ドイツ語で「夕方」を Abend という。「太陽」は Sonnen、「光」は Schein、これを繋げた Abendsonnenschein は一語で「夕日」を意味する。ハイネの詩「ローレライ」(Die Lorelei)に以下の一節がある。
Die Luft ist kühl und es dunkelt, und ruhig fließt der Rhein;
Der Gipfel des Berges funkelt im Abendsonnenschein.
「風は冷たく 辺りは暗い 静かに流れるライン川 山の頂は夕日に輝く」
だが英語の abend はそんな美しいものではなかった。アベンド(abend)とは abnormal end、即ちジョブの異常終了を意味した。実行されたジョブが異常終了(アベンド)するとオペレータは「機械事故報告書」(事故票)を起票する運用になっていた。夜間に処理したジョブがアベンドすると、翌朝、事故票が電算課に届けられた。会社に着くと机の上が事故票の山になっていることもあった。
朝一番の仕事はこの事故票の対処だった。ジョブがアベンドするとアベンド・コードがディスプレイに表示され、それが事故票に記載されていた。アベンド・コードによりアベンドの原因が判明した。IBMの「メッセージ&コード」にアベンド・コードとその原因が記載されていた。英文で表記された分厚いマニュアルだった。
データの例外によるアベンドは 0C7、ゼロで割ったら 0CB、その他ファイルのオープン・クローズ関連は 0C1 や 0C4。0CB で意図的にアベンドさせるアプリケーションもあった。
データ媒体関連では、磁気テープのエラーは 213-XX、237-XX、613-XX、637-XX、813-XX など、データセットやボリュームのパンクは D37、B37、E37。そんな電算課サイドが原因の嫌なアベンド・コードは今も脳裏に残っている。
磁気テープには古いものも多くテープエラーの対応には苦労した。ディスクのパンクもデータを他のボリュームに移行するなど手間がかかるものもあった。
エラーテープ修復用の自社開発のコピーソフト(DEBE)を使ったり、IBMのユーティリティ IEBGENER、IEBCOPY、IEHPROGM、IEHLIST、IEHMOVE などを駆使してトラブルの修復を行った。テープエラーの修復では職人芸のような技を見せるオペレータもいた。
電算室内で何時間もそんな作業をしていると……、「最高学府の経済学部を出て俺は一体何をやってるんだろう……?!」のような疑問が湧くことがよくあった。まあ、それなりの対価(給与)が貰えていたことや、同期・同僚と飲んだり歌ったり、夜の街で遊んだりしながらストレスを発散させていた。
事務管理部・電算課に配属された1983年夏、事務管理部同期で泊りがけの旅行に行った。行く先は中央高速で信州方面の温泉だった。SKは体調が悪く来られなかったが、同期男子6名、女子3名の一泊二日の旅だった。
事務管理部同期のOA(火災内務二課出身・後述)が財布以外は風呂桶一つで旅行に参加したこと、新車を買ったばかりで必死にハンドルを握っていたことなど鮮明に記憶に残っている。
旅の帰途、中央高速が渋滞した。渋滞中の山梨県内の路上、車を降りて見上げた星空のなんと美しかったことか。電算課に配属された女子から「〇〇さん!こんな綺麗な星空見たことありますか?!」と言われたことを覚えている。当時の私は24歳。まだまだ夢の中にいた頃だった。
当時の電算課は、どのチームも入社4~5年目の社員が主力になっていた。1984年に入り、運用管理チームの主力、スケジューラー、プロセス、データ管理の各チーフが「新運用チーム」を結成して新しい運用管理システムを模索・検討することになった。
これに伴い、運用管理の現場はチーフが交代、スケジューラーチームは同期のSK、プロセスチームは入社3年目の男性、データ管理チームも入社3年目の男性がチーフに昇格した。
当時、入社4年目(1980年入社)と入社3年目(1981年入社)は、年次こそ1年違いだが、情報システム経験では丸々2年の違いがあった。内務部の研修の有無によるものだが、この二つの世代間の実力には大きな差があった。
また、情報処理の世界では「適性」がものを言った。経験が短くても周りから「あいつはできる!」といわれる若手も多かったし、上司がいくら「××は△△だ」と主張しても、その正当性がコンピュータで即座に判断できた。上でも下手なことは言えない、そういう意味では恐ろしい部門だった。
「新運用チーム」は、課内のシステムチームと連携しながら、システム障害解析ツール Abend-AID、ファイル編集ソフト ADAPT、ジョブ管理・スケジュール管理ソフト A-AUTO、プリント・ログ管理ソフト VPW(Virtual Paper Writer)、出力管理システム RMDS、ライブラリ管理ソフト PANVALETなどを次々に導入していった。
また、従来 は JCLをカードにパンチしてオペレータに委託する原始的な形式のプログラムテストを、PANVALETの DAMライブラリを活用して TSO(Time Sharing Option)からエントリーする形のテストシステム(自社開発)に変更した。これによりプログラム開発効率が飛躍的に改善した。
まさに事務管理部全体(安田火災全体)のシステム開発環境が大きく変わろうとしていた時期だった。
「新運用チーム」が課内・部内で脚光を浴びる中、SKを除く2代目チーフたちの運用管理チーム内での横暴な振る舞いが目立つようになっていた。そんな横暴な振る舞いは「新運用チーム」世代に対する羨みでもあったし、また彼らの実力の無さの裏返しでもあった。
当初、私は先輩でもある彼ら2代目チーフたちを静観していたが、彼らの振る舞いに運用管理チーム内やアプリケーション担当課の女子が泣かされる事態が発生するようになって、SKと協力し、運用管理チーム全体を味方につけながら彼らと正面から対決していった。
電算課・運用管理チームの中で、当時の初代⇔2代目間と2代目⇔3代目間の世代間抗争が同時に発生していた。