英語の散歩道(その22)-不安と甘え | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

198110月下旬のある日の午後、アパートの部屋で何か考え事をしていたとき、それは突然に襲ってきた。それとは猛烈な不安に似た感情である。どうやっても治まらなくなった。また、心臓が早鐘のように鳴っていた。全身の血管で血がドクドクと脈打っている感じがして「血管が破裂するんじゃないか?!このまま倒れるんじゃないか?!」と思った。

 

とにかくアパートを出て一乗寺の街に向かって歩いていた。「何か気晴らしをしなくちゃ!」と思い、とりあえずパチンコ屋に入った。玉を打ってみたがパチンコに集中できるはずも無かった。私の心(脳)は自分の心臓の鼓動ばかりを追い続けていた。

 

そのパチンコ台は結構出ていたが玉を残したままパチンコ屋を出た。パチンコの勝ち負けどころではなかった。外に出ても動悸は治まらず「酒でも飲めば落ち着くか?!」と思った。まだ飲み屋は開いてなく、スーパーで日本酒を買ってアパートに戻った。

 

一杯、二杯と冷や酒を呷った。薬を飲んでいるみたいだった。心は全く酔えなかったが体は酔ってきた。とりあえず横になるといつの間にか眠った。どれくらい眠っただろうか?目が覚めたのは午後8時頃だった。動悸はなんとなく治まっていたが……、自分の意識が動悸に向かい始めたその時、また鼓動が早くなり始めた。息苦しさも同時に発生した。「自分はこのまま気が狂ってしまうんじゃないか?!」のような恐怖が襲ってきた。

 

 

部屋に独りで居ることが怖くなった。文学部のMに電話をかけた。同郷で一つ年上の彼は何かと頼りになる友人だった。「心臓の鼓動が早くて何か息苦しいんよっ!アパートまで来てくれんやろうか?!」と頼んだ。Mは「どうしたんや?とにかく今から行くけ部屋で待っとけ!」と言った。

 

30分くらいしてMがアパートに来た。彼が来ると不思議なことに動悸は治まった。今なら一人で救急病院に行くところだが、当時はそんな社会経験が乏しく、いつも両親や友人たちに甘えていた。まだまだ心が何処か子供のままだった。

 

 

今考えれば、6月の友人の自殺とその対応に追われるなか、就職活動を開始し、上京したり、京都や大阪で多くの先輩方の話を聞いたりした。10月には数社の面接を受け何とか内定を得るまで、短期間に多くの未知の経験が続いた。身体はどうにか着いていけたが、心が無理をしていたように思う。そんなこともこの「発作」の原因の一つだった。

 

だが、当時はそんなことは全く考えず「こんな不安(発作)が起こるのは自分が弱いからだ!もっと精神的に強くならなきゃ!」と観念的に自分を責めていた。不安の正体は何か?どうすればその不安を解消できるか?のような具体的なことは全く考えていなかった。

 

 

他にも、卒業までにもう一つの試練があった。運転免許の取得である。損保の業務に運転免許は必須だった。卒業に必要な単位は取れており、両親とも相談して11月下旬に京都のアパートを引き払い、帰省して親元で運転免許を取ることにした。

 

今なら、京都で免許を取りながら面白そうな授業に顔を出したり損害保険の勉強をしたり、また友人たちと飲みながら最後の学生生活を楽しんだりするだろうが、当時、親元に戻ろうと考えたのも、両親への強い甘えがあったからだと思う。

 

 

帰省してからも、電車やバスの中で急に心臓の鼓動が早くなって苦しくなり、途中で降りたことも何度かあった。そんな症状を抱えて、地元の内科、循環器科、呼吸器科などの病院を受診したが、結果はいずれも「異常なし」だった。今であれば「心療内科」を受診してカウンセリングを受けるだろうが、当時の「精神科」を受診する勇気は無かった。まだまだそんな病気に対する偏見が強かった。

 

 

もともと機械の操作など好きでも得意でもなく、また症状を抱えながらの運転免許の取得は人一倍苦労した。自動車学校(教習所)の教官は60歳過ぎの元タクシー運転手の方だったが、厳しくも温情的な方で、次第に運転の面白さがわかり始めていた。

 

 

そんな日々の中、強烈な思い出を残した1981年が終わった。卒業が視野に入る中、巷では、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」という曲が毎日のように流れていた。