「国立の思い出」(その①) | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

先日、仕事である方と面談した際、東京都国立市の話題になった。その方の娘さんが国立市の大学に進学したらしい。

 

東京で勤務した頃、国立市に1年ほど暮らしたことがある。残念ながら大学がある駅の南口ではなく北口の方だ。平成が始まったばかりの頃だった。

 

それより10年ほど前、学生時代に一度国立市を訪ねた。予備校の頃の友人が大学の学園祭に呼んでくれたからである。彼は一浪して早稲田に進学したが、夢を捨てきれず1年の仮面浪人(通算で二浪)の後、一橋の商学部に進んでいた。

 

私の受験生時代(昔々ではあるが)は、まだ「センター試験」前の「共通一次」すら無い頃で国立大学の試験は基本的に記述式の一発勝負だった。そんな中、当時から一次試験、二次試験を実施していたのが、東大、一橋と東京外大だった。

 

一次試験は東大が5科目(国・数・英・社2・理2)の客観式試験、一橋は英・数の2科目の記述式、東京外大は英語1科目の記述式だった。東大一次は16点×5科目の80点満点だったが、受験生の足切りに使われたようである。

 

試験はともあれ…、京都から東京まで新幹線で行き、東京駅から中央線で国立駅にたどり着いたが、携帯電話がない当時、彼の下宿に電話するも繋がらず、夕刻迫る晩秋の東京で途方に暮れた。

 

結局、千葉県柏市に住む叔父に連絡が取れ、その日は叔父のところに泊まり、夜友人と連絡が取れて翌日再度国立へ。でもこの上京、決して学園祭を楽しんだのではなく、単に東京の大学に進んだ同郷の友人たちと飲んだり麻雀したりしただけであった。

 

一橋には当時「中和寮」という学生寮があって、麻雀はその寮の「麻雀部屋」で行った。この「中和」の「中」にニスイを付けて「冲和」とすると、麻雀の反則行為「チョンボ」になるから面白い。麻雀するための寮か?などと考えた。

 

中和寮には風呂場があったが、寮外の学生も入浴しており夜10時を過ぎるとお湯が濁って耳を着けると中耳炎になる、との噂から「中耳炎の湯」と呼ばれていた。この風呂を使わせてもらったと思うが、幸い中耳炎にはならなかった。

 

麻雀は、既に就職が決まった一橋4年の先輩方とも打つことになったが、その中に今でも覚えている人がいる。名前が思い出せないので、とりあえずPさんとしておこう。