自叙伝(その28)-豪農の末裔 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

西高同窓のEが、太田裕美の「九月の雨」の替え歌を作った。

 

「♪~自転車こいでバットを持って浜辺へ向かう黒い影 (ふんどし)引き締め浜辺の上でバットを一振りロウソク消えた セプテンバーウェーブ・ウェーブ九月の波は冷たくて~~♪」

 

これはアニメ「巨人の星」で、星飛雄馬のライバルの一人、左門豊作が赤褌一つで「魔球」を打つためにバットで波を打ちながら訓練している様子を歌ったものだが、彼に何故こんな発想が浮かんだのかは不明。たぶん、受験のストレスからバットで波を打ちたかっただけだろう。「九月の雨」を聴くと、今もEが赤褌一つでバットを持って波に立ち向かうシーンが時々浮かぶ。

 

 

 

Eは1浪で神戸大を受験したが叶わず2浪。2回波(浪)を打った。翌春九大・経済に進んだ。九大で軟式野球同好会に入り、やっとバットを振った。

 

 

私が大学一年の夏休み、2浪中の彼の様子を見に自宅を訪ねた。Eの世帯は三世代同居で祖父母は農業を営んでおり、地主だったようである。

 

ちょうど彼の母親と祖母が庭先で何か作業をしていた。突然、「お母さん!○○君、京都のストリップ劇場で呼び込みのアルバイトをしとるっちよ!」とEが言った。母親は「あ〜ら!本当ぉ!」と答えると普通に庭仕事を続けた。否定する間も無かった。

 

軒先に玉ねぎがたくさん吊られていたが、今度は「ばあちゃん!○○君、生の玉ねぎが大好物っちよ!」と言うと、祖母は「何ぼでもお食べっ!」と私に言った。生ではあまり食べたことがなかったが、夕食はカレー……。案の定、山のようにオニオンスライスが出た。確かに甘くて美味かった。

 

夜。Eの幼馴染みのろくでもない輩たちもやってきて麻雀となった。例の倉高、ラ・サール、熊本マリストの友人たちである。彼らはそれぞれ、早稲田・商(但し、仮面浪人中)、慶応・経済、早稲田・政経に進んでいた。

 

夜中。Eにツキが回ってきたようで絶好調になった。そのとき誰かが歌った。「神戸ぇ~、泣いてどうなるのかぁ~、捨ぅてられたわが身がぁ~、みぃじめになるだけぇ~」。Eは「貴様ぁ~ん!その曲はやめれっち!その曲だけは歌うなっち言うとろうがっ!」と怒り狂ったが……、ついには『そして神戸』の大合唱になった。Eのツキも程なくしぼんでいった。

 

 

 

Eが2浪を楽しんでいる(?)ように思えて、翌日安心して帰宅した。それにしても、Eのお母上の料理は実に美味かった。それを聞いて、私の母もソーメンの出汁の作り方などをEの母親に電話で教えてもらったりしたらしい。

 

九大・経済学部卒業後、Eは日本生命に進んだ。最初の配属は福岡で、福岡時代に職場結婚した。1987年頃で、披露宴は確か小倉の「玉姫殿」。ドライアイスのスモークとゴンドラの派手な演出だったと記憶している。Eの幼馴染みたちとはその夜飲んだのが最後である。

 

 

Eの話を書き始めたら、本題に戻れなくなってしまった。全くエピソードの多い男である。次回は再び予備校の夏、苦難の日々に戻る。