自叙伝(その40)-(補遺)トトロの森へ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

我々が高校時代の1970年代後半、自家用車を持っている家庭はまだまだ少なく、旅行と言えば電車など公共交通機関を利用するのが普通だった。

 

今のように気軽に自家用車でドライブや小旅行ができるわけではなく、旅行自体が特別なイベントであり、より一層記憶に残っているようである。

 

 

私とYが北予備にいた19778月、Rから「家に遊び来んかっ?!」と誘いがあった。Rは既に九州工大の学生で、この年、御父上の故郷である京都郡豊津町(現・京都郡みやこ町豊津)に自宅を新築されて、ご家族ともども小倉南区から引っ越されていた。

 

豊津は、今ならJR日豊本線で行橋まで行き、そこから平成筑豊鉄道に乗り換えて行くが、当時、平成筑豊鉄道は無く、たぶん行橋(?)からバスで向かったと思う。「山の神」(?)のようなバス停か地名が記憶の片隅に残っている。

 

時期は8月上旬、最も暑い頃だった。また、以前「自叙伝(その27)-スランプの出口は雨」にも書いたように、私もYも勉強はスランプの時期ではあった。しかし、結果的には良い気分転換になった。

 

Sが一緒だったのかどうかが思い出せない。また、1年4組で同級のGが居たような居ないような……。GはRと同じ弓道部でRと親交が続いていたと思われるが、一昨年G、Rと3人で会ったとき、彼は都会の予備校に行ってたとの話もあり、果たして豊津に来たのかどうか。その時聞いておくべきだった。

 

 

Rの新宅は、バスで随分と山を登ったところにあった。たぶん、完成直前だったようで、一部扉が取り付けられていないところがあった。夜はいつも通りの酒宴。Rは体質的に酒が飲めないが、お父上が我々の話に入って来られた。御父上は随分上機嫌だったと記憶している。夜は、クーラーなどつけなくても十分涼しい場所だった。

 

翌日、天気は晴れ。Rの自宅を出て辺りを散歩した。お寺がありその周りに森があった。結構広い境内と大きな木。ネットで調べると「豊前国分寺」だったのかも知れない。時は夏休み、今で言えば「となりのトトロ」に出てくるような景色だった。あのジブリのメロディが聞こえてきそうだった。

 

境内で何かして遊んだと思うが思い出せない。でも、そこには間違いなく4人か5人居た。寺に行く途中か帰る途中、墓地を通り抜けた。ある墓標にご夫婦の名前が書かれており「天に在りては願わくは比翼の鳥と()り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん」と刻まれていた。

 

これは、男女の情愛、特に夫婦の情愛がきわめて深く仲睦まじいことの喩えで、白居易の「長恨歌」の中の一節だが、きっと仲の良いご夫婦だったのだろう。そうなりたいものである。

 

 

いつもながら、肝心なものは忘れて妙なものは覚えている。偶然の一致だが、翌年の京大の漢文、同じ白居易の「荔枝図」が出題されることになった。

 

 

R宅からの帰途は全く思い出せないが……、トトロの森に包まれたお寺と広い境内、墓標に刻まれた白居易の一節。浪人中の盛夏、勉強を忘れることができた貴重な一時となった。しかし……、私とYは翌日から、再び「赤標」と向き合うことになる。