談の中、M課長は私に「今後データ管理チームをどう運営したいか?」と質問した。私は「スケジューラー・プロセス・データ管理個別ではなく、運用管理チームが一体となってアプリケーション担当課や関連会社に対応すべきだ」という日頃から考えていた構想を課長に話した。とは言いながら……、「年次も下だし経験も短いので、たぶん自分がデータ管理チームあるいは電算オンライン課を出るんだろうなぁ~?」と思っていた。

 

198410月、M課長はSKをスケジューラーチームのチーフに遺留したまま、私をデータ管理チームのチーフに任じた。また、プロセスチームのチーフにはベテランの女子社員を任じ、プロセスチームの現・2代目チーフをシステムチーム・IMSチームに異動した。同時に、データ管理チームの現・2代目チーフを旧・オンライン課・ネットワークチームに異動した。これらの異動はほぼ更迭に等しいものだった。結局、運用管理チームが2名減員し、システムチーム、ネットワークチームがそれぞれ1名増員となった。

 

この異動は電算オンライン課の「10月革命」と呼ばれることになった。今思えば、単なる課内のチーム間の異動であったが、各アプリケーション担当課及びコンピュータ・システムのオペレーションやプログラムの開発を担当する関連会社(安田計算センター㈱)の社員など数百名に影響を及ぼす異動となった。

 

しかしこの「10月革命」、結局私にとっては自分で自分の首を絞めることになった。データ管理チームの1名減員の代償は大きく、以後約1年半、1986年の3月頃まで日々キャパシティを超える仕事に追われ体重は47kgまで減り続けた。減員については自業自得のところもあり泣き言は言えない状況だった。ただ、体重の減少については、帰省したときに母親が「〇〇ちゃん!東京でちゃんとごはん食べとんのね?!」と泣くほど心配した。

 

 

不思議な話だが、こんな忙しい時に限って「モテ期」が訪れる。課内・部内の女性と遊びに行ったり飲みに行ったりする機会が増えてきた。当時、事務本部の敷地内にプールやテニスコート(6面)があり、土曜日の午後にテニスをして夜は食事や飲みに行くケースもあった。

 

そんな「モテ期」の中、課内のある女性が気になりはじめた。彼女は19834月入社の短大卒で私より4歳下の22歳(当時)だった(以後、彼女をKNと呼ぶことにする)。KNはスケジューラーチームに所属しておりSKの部下だった。仕事で毎日のように顔を合わせていた。

 

仕事が忙しくなる1984年の秋から冬にかけて、KNに対する想いは日々強くなっていった。そんなある日、同期の男女4人で武蔵境の焼き鳥屋に飲みに行くことになった。KNもメンバーの一人だった。会社を出る直前、データ媒体関連のトラブルが発生した。MSSMass Storage System)の障害だった。

 

MSSIBMの大容量記憶システムで、磁気テープを巻いたデータカートリッジが蜂の巣のようにテープ・ライブラリに格納された形状のもので、アクセス速度はテープとディスクの中間ほどだったが実に障害が多い装置だった。MSSの障害でいくつかのジョブがアベンドしていた。

 

私はSKに「MSSのトラブルは翌朝でも大丈夫かなぁ……?!実は、今日大事な飲み会があるんや!」と聞いてみた。SKは参加メンバーを聞くと「わかった!明日でいいぞ!頑張れよ!」と言った。この頃SKは既に結婚しており、私とKNの件については好意的だった。以後折に触れて、私はKNの件をSKに相談するようになった。

 

クリスマスが間近に迫っていた。「KNの件!何とかしなきゃ……!何とかしなきゃ……!」と焦るようになっていった。

 

 

当時はまだCDで音楽を聴くことは殆ど無かった。三鷹駅に近くに貸レコード店がありそこでLPを借りカセットテープに録音して車で聴いていた。

 

その頃毎日のように聴いていたのが、発売されたばかりの松任谷由実のアルバム「NO SIDE」のB面の1曲目「破れた恋の(なお)し方教えます」だった。