英語の散歩道(その21)-悲鳴を上げる心 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

当初、京大から安田火災には私含めて3名内定していたが、うち経済学部の1名は松下電器産業㈱(現・パナソニック㈱)を選んだ。また、もう1名は法学部で年上の方だったが、その秋、司法試験に合格され法曹界へ進まれた。結局、京大からは私一人だけになった。

 

1981105日(月)。新幹線で京都から東京・新宿の本社へ行き、地上43階、地下6階の本社ビルの上層階の重役室で人事部長から「頑張ってください!」と内定通知を渡された。その時、僭越にも「私の在職中に必ずや東京海上を追い抜いて見せます!」のようなことを口走った記憶がある。人事部長は「力強いお言葉に痛み入ります!」と答えられた。

 

その日、同時に内定通知を渡された学生が他に2名いたが、両方とも見るからに体育会系の学生だった。重役室内に居られた社長室長(実は京大の先輩)が私に話しかけてきた。彼は「見ての通り有象無象も居るが、プライドを失わずに頑張ってくれ!」と言った。この「有象無象」が前述の体育会系の学生を指していることは私にも理解できた。

 

京都に戻ってからも大阪支店主催の内定者の懇親会に出席したり、京都支店の京大の先輩方から誘われて河原町で飲んだりもした。

 

 

10月第二週くらいにはゼミの同期の就職先も凡そ判明した。私のゼミからは、都銀では第一勧銀に2名、三菱銀行に3名が内定、だが三菱銀行の3名のうち2名は、結局、出身県の県庁(千葉県庁と福井県庁)を選んだ。二人とも行政職(上級)だった。ゼミのテーマに最も真面目に取り組んでいた学生は興銀と輸銀(日本輸出入銀行⇒国際協力銀行⇒現・国際協力機構)に内定、輸銀を選んでいた。

 

銀行以外では、私の安田火災の他、民営化前のNTTである日本電信電話公社、広告代理店の博報堂に各1名、その他、1名が大学院に進むために留年を選んだ。

 

第一勧銀に進んだ2名は、ともに工学部からの転学部組で、このうち1名は後に外資系の証券(投信)に転職しアナリストになった。また、博報堂に進んだ学生も、工学部からの転学部組で自動車部に所属、殆ど付き合いは無かったが、博報堂の幹部にまで昇進したようである。

 

 

また、友人関係では、法学部のHが政府系の特殊法人(当時)に決まり、文学部のMは大学院に進むために勉強を続けることを選択した。仲が良かった経済学部のKOは三井物産、その他の雀友たちも住友信託、安田信託、商船三井、また公認会計士試験を受験するため就職しなかった友人もいた。また、一緒に北海道を一周したSは、法学部への学士入学や、留学のために英語の専門学校に通うことを考えていた。

 

 

10月中旬が近づいていた。果たして、このまま安田火災に就職すべきかずっと悩み続けていた。万が一のために必須単位を2単位だけ残していた。その2単位分の「経済学史」のレポートは既に完成しており、その提出期限の1015日(木)が迫っていた。

 

当時の安田火災は「1年研修」という非常に恵まれた制度を新入社員向けに用意しており、損害保険の知識が全くなくても「内務部」でじっくり研修を受け十分な知識を持って入社二年目に各部門・部署に配属されるというシステムになっていた。これを理由に同社を選んだ学生も多く、入社に知識面での不安はさほど無かった。

 

 

父母ともに定年の時期が近づいており弟もまだ大学在学中であり、長男として「就職するしかないか……!」と踏ん切りをつけて「経済学史」のレポートを教務掛に提出した。提出期限の1015日(木)の16:00ギリギリだった。

 

 

それから暫く経った10月下旬、私の心(精神)がついに悲鳴を上げた。